表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/42

第5話 宿場町と名乗らない女

 次に辿り着いた宿場町は、アウレア王国中部・街道交差点リュミエール。リュネと同じく、旅人のために作られた町。


街道が交わり、小さな市が立ち、宿の灯りが夜まで消えない。馬車の軋む音と、人の声が混ざり合い、町は緩やかに動いていた。


「……ここなら、少し休める」


ノエルが歩調を緩める。


石畳には、かすかな光が残っている。看板の文字も判別できる。色は薄い。だが、消えてはいない。感情が、まだ“循環している”場所。


ルーミアはそれを見ても、何も感じなかった。


人々の背後から伸びる糸は穏やかだ。安心、期待、疲労。日常を維持するための最低限の色。以前なら「楽な町だ」と判断していた。今は、ただ情報として処理するだけ。



 宿の扉を開けると、木の匂いと温い空気が流れ出てきた。


「いらっしゃい」


女主人が顔を上げる。四十代半ば。長くこの町で生きてきた目をしている。


「部屋は二つ?」


ノエルが頷く。

「……それと、食事」


女主人は、ちらりとルーミアを見る。

「お嬢ちゃんの名前は?」

その問いは自然だった。旅人に向ける、当たり前の確認。


ルーミアの口が開きかける。

——名前。自分を示す言葉。言おうとした瞬間。胸の奥が、ひどく空虚になった。

名前を発すれば、自分という輪郭が、急に浮き上がる気がした。それが、怖い。


「……」

言葉が出ない。


代わりに、ノエルが答える。

「連れよ。名前は……今はいい」


女主人は深く追及しなかった。旅人には事情がある。


鍵を受け取り、二人は階段を上る。廊下の途中で、ノエルが立ち止まる。


「……今、名前を言おうとした?」


ルーミアは少し考えた。考えて、何も掴めないまま首を横に振る。

「……分からない」

これが現状の正確な答えだった。


ノエルは何も言わず、歩き出す。



 入った部屋は小さく、簡素な寝台と窓がひとつ。荷を下ろし、ノエルは腰の双剣を外す。その動作が、ほんのわずかに遅い。


「……ここ、気に入ってるの」

独り言のように言う。

「昔、よく泊まった」


ルーミアは、その背中を見る。ノエルの背後の糸は、灰色に淡い青が混じっている。後悔。未練。それでも前に進もうとする色。


——ここは、ノエルの“過去の場所”。


「……ノエル」


「なに?」


「ここで……」

言葉が途切れる。


「私は編むの?」


ノエルは一瞬だけ目を閉じた。

「依頼は来てる」


否定しない。

「でも、今日は休む」


窓を開ける。町の音が流れ込む。話し声と食器の音。生活の気配がしている。


「……あんたが壊れる速度、ちょっと上がってる」

淡々とした言い方。

「だから今日は、“色を見ない日”」


ルーミアは頷く。それが優しさか、判断できない。ただ、自分の名前を言わずに済んだことだけが、妙に楽だった。


——役割でいる方が、軽い。



 夜のリュミエールは静かだった。一階から、食器の触れ合う音がかすかに届く。低い話し声と、短い笑い声。派手ではない。だが、確かに人が生きている気配がある。


「……眠れる?」


灯りを落としながら、ノエルが聞いた。


ルーミアは寝台に腰掛けたまま、首を横に振る。


眠くないわけではない。疲れていないわけでもない。ただ、目を閉じる理由が分からなくなりかけている。


「色、見てないから?」

問いは探るようではなく、確認に近い。


ルーミアは少し考えてから頷く。


今日は糸を追っていない。編んでもいない。削れてもいない。なのに、胸の奥が落ち着かない。何かを忘れている気がする。何かを、しなければならない気がする。


「……変な感じ」

ぽつりと漏れる。自分の声なのに、遠い。


ノエルは窓際の椅子に腰を下ろす。その仕草は、慣れたものだった。


「ここね」

外を見ながら言う。

「私が……色観を辞めてから、最初に泊まった町なの」

 

ルーミアは顔を上げる。


「戦争が終わって。色の調査も、選別も、意味を失い始めた頃」

ノエルの背後の糸が、わずかに揺れる。灰色に、淡い青。


「ここはちょうどよかった。誰も深く聞かないし、誰も強く期待しない」

笑わないまま、続ける。

「色を戻せないことを、責められない町だった」


ルーミアは自分の手を見る。——私は、どうだろう。色を戻せている。少しずつだけど、確実に。それなのに。


「……何もしないと……」

言葉が途切れる。


「……何?」

ノエルが促す。


「……私……ここに、いなくなっちゃう気がする」

言った瞬間、胸の奥がひどく軽くなった。


「ノエルは……私がいなくなったら、どうしますか?」


怖い、という感情はない。ただ、事実を報告しただけ。


ノエルの視線が鋭くなる。

「……それは」


言いかけて、止める。深く息を吐く。

「役割がないと、自分が薄くなる感じ。分かるわ」


自嘲にも似た声。

「だから私は、ここで宿を手伝った。護衛をした。“何かをしている自分”でいるために」


ルーミアは初めて、はっきりとノエルを見る。その糸は、後悔だけではない。依存。役割に縋る色。


「……ノエル」


「なに?」


「……私は……何したらいい?」


問いは、助言を求める響きではなかった。決めてほしい。そう言っている。


ノエルは、すぐに答えない。それが止めるための沈黙か、選ばせるための間か、自分でも分からない。やがて口を開く。


「……今日は休む」


「明日になったら?」

「明日考える」


それだけ。具体的な答えは、与えない。


ルーミアは、その曖昧さにほっとした。

自分で決めなくていい。今は、それで十分だった。



灯りが消える。暗闇の中、ルーミアは目を閉じる。眠りはすぐには来ない。だが、隣の寝台から聞こえる微かな寝息が、彼女をこの世界に繋ぎ止めていた。


——それが危うい形の安定だと、まだ誰も口にしない。



 朝は、思ったよりも早く来た。


リュミエールの町は夜明け前から動き出す。馬車の車輪の軋む音。荷を積む声。焼き立てのパンの匂い。眠りきらない町の、現実的な朝。


ルーミアは目を開けた。眠った記憶は曖昧だ。だが、時間は過ぎている。


隣の寝台は、すでに空だった。


外套を羽織り、階段を下りる。一階の食堂で、ノエルが女主人と短く言葉を交わしていた。


「今日発つの?」

「ええ。街道が混み始める前に」


女主人は少しだけ眉を下げる。

「もっと長く居てもよかったのに」


ノエルは曖昧に笑った。

「そうね。でも……居心地がいい場所ほど、長くは居られないの」


理由は言わない。言えば、留まる言い訳になる。


鍵を返し、代金を置き、ノエルは振り返る。

「準備、できてる?」


ルーミアは頷いた。荷は少ない。増えるものも、ほとんどない。


宿を出ると、朝の光が町を包んでいる。完全な色ではない。だが、生活に必要なだけの色はある。


「……ここ、好き?」

歩きながら、ノエルが聞く。


ルーミアは少し考える。好き、という感情の輪郭が曖昧だ。


「……楽です」

それが一番近い。


ノエルは小さく笑う。

「そうでしょ」


一拍。


「だから出る」


ルーミアは足を止めた。

「……どうして?」


ノエルは振り返らない。

「ここに居るとね」


少し間を置く。


「私は、“過去の私”に戻れる気がする」


色観にいた頃。選別をしていた頃。誰かを切り捨てる判断を、正しいと信じていた頃。


「それは……今のあんたに見せたくないの」


ルーミアは、その言葉を聞いても胸は揺れない。だが、理解はした。



 二人は街道へ出る。町の喧騒が背後に遠ざかる。そのとき、声がかかった。


「お嬢ちゃん!」


振り返ると、昨日宿で見かけた商人が立っている。


「名前、なんて言うんだい?」


問いは軽い。悪意はない。


ルーミアは、口を開きかけて止まる。名前を言えば、自分という輪郭がはっきりする。輪郭がはっきりすれば、“役割”から外れた部分まで見えてしまう。今は、それが怖いんだ。


沈黙。


ノエルが一歩前に出る。

「この子は——」


一瞬、間が空く。


ルーミアは何も言わない。否定もしない。訂正もしない。


ノエルは、その沈黙を受け取る。

「……旅の途中よ」


商人は首を傾げたが、それ以上追及しなかった。手を振り、町へ戻っていく。再び歩き出す。リュミエールが、背後で小さくなる。


「……よかったの?」


ノエルが確認する。


「名前、言わなくて」


ルーミアはしばらく黙ってから、頷いた。

「……今は……役割でいる方が、いいです」


それは、自分を守るための選択。同時に、自分を削る選択。


ノエルは止めない。正すこともしない。


二人で街道を進む。


色を紡ぐ少女と、色を選び続けた女。

同じ理由で、町を出る。


——ここに留まれば、壊れるから。


休んだはずなのに。ルーミアの胸の奥は、昨日よりも少しだけ軽い。

軽いまま。その軽さが戻らないことに、まだ誰も、言葉を与えていなかった。

面白ければ、ブックマーク、評価をいただけると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ