第55話 色彩の魔導士アウレリア
アルケイア大典庫の上層は、下層とはさらに神域のような空気を纏っていた。
断層域の資料が置かれていた第三層よりさらに上。そこには歴史書、神話、古文書、失われた文明の記録が収められている区画があった。書架はさらに古く、紙ではなく羊皮紙や金属板に刻まれた記録も多い。
「この辺りね」
ノエルが一冊の古い本を引き抜く。革の表紙は擦り切れ、題名はほとんど読めない。慎重に卓の上へ置き、ゆっくりと開く。
中の文字は古い書体だった。だが保存状態は良く、綺麗に保たれている。
「……神話集?」
ルーミアが覗き込む。
「ええ。でも、エイデリアの神話集はただの物語じゃないの。真実の歴史と混ざってるのに、世に広められていないものも多くある。そこに、また手がかりがある気がするの」
ノエルはページをめくる。
『昔、この世界に色はなかった』
最初の一文は、自身の当たり前、その根底が覆る文から始まっていた。
ルーミアは思わず息を止める。
色がなかった世界。自分たちが生きているこの褪せていく世界よりも、さらに色のない世界。
『人は飢え、眠り、子を残し、老いて死んだ。それだけの生き物だった』
レオンが腕を組む。
「……つまり、欲がなかったってことか」
「ええ」
ノエルが頷く。
「生きるための欲求だけ。食べる、眠る、子を残す。それ以外の欲求はほとんどなかったらしい」
「夢とか、目標とか、そういうのは?」
「記録には、ほとんど出てこない」
ページをめくる。
『人は争わなかった。だが、笑いもしなかった』
「平和だったのか、空っぽだったのか」
レオンが言う。
ノエルは答えないまま、次のページを開いた。
『その時代に、一人の異端が生まれた』
そこから文章の書き方が変わる。神話ではなく、記録に近い書き方になる。
『彼女は、生まれながらにして強い感情を持っていた』
『喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、憧れ、嫉妬、誇り、絶望』
『人が持たない感情を、彼女はすべて持っていた』
ルーミアは、ページの文字を目で追う。
『彼女は孤独だった』
その一文だけ、やけに短かった。
『人は彼女を理解できなかった』
『彼女は人を理解できなかった』
『だが彼女は、人と話したかった』
ルーミアの指が、ページの端で止まる。
『笑って、怒って、泣いてほしかった』
『自分と同じように、生きてほしかった』
ノエルが静かに言う。
「……これが」
ページの下に名前が書かれていた。
『色彩の魔導士 アウレリア』
ルーミアは、その名前を目でなぞった。
アウレリア。断層域と同じ名前だ。
「魔導士って言葉、この時代からあったのか?」
レオンが言う。
「後世の呼び方ね」
ノエルが答える。
「この時代はまだ、魔導士なんて存在しなかった。だから、魔導士の始祖みたいなものなんでしょうね」
ページをめくる。そこからは、記録の形式が少し変わっていた。神話と歴史の中間のような文章。
『アウレリアは、人に感情を与える方法を探した。言葉を教え、歌を教え、絵を描き、物語を語った。それでも、人は大きく変わらなかった』
ルーミアの胸にチクリとする痛みを感じた。
アウレリアはきっと、ずっと一人だったのだ。
『彼女は、魔法を使った』
『世界に色を与える魔法』
レオンが小さく息を吐く。
「……世界規模? そんなこと、できるのか」
「始祖ならできたんでしょうね。それに断層ができるまでは、世界は今より狭かったって説もある」
ノエルが言う。
ページをめくっていく。
『人が笑うと空が水色に。人が怒ると火が赤く。人が悲しむと雨が灰色に。人が愛すると、花が愛によって様々な色を持った』
ルーミアは、その文章をじっと見ていた。
『感情が生まれるたび世界は色づき、世界は少しずつ、色を持つようになった』
静かな文章だった。ノエルが本を開いたまま言う。
「つまり、世界の色は自然に存在していたんじゃない」
「作られたもの」
レオンが言う。
「ええ」
ルーミアは、ゆっくりと息を吐いた。
世界の色。その全部が最初からあったわけではない。
一人の魔導士が、人の感情と一緒に、世界に与えたもの。
「……すごい人だね」
ルーミアが言う。
ノエルは少しだけ考えてから答えた。
「ええ。たぶん、世界を一度作り直した人、と言ってもいいかも」
次のページには、こう書かれていた。
『人は感情を得て、争いも得てしまった』
その一文の後から、文章の調子が変わっていた。神話のような柔らかい文章ではなく、歴史書のような記録に近い文体になる。
『人は喜び、怒り、悲しみ、楽しんだ。それと同時に、人は誇り、嫉妬し、愛し、憎んだ』
『人は夢を持ち、目標を持ち、富を求め、力を求め、そして争った』
戦争の記録や飢饉の記録、奴隷制度に差別、宗教争いや領土争い。書かれているのは、長い争いの歴史だった。
レオンが言う。
「色が増えたら、こうなるか」
「ええ」
ノエルが静かに答える。
「感情が増えれば、欲も増える。欲が増えれば、衝突も増える」
ルーミアはページを見つめたまま言う。
「……でも、笑うようにもなったんだよね」
ノエルは少しだけ間を置いてから頷いた。
「そうね。泣くようにも、怒るようにも、愛するようにもなった」
ページを進めていく。
『人は言った。感情があるから争いが起きるのだ、と』
ルーミアの指が止まる。
『怒りがなければ戦争は起きない。嫉妬がなければ差別は起きない。悲しみがなければ苦しみはない』
『ならば、感情を薄めればいい』
その発想の冷たさが、紙の向こうから伝わってくるようだった。
ノエルが次の資料を開く。そこには魔術理論のような文章が並んでいた。
「……感情抑制魔法」
レオンが眉をひそめる。
「そんなもの、作ったのか」
「ええ。アウレリアの後の時代の魔導士たちがね」
ノエルは資料を読み上げる。
『怒りが減り、戦争は減少した』
『恐怖が減り、犯罪は減少した』
『悲嘆が減り、自殺は減少した』
「……いいこと、に見えるな」
レオンが言う。
「そうね。ここまでは」
ノエルは頷く。次のページを開いた瞬間、文章の雰囲気が変わる。
『怒りを消すと喜びも弱くなり、悲しみを消すと愛も薄くなった』
レオンが言う。
「……当たり前だな」
ページをめくる。
『世界の色が、再び薄くなり始めた』
その一文の下に、複数の観測記録が並んでいた。
『空の青が薄くなる現象を確認』
『植物の色素減少。海の色の変化。感情反応の全体的減衰』
『これを褪色現象と呼称する』
ルーミアは、ゆっくりと息を吸った。
褪色のはじまり。今、自分たちが生きているこの世界の現象。それが、ここに書かれている。
『最初に大規模褪色が確認された地点を、アウレリア断層域とする』
断層域は、ただ崩れた場所ではない。褪色が最初に始まった場所。ページの最後の方には、アウレリアについての記録が残っていた。
『晩年のアウレリアは、世界の褪色を止める方法を探していた』
『彼女は、自らの魔法では既に、世界全体を再着色できないことを理解していた』
『そこで、彼女は一つの装置を設計した』
ルーミアの指が、ページの端で止まる。
『失われた感情の色を一度集め、集まった色を再び世界へ戻すための装置』
ノエルが静かに言う。
「……この形」
「さっきあったな。縫合核って呼ばれてたやつだろ」
レオンが続ける。
『アウレリアは、この装置の完成を待たずして処刑された』
静かな文章だった。だが、その一文だけ、やけに短く思えた。
ルーミアは、その文章を何度も読み返した。
世界に色を与えた魔導士。
世界を救おうとした魔導士。
その人が、最後は処刑された。
「……なんで」
ルーミアが震えた声で小さく呟く。
ノエルは本を閉じずに言った。
「きっと、恐れられたのよ。世界を変える力を持った人は、それだけ影響力を持ってしまうもの」
レオンが言う。
「世界を作ったやつを、世界が殺したのか。笑えねえな」
誰も否定しなかった。
ルーミアは、静かに本を閉じた。
アウレリア。
世界に色を与え、世界を救おうとした人。そして、世界に殺された人。
しばらく誰も何も言わず、塔の中も静かだった。紙をめくる音も、遠くの足音も、一帯に響くほどに。
ルーミアは、ゆっくりと窓の方へ歩いた。高い位置にある小さな窓からは、ネヴァの無色平原が見える。そしてその向こうに、断層域がある。
アウレリアが作った、失われた色を集めるための装置。
それが、今は断層域の中心にある。
「……同じだ」
ルーミアが小さく言った。
「なにが?」
ノエルが聞く。ルーミアは少しだけ考えてから答える。
「アウレリアも、私も」
少しだけ笑う。
「世界を救おうとしてるんじゃなくて、誰かのために魔法を使ってる」
ノエルは何も言わない。
レオンが言う。
「いいんじゃねえか? 間違ってるとは思わねえ」
ルーミアは窓の外を見たまま、小さく頷いた。
これは、世界を救う魔導士の物語ではない。
誰かのために魔法を使う人の物語だった。
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