第57話 断層域深層
ネヴァの無色平原は、相変わらず色を持たない風景だった。
草は揺れ、空も広がっているが、どこまでも薄い景色。青でも緑でもない、ただそこにあると分かるだけの世界。三人の足音だけが、静かに平原に吸い込まれていく。
前を歩くレオンが、振り返らずに言った。
「前より遠く感じるな」
ルーミアは小さく頷く。
「……一度通ったから? でも戻るって、そういうものなのかも」
ノエルが隣で歩きながら、わずかに笑った。
「帰る場所じゃなくて、進む場所になったからじゃない?」
三人はもう、偶然ここへ来た旅人ではない。断層域へ向かう理由を知り、その中心に何があるのかを知り、それでも進むと決めた者たちだった。
やがて、地面の色がさらに薄くなる。草の輪郭が曖昧になり、石が灰白色に変わる。
そこが断層域の外縁だった。
大地には無数の亀裂が走り、細い線が蜘蛛の巣のように広がっている。風は弱いのに空気は重く、音が遠くなるような、妙な圧迫感がある。
ルーミアは足を止め、亀裂の奥を見つめた。
無数の色糸が、地面の奥へ流れている。前に来た時と同じ光景。だが今は、恐怖よりも先に理解ができる。
「……吸われてる」
「もう見えてるの?」
ノエルが問う。
「うん。全部下に流れてる。怒りも、悲しみも、後悔も……全部」
レオンが地面を軽く蹴る。
「世界中の感情が、ここに落ちてるんだな」
「行くわよ」
ノエルが言う。
三人は、亀裂を越えて断層域へ足を踏み入れた。
一歩目で、風が止まり、音が遠くなる。足音だけが、妙に大きく聞こえる。
そして、すぐに現れた。
岩の陰から這い出るように、黒い影が動く。四足の獣のような形だが、毛も皮もない。石のような体に、歪んだ裂け目のような模様が走っている。目の代わりに、空洞が二つ。
「……残滓獣」
ルーミアが小さく呟く。
レオンはすでに剣を抜いていた。
「来るぞ! 構えろ」
残滓獣は音もなく地面を蹴った。跳ぶというより、滑るように距離を詰める。レオンが横へ踏み込み、斜めに剣を振る。刃が石のような体を裂き、黒い欠片が散る。だが、倒れない。
「思ったより硬ぇな!」
ノエルが短剣を抜き、側面へ回る。残滓獣が振り向くより早く、脚の関節へ刃を滑り込ませる。石が砕ける音とともに、残滓獣の体勢が崩れる。
だが、崩れながらも腕のような部位が伸び、ノエルへ叩きつけられる。ノエルは後ろへ跳び、ぎりぎりで避ける。
「もうちょっと、大人しくしててよね」
ルーミアは戦闘の後ろで、残滓獣を見ていた。体ではなく、糸を見る。残滓獣の中で、濃い色糸が渦を巻いている。怒り、恐怖、後悔、執着。様々な感情が絡まり、結び目のようになっている。
(あれ……)
結び目が見える。糸の塊、絡まったままの感情が。
「レオン! 少し止めて!」
「五秒な!」
レオンが残滓獣の前へ出て、正面から剣を叩きつける。残滓獣の注意がレオンへ向く。その瞬間、ルーミアは一歩前へ出た。
右手を前へ伸ばす。
「色糸接触」
空中に細い糸が伸び、残滓獣の体の中へ入り込む。ルーミアは目を細め、結び目を探す。
あった。さっきの濃い塊。怒りと後悔が絡まった結び目。
「……そこ」
指先をパチンと弾く。
結び目がほどけ、ぱき、と小さな音がした。
次の瞬間、残滓獣の体が崩れた。石の塊が力を失ったように崩れ落ち、黒い欠片になって地面へ散る。
レオンが剣を下ろし、目を丸くする。
「……倒したのか?」
「結び目を解いてみたの」
ルーミアが答える。
「残滓獣は、生き物じゃなくて、感情の塊。それならいけるかもって」
ノエルが崩れた残骸を見下ろす。
「なるほどね。編まれていない感情の塊、か」
レオンは剣を肩に担ぎ、苦笑する。
「つまり、ルーミアの専門分野ってわけだ」
ルーミアは少しだけ笑った。
「うん。戦うんじゃなくて、ほどく」
断層域は、外縁だけでも十分に異様だった。地面は裂け、色は抜け、感情は吸われ、複数の残滓獣が徘徊している。
だが、奥へ進むほどに、異常はさらに増していく。
少し歩いたところで、レオンが立ち止まった。
「……なあ」
「なに?」
ノエルが振り返る。
「さっきから、足音が変だ」
風はなく音もない。だが、ほんの一拍遅れて、コツ、と足音が聞こえた。
自分たちの足音が、遅れて聞こえる。
ルーミアは地面を見ると、影ですら少しだけ遅れて動いている。
「……音が、遅れてる」
「影もずれてるわ」
ノエルが言う。
空気が重いのではない。空間そのものが、少しだけ歪んでいる。
「たぶん中心に近づいてる証拠だよね」
ルーミアが静かに言う。
色糸の流れが強くなっている。すべての糸が、同じ方向へ引かれている。まるで巨大な渦の中心へ向かうように。
三人は口数を減らし、さらに奥へ進む。やがて、地面の色が完全に抜けた。まるでガラス張りのような、白でも灰でもない、ただ輪郭だけがある世界。
音がほとんどせず、風もない。空気が動かないという表現が正しいかもしれない。
その遠くに、ひとつの光が見えた。地面の奥から、淡く揺れる光。
ルーミアは立ち止まり、息を飲む。
「……あれが」
誰も答えない。だが三人とも分かっていた。
断層域の中心。
感情が集まり、世界の色が落ち続ける場所。
三人は、光の方へ歩き出した。
だが、光は遠くに見えているのに、なかなか近づかなかった。
歩いている距離の感覚と、景色の変化が一致しない。進んでいるはずなのに、世界の奥行きが歪んでいるような感覚がある。地面は色を失い、空も輪郭だけのように薄い。
三人の足音は、相変わらず一拍遅れて聞こえていた。
コツ、……コツ。
自分の足音が、少し遅れて追いかけてくる。
「……酷い感覚だな」
レオンが小さく呟く。
「時間がずれて、頭がおかしくなりそうだ」
ルーミアは答えず、前を見ていた。色糸の流れが、どんどん強くなっている。今まで見たことがないほど濃い糸が、地面の奥へ落ちていく。
怒り、悲しみ、後悔、喜び、愛情、憎しみ。様々な色が、細い糸となって一本の流れになり、光の方へ吸い込まれている。
世界中の感情がここへ集まっている。
その時、地面が鳴り、振動が走った。
ぐ、と重い音が足元から響き、地面の裂け目の奥で、何かが動いている。三人は同時に立ち止まり、武器に手をかけた。
裂け目の奥から、ゆっくりと影が這い上がってくる。
「また残滓獣?」
だが、外縁で出会ったものとは大きさが違う。人の背丈の三倍はある。四足ではなく、歪な二足で、腕のようなものが異様に長く、体は石と影が混ざったような形をしている。
体の中心に、濃い色の塊が脈打っているのが見えた。
「……でかいな」
レオンが見上げて言う。
「中層でこの大きさなの?」
ノエルが短剣を構える。
残滓獣はゆっくりと頭を上げ、空洞の目を三人へ向けた。次の瞬間、地面を砕きながら一気に距離を詰めてくる。
レオンが前へ出る。
「どうしてこうも、揃って敵意剥き出しなんだよ!」
振り下ろされた腕を剣で受け止める。鈍い音とともに腕の重さが剣にのしかかる。レオンは足を踏み込み、横へ弾く。その隙にノエルが側面へ回り込み、脚の関節を斬りつける。
「おらぁぁぁ!」
初めて聞くレオンの雄叫びとともに石が割れる音がする。残滓獣の体が揺れたが、それでも倒れない。中心の色の塊が、さらに強く脈打つ。
「ルーミア!」
「分かってる!」
ルーミアは糸の流れを探る。結び目、感情の塊。外縁の個体よりも、ずっと複雑に絡まっている。
怒り、後悔、恐怖、執着。ほどけないまま固まった感情が、核の周囲で絡まり続けている。
(……あれを解けば)
右手を前へ伸ばす。
「いくよ! 色糸接触」
指先を強く弾く。
一つ目の結び目がほどける。残滓獣の動きが一瞬止まる。
「もう一つ……!」
レオンが正面で剣を振り続け、ノエルが横から斬りつけて時間を稼ぐ。その間に、ルーミアは二つ目の結び目を見つけた。
後悔と怒りが絡んだ塊。
指先を、もう一度弾く。
ぱちん、と小さな音。
次の瞬間、残滓獣の体がようやく崩れた。巨大な体が内側から砕け、石の破片となって崩れ落ちる。中心にあった色の塊も、霧のようにほどけて空中に散った。
レオンが剣を肩に担ぎ、息を吐いた。
「……便利だな、その魔法」
「本来、戦う魔法じゃないんだけどね」
ルーミアが少しだけ笑う。
三人は再び歩き出す。光は少しだけ近くなっていた。だが同時に、周囲の異常もさらに強くなる。
音がほとんど聞こえない。自分たちの呼吸音すら、遠くから聞こえるようだ。影は足元にあるのに、わずかに遅れて動く。
そして、気づく。
「……静かすぎる」
レオンが呟く。
残滓獣の気配もない。世界から音が抜け落ちたような静寂。
ルーミアは、胸に手を当てた。
鼓動だけが、やけにはっきり聞こえる。
どくん。
どくん。
自分の心臓の音だけが、この世界に残っているようだった。
やがて三人は、崖のような裂け目の縁に辿り着いた。
そこは、今まで見たどの亀裂よりも大きかった。円形に大地が崩れ、巨大な穴が口を開けている。底は見えないが、その奥から光が溢れている。
光は揺れている。炎のようでも、水面の反射のようでもある。不規則に脈打ち、呼吸するように明滅している。
そして、見えた。
無数の色糸が、空から地面へ落ちている。
世界中から伸びた糸が、この穴へ集まっている。怒りの赤、悲しみの青、喜びの金、後悔の灰、愛情の柔らかな光。
すべての色が、ここへ流れ込んでいる。
ルーミアは、息を呑んだ。
「……ここが」
ノエルが静かに言う。
「中心ね」
レオンは穴の奥を見下ろす。
「下に、何かある」
光の奥に、ぼんやりと形が見える。結晶のような、半透明の塊が地面から突き出ている。
それが、脈打っている。光と一緒に、ゆっくりと。
ルーミアの喉が、かすかに鳴った。
「……縫合核」
誰も否定しなかった。
世界中の感情が集まる場所。色が落ち続ける場所。アウレリアが作った、感情を集めるための装置。
三人は、しばらく動かなかった。
ようやくここまで来た。
ルーミアは、一歩前へ出る。
「……行こう」
ノエルが頷き、レオンが剣を握り直す。
三人は、縫合核へ続く斜面を、ゆっくりと降りていった。
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