第56話 未完成の続きを
アルケイア大典庫の閲覧区画には、相変わらず静かな時間が流れていた。外の町の音も、塔の内部ではほとんど届かない。紙をめくる音と、遠くで誰かが椅子を引く小さな音だけが、時々空気を揺らす。
ルーミアは、机の上に積まれた資料の一冊を閉じた。
断層域、縫合核、残滓獣、色彩の魔導士アウレリア、そして完全詠唱。
ここ数時間で読んだ内容が、頭の中でゆっくりと整理されていく。
「……ねえ、ノエル」
ルーミアが小さく声をかける。
「完全詠唱って、詠唱文があるわけじゃないみたい」
ノエルは手元の資料から顔を上げた。
「少なくとも、定型の詠唱文は存在しないみたいね」
「じゃあ、どうやって起動したらいいんだろ」
ノエルは少しだけ考えてから、資料の一節を指で示した。
『詠唱文は術式固定のための補助ではなく、術者の精神状態と感情の指向性を固定するためのものである』
ルーミアはその文章を声に出して読んだ。
「……精神状態と、感情の指向性」
「つまりね。詠唱文は魔法の言葉じゃないの。自分の感情を固定する言葉」
ノエルが言う。レオンが腕を組んだまま言う。
「よく分からねえな、魔法は」
「魔法陣みたいなものよ」
ノエルは説明する。
「魔法陣は形で術式を固定するでしょ。詠唱文は言葉で術式を固定する。でも完全詠唱は違う」
ノエルは資料を閉じ、ルーミアを見る。
「完全詠唱は、術式じゃなくて、意思を固定するの」
ルーミアは少しだけ目を瞬いた。
「……意思」
「したいこと、残したいこと、編みたいこと。それを言葉にして固定する。それが完全詠唱」
ルーミアは机の上の紙に視線を落とした。自分のやりたいことを、言葉にする。
「じゃあ……詠唱文は」
「術者が自分で作る、ってことね」
ノエルが答える。レオンが小さく息を吐く。
「魔法って面倒くせえんだな。剣でぶっ叩いたらよくなったりしねぇか?」
ノエルは少しだけ笑った。
「あんた……前はクールな感じだったのに、中身は案外脳筋なのね。まあおそらく、一番面倒くさい魔法よ」
ルーミアは、しばらく黙っていたが口を開く。
「……完全詠唱って魔法っていうより、約束みたいだね。自分への約束、みたいな」
ノエルは少しだけ目を細めた。
「ええ。元はそうなのかも」
ルーミアは、次の資料を手に取った。完全詠唱に関する記録は多くない。理論書と、いくつかの実験記録の断片だけだ。
「……代償についても、あんまりはっきり書いてないや」
ページをめくりながら言う。
「ほとんど推測ね。完全詠唱の記録自体が少ないのよ」
ノエルが答える。
「使った人が少ないってこと?」
「使えた人が少ない、が正しいわね。魔術師の少なさは、あんたも理解してるでしょ」
ノエルは別の資料を開いた。
『完全詠唱は魔力消費とともに、術者の精神的・記憶的資源を消費する可能性がある』
「……精神的、記憶的資源、か」
ルーミアが読み上げる。ノエルが言う。
「あくまで可能性だと思いたいけど、感情や記憶、自分自身の一部を燃料にしている可能性があるってこと」
レオンが言う。
「魔力だけじゃ足りねえんだな」
ノエルは静かに答える。
「世界の構造に触る魔法だもの。認めたくないけど、そう推察されるのも合点はいく」
「何を失うかも分からない。感情なのか、記憶なのか、別の何かかもしれない」
レオンが机に肘をついたまま言う。
「……ルーミアは、どう思ってる?」
「使ってみないと分からない、かな」
ルーミアが答え、それにノエルは静かに頷く。
「ただ、あくまで全部推測よ。可能性があるってだけ」
ルーミアは資料を閉じた。感情を使い、記憶を使い、自分自身を使う魔法。
「……怖い?」
ノエルが静かに聞いた。ルーミアは少しだけ考えてから、正直に答えた。
「怖いよ」
嘘ではなかった。怖くないわけがない。何を失うか分からない。魔法を使ったあと、自分がどうなっているかも分からない。
「でも、やらなきゃ断層域は止まらない」
ノエルは何も言わない。レオンも黙っている。
ルーミアは机の上に置いた手を見つめた。
「世界を救うとか、そういうのはよく分からないけど、編みかけのまま終わるのは、嫌」
ノエルが、ゆっくりと息を吐いた。
「……あんたらしいわね」
塔の外で、鐘の音が鳴った。鈍い音が、ゆっくりと町に広がっていく。ルーミアは、その音を聞きながら小さく呟いた。
「詠唱文、考えなきゃ」
ノエルが言う。
「私もできる限り、手伝わせて」
アルケイア大典庫を出ると、外の空気は少しだけ冷たかった。
エイデリアの町は夕方になると一層静かになる。研究と書物の町らしく、酒場の喧騒もなければ、広場の賑わいもない。ただ、石畳を歩く靴音だけが、乾いた音を立てる。
三人は宿へ戻る途中、ほとんど言葉を交わさなかった。話すことがないわけではない。むしろ、話すことは多すぎた。ただ、どれも軽く口に出せる内容ではなかった。
宿に戻ると、三人は同じテーブルに座り、遅い夕食をとった。パンとスープと、干し肉の簡単な食事。特別なものは何もない。だが、旅の途中で何度も食べてきた、慣れた味だった。
「……久しぶりね、こういう普通の食事」
ノエルが言う。
「断層域の近くじゃ、落ち着いて食えなかったからな」
レオンが答える。
ルーミアはスープを一口飲んで、首を傾げた。味は分かる。塩味も、少しだけ入っている香草の匂いも分かる。でも、美味しいとか、嬉しいとか、そういう感情には遠かった。
「明日、出るの?」
ルーミアが聞く。
「ええ」
ノエルが答える。
「準備は整った。資料も読んで、地図も確認して、退路も考えた。断層域の外縁から入って、前回の地点まで戻る」
レオンが言う。
「そこから中心方向へ進む。残滓獣は俺が止める」
「私は周囲の感情の流れを見る。縫合核の位置が分かれば、そこまでのルートを決める」
ノエルが続ける。
二人の会話は、いつもの旅の計画と同じだった。特別な作戦には思えないような、危険な場所に行く前の、いつもの打ち合わせ。
ルーミアはその会話を聞きながら、少しだけ安心していた。明日やることが、特別なことじゃないような気がしていた。
ただ、少しだけ危険な場所に行くだけ。
ただ、少しだけ大きな魔法を使うだけ。
「……ねえ、レオン」
ルーミアが言う。
「どうした?」
「完全詠唱してる間、動けないと思う」
「だろうな。詠唱してるやつが動き回る魔法なんて、俺は聞いたことねえ」
レオンはあっさり答える。
「その間、守ってくれる?」
レオンはパンをかじりながら言った。
「当たり前だ」
それだけだった。特別なことは何も言わない。
「俺は魔法は分からねえが、物理的なものからなら守ることはできる」
レオンは続ける。ルーミアは小さく笑った。
「頼もしい」
「だから、お前自身のやるべきことに集中しろよ」
ノエルは二人のやり取りを見ながら、小さく息を吐いた。
「……本当に行くのね」
その言葉に、ルーミアは少しだけ考えてから頷いた。
「うん」
「やらなくてもいいのよ? これは、あんたの仕事じゃない」
ノエルが言う。ルーミアは少しだけ首を傾げた。
「まあ、仕事じゃないね」
「ルーミア、これはあんたにしかできないこと。だけど、何も世界を救う義務なんてない。少なくとも、私個人の意見を言っていいのなら、正直、行ってほしくない」
ルーミアは少しだけ笑った。
「私は……世界を救えるとは思ってないよ」
「じゃあ、どうして行くの?」
ノエルは静かに聞いた。
ルーミアは少しだけ考えた。
断層域の光景や残滓獣。
吸い込まれていく色糸。
アウレリアの記録。
ここまでの旅で出会った人たちや母のこと。
いろいろなものが頭に浮かんで、そして、最後に残った言葉をそのまま口に出した。
「断層の中で、縫合核の中で、立ち尽くしてる感情がある。あの色糸たちを……編みかけのまま終わるのが、嫌だから」
ノエルは、しばらく何も言わなかった。それから、小さく笑った。
「本当に、あんたらしい理由ね」
夕食が終わり、それぞれ部屋へ戻った。宿の部屋は簡素で、木のベッドと小さな机があるだけだ。窓を開けると、エイデリアの町の灯りが静かに並んでいるのが見える。
ルーミアは窓の前に立ったまま、しばらく外を見ていた。
遠くで、また鐘の音が鳴っている。
完全詠唱は、何を失うか分からない魔法。
感情かもしれない。記憶かもしれない。
もっと別の何かかもしれない。
自分が、自分じゃなくなるかもしれない。
それでも、不思議と後悔はしていなかった。
「……アウレリア」
小さく名前を呼ぶ。
世界に色を与えた魔導士。
世界を直そうとして、途中でいなくなった魔導士。
「途中まで編んだんだよね」
窓の外の空を見上げる。星は少ないが、薄い色の空が広がっている。
「じゃあ、続きは私がやる」
誰に言うでもなく、静かに呟く。
世界を救うわけじゃない。英雄になりたいわけでもない。
ただ、途中で止まってしまったものを、最後まで編むだけ。
ルーミアは窓を閉め、ベッドに座った。
目を閉じると、色糸が見える。無数の糸が絡まり、ほどけ、揺れている。その中心に、巨大な結び目のようなものがある。
「……待ってて」
小さく呟く。
「今、編みに行く」
翌朝、空は薄く曇っていた。エイデリアの門を出ると、ネヴァの無色平原が広がっている。その先は、アウレリア断層域。断層域の霞が、遠くに揺れていた。
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