最終話 褪せゆく世界で、色を見ない少女
朝の海は、静かだった。
セライド=ノアの朝は、波の音から始まる。遠くで砕ける水の音が、ゆっくりと坂道を登ってきて、白い家々の間を抜け、窓の隙間から部屋の中へ入り込む。
ルーミアは、その音で目を覚ました。
天井を見上げる。見慣れた木の天井。ルミナリア療術院の白い天井ではない。自分の家の天井だと分かるまで、少しだけ時間がかかる癖が、まだ残っていた。
左側の視界は暗い。右目だけで部屋を見ることにも、もう慣れている。視界は少しだけ狭いが、歩くのに困るほどではない。
体を起こし、窓の外を見ると、朝の光が海の方から差し込んでいる。海の色は、ここからでも分かる。青い。少しだけ薄いけれど、それでも確かに青だった。
「……いい天気」
小さく呟いて、ベッドから降りる。床は少し冷たい。廊下に出ると、台所からスープの匂いが漂ってきた。
「起きたの?」
母の声がする。
「うん。おはよう」
台所へ入ると、母が鍋をかき混ぜていた。銀白色の髪が朝の光に透けて、柔らかく光っている。
「今日はパンを焼きすぎちゃったのよ」
「いつもじゃない?」
「そんなことないわよ」
母は笑いながら皿を並べる。
テーブルには、焼きたてのパンと、温かいスープと、卵料理が並んでいた。昔と変わらない朝の食卓。ルーミアは椅子に座り、湯気の立つスープを見つめた。
湯気は白く揺れている。昔なら、その湯気の向こうに誰かの感情の色糸が揺れて見えたのかもしれない。でも、今は何も見えない。
見えるのは、ただの湯気だけ。
それでも、嫌ではなかった。
「冷めるわよ」
「うん」
スプーンでスープをすくい、口に運ぶ。少し熱くて、舌がじんとする。
「……おいしい」
自然に言葉が出た。
母は満足そうに頷く。
「当たり前よ」
そのやり取りが、なんだか少し懐かしくて、ルーミアは小さく笑った。
朝食を終えたあと、ルーミアは洗濯物を持って庭に出た。潮風が吹き、白い布がゆっくり揺れる。布の色は白、空の色は薄い青、庭の鉢植えの花は淡い黄色。
色は、ちゃんと見える。
空の青も、海の青も、花の色も、全部分かる。
ただ、色糸だけがもう見えない。
人の感情の色も、結び目も、絡まりも、何も見えない。ただ、人の表情と声だけが、そこにある。
それでも、前より人の気持ちが分からなくなったわけではなかった。むしろ、前よりも少しだけ、ちゃんと人を、人の表情を、見ようとするようになった気がする。
洗濯物を干していると、通りの方から声がした。
「ルーミア!」
振り返ると、近所の娘が手を振っていた。
「おはよう!」
「おはよう。今日も焼きすぎたパンあるんだけど、持ってく?」
「また?」
ルーミアは笑いながら頷く。
「じゃあ、あとで取りに行く」
「うん、待ってる!」
娘は手を振って通りを走っていった。
その背中を見送りながら、ルーミアは空を見上げた。雲がゆっくり流れている。
世界は、少しずつ色を失っていると聞く。遠い町では、もうほとんど色が残っていない場所もあるらしい。
それでも、ここにはまだ色がある。
海も、空も、花も、人の服も、パンの焼き色も、全部少しずつ薄いけれど、ちゃんと色がある。
港へ降りる坂道を歩くと、海風が強くなる。船が何隻も停泊していて、荷物を運ぶ人たちの声が響いていた。
「最近、北の方でまた出たらしいぞ」
「残滓獣か?」
「ああ。結晶の近くだってよ」
「また冒険者が集まるな」
そんな会話が、風に乗って聞こえてくる。
縫合核が砕けてから、世界各地に落ちた欠片の周囲では、不思議な現象が起きるようになった。地面の色が歪み、空気が揺れ、そこに残滓獣が現れる。
その場所は、いつしか“ダンジョン”と呼ばれ、世界各地に落ちた欠片は、“ダンジョン・コア”と呼ばれるようになっていた。
色観は調査隊を出し、冒険者たちはそこへ潜り、欠片や結晶を持ち帰る。
危険も多いが、そこにはまだ多くの感情の残滓が残っているらしく、残滓の純度が高い鉱石や欠片は、「小さな感情の外れもの」という意味を込めて、“ミスリル”と呼ばれ、今では高値で取引されているんだとか。
世界は、形を変えて続いている。
完全に救われたわけではない。
褪色も止まっていない。
危険な場所も増えた。
それでも、人は今日も働き、船は出て、パンは焼かれ、子供は走り回っている。
港の手すりにもたれて海を見ていると、後ろから声がした。
「やっぱりここにいたのね」
振り返ると、ノエルが立っていた。風に長い髪が揺れている。
「久しぶり」
ルーミアは笑う。
「そんなでもないだろ」
ノエルの後ろから、レオンも現れる。
「でも、二人で来るのは久しぶりかも」
「仕事の依頼で近くまで来たのよ」
ノエルは港の方を見渡す。
「この辺りも、少しずつ変わってきたわね」
「うん。冒険者も増えた」
レオンは海の方を見ながら言う。
「世界はまだ終わらねえな」
「終わらず、続いていくわ」
ノエルが即座に返す。
「終わらせない人たちが、たくさんいるもの」
ルーミアは、二人の横に並んで海を見た。
海は相変わらず広くて、遠くの水平線は少しだけ霞んでいる。昔より少しだけ色が薄い気もするけれど、それでも海は海だった。
「ねえ」
ルーミアが言う。
「少しだけ、また一緒に旅に出たいな」
ノエルとレオンが、同時にこちらを見る。
「長い旅じゃなくていいの」
ルーミアは続ける。
「いろんなところを見てみたい」
海から吹く風が、三人の間を通り抜けた。
「……いいわね」
ノエルが小さく笑う。
「ちょうど、調査に同行してほしい場所もあるし」
レオンも頷く。
「俺も、ちょっと歩き足りねえと思ってたところだ」
ルーミアは笑った。
「じゃあ、決まりだね」
三人はしばらく海を見ていた。波の音は、昔と変わらず、ゆっくりと繰り返されていた。
その日の夕方、三人はルーミアの家の前に立っていた。
旅支度といっても、大きな荷物はない。昔ほど長い旅になるわけではないから、必要なものだけを小さな袋に入れるだけだった。
母が玄関先に立っている。
「本当に、また行くのね」
「うん。でも、そんなに長くは行かないよ」
母は少しだけ考えて、それから笑った。
「そうね。あなたは、そういう子だったもの」
そして、昔と同じように言った。
「気をつけてね」
ルーミアは、少しだけ息を吸ってから言う。
「いってきます」
母は、優しく頷いた。
「いってらっしゃい」
坂道を下り始める。白い家が少しずつ小さくなっていく。潮の匂いが背中に残る。
少し歩いたところで、ルーミアは一度だけ振り返った。母はまだ玄関先に立って、手を振っていた。
ルーミアも手を振り返し、それから前を向いた。
「行こう」
そう言って、三人は街道へ続く道を歩き始めた。
街道は、緩やかな丘を越えて続いていた。
草は少し色が薄く、遠くの森もどこか霞んで見える。それでも、風は昔と同じように吹き、雲はゆっくり流れていた。
ノエルが少し前を歩き、レオンがその隣を歩く。ルーミアは少しだけ後ろを歩いていた。
昔も、こんなふうに歩いていた気がする。
あの頃は、色糸が見えていた。人の感情の色が、空気の中に漂って、結び目があって、絡まり合い、ほどけて、世界は糸でできているみたいに見えていた。
今は、何も見えない。
空を見ても、草を見ても、人を見ても、見えるのはただの色だけ。青い空、薄い緑の草、灰色の道、白い雲。
それでも、不思議と寂しくはなかった。
前を歩くノエルが、振り返る。
「どうしたの? 置いていくわよ」
「今行く」
ルーミアは少し早足になって、二人の隣に並んだ。
「昔も、こんな感じで歩いてたなって思って」
レオンが小さく笑う。
「最初に会ったときも、こんな道だったな」
「そうだったかも」
ノエルも笑う。
「あなた、最初はもっと無口だったわよ」
「そうだっけ?」
「ええ。今よりずっと、何考えてるか分からない顔してた」
「ひどいなあ」
三人で笑った。
笑い声が風に流れていく。
しばらく歩くと、丘の上に出た。そこからは、遠くまで道が続いているのが見える。小さな町がいくつか点のように見え、その向こうに、仄かに山並みが見えた。
ルーミアは立ち止まり、空を見上げた。
空は、少し薄い青だった。昔より色は薄いかもしれない。でも、それでも空は綺麗だった。
色糸は、もう見えない。
人の感情の色も、結び目も、絡まりも、何も見えない。色糸魔法も、もう使えない。
けれど、人は覚えている。
ありがとうという言葉も、覚えている。
誰かを大切に思う気持ちも、ちゃんとここに残っている。
胸に手を当てると、鼓動が、静かにそこにある。
世界は、少しずつ色を失っていくのかもしれない。
褪色は止まっていない。
縫合核は砕け、欠片は世界中に散らばり、そこには残滓獣が現れ、危険な場所も増えた。
それでも、人はこの世界で生きている。
町を作り、パンを焼き、船を出し、子供が走り、誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが誰かに「ありがとう」と言う。
完全に救われた世界ではない。
でも、何も残らなかった世界でもない。
ルーミアは、もう一度空を見た。
色糸は見えない。
けれど、世界にはまだ色がある。
ノエルが言う。
「行きましょう。日が暮れる前に次の町まで行きたいわ」
「そうだな」
レオンが頷く。
ルーミアも頷いた。
「うん、行こう」
三人はまた歩き出す。
道はどこまでも続いている。
旅は、まだ終わっていない。
ルーミアは歩きながら、ゆっくりと周りを見た。
空の色、草の色、遠くの山の色、ノエルの髪の色、レオンの外套の色。
そして、自分の名前も、感情も、ちゃんとここにある。
世界は、完璧にはならない。
救えなかったものも、たくさんある。
取り戻せないものも、たくさんある。
それでも人は歩いていく。色が薄くなっても、感情が揺れて、誰かが誰かの名前を呼ぶ限り、世界は続いていく。
ルーミアは前を向いて歩いた。
その足取りは、昔より少しだけゆっくりで、でも一歩ずつ、確かに進んでいく。
褪せゆく世界で、ルーミアはこれからも、色を紡いで生きていく。
最後までお読みいただきありがとうございます。
よろしければ、ブックマーク、評価をいただけると励みになります!
よろしくお願いいたします




