第5話 宿場町と名乗らない女
次に辿り着いた宿場町は、アウレア王国中部・街道交差点リュミエール。リュネと同じく、旅人のために作られた町。
街道が交わり、小さな市が立ち、宿の灯りが夜まで消えない。馬車の軋む音と、人の声が混ざり合い、町は緩やかに動いていた。
「……ここなら、少し休める」
ノエルが歩調を緩める。
石畳には、かすかな光が残っている。看板の文字も判別できる。色は薄い。だが、消えてはいない。感情が、まだ“循環している”場所。
ルーミアはそれを見ても、何も感じなかった。
人々の背後から伸びる糸は穏やかだ。安心、期待、疲労。日常を維持するための最低限の色。以前なら「楽な町だ」と判断していた。今は、ただ情報として処理するだけ。
宿の扉を開けると、木の匂いと温い空気が流れ出てきた。
「いらっしゃい」
女主人が顔を上げる。四十代半ば。長くこの町で生きてきた目をしている。
「部屋は二つ?」
ノエルが頷く。
「……それと、食事」
女主人は、ちらりとルーミアを見る。
「お嬢ちゃんの名前は?」
その問いは自然だった。旅人に向ける、当たり前の確認。
ルーミアの口が開きかける。
——名前。自分を示す言葉。言おうとした瞬間。胸の奥が、ひどく空虚になった。
名前を発すれば、自分という輪郭が、急に浮き上がる気がした。それが、怖い。
「……」
言葉が出ない。
代わりに、ノエルが答える。
「連れよ。名前は……今はいい」
女主人は深く追及しなかった。旅人には事情がある。
鍵を受け取り、二人は階段を上る。廊下の途中で、ノエルが立ち止まる。
「……今、名前を言おうとした?」
ルーミアは少し考えた。考えて、何も掴めないまま首を横に振る。
「……分からない」
これが現状の正確な答えだった。
ノエルは何も言わず、歩き出す。
入った部屋は小さく、簡素な寝台と窓がひとつ。荷を下ろし、ノエルは腰の双剣を外す。その動作が、ほんのわずかに遅い。
「……ここ、気に入ってるの」
独り言のように言う。
「昔、よく泊まった」
ルーミアは、その背中を見る。ノエルの背後の糸は、灰色に淡い青が混じっている。後悔。未練。それでも前に進もうとする色。
——ここは、ノエルの“過去の場所”。
「……ノエル」
「なに?」
「ここで……」
言葉が途切れる。
「私は編むの?」
ノエルは一瞬だけ目を閉じた。
「依頼は来てる」
否定しない。
「でも、今日は休む」
窓を開ける。町の音が流れ込む。話し声と食器の音。生活の気配がしている。
「……あんたが壊れる速度、ちょっと上がってる」
淡々とした言い方。
「だから今日は、“色を見ない日”」
ルーミアは頷く。それが優しさか、判断できない。ただ、自分の名前を言わずに済んだことだけが、妙に楽だった。
——役割でいる方が、軽い。
夜のリュミエールは静かだった。一階から、食器の触れ合う音がかすかに届く。低い話し声と、短い笑い声。派手ではない。だが、確かに人が生きている気配がある。
「……眠れる?」
灯りを落としながら、ノエルが聞いた。
ルーミアは寝台に腰掛けたまま、首を横に振る。
眠くないわけではない。疲れていないわけでもない。ただ、目を閉じる理由が分からなくなりかけている。
「色、見てないから?」
問いは探るようではなく、確認に近い。
ルーミアは少し考えてから頷く。
今日は糸を追っていない。編んでもいない。削れてもいない。なのに、胸の奥が落ち着かない。何かを忘れている気がする。何かを、しなければならない気がする。
「……変な感じ」
ぽつりと漏れる。自分の声なのに、遠い。
ノエルは窓際の椅子に腰を下ろす。その仕草は、慣れたものだった。
「ここね」
外を見ながら言う。
「私が……色観を辞めてから、最初に泊まった町なの」
ルーミアは顔を上げる。
「戦争が終わって。色の調査も、選別も、意味を失い始めた頃」
ノエルの背後の糸が、わずかに揺れる。灰色に、淡い青。
「ここはちょうどよかった。誰も深く聞かないし、誰も強く期待しない」
笑わないまま、続ける。
「色を戻せないことを、責められない町だった」
ルーミアは自分の手を見る。——私は、どうだろう。色を戻せている。少しずつだけど、確実に。それなのに。
「……何もしないと……」
言葉が途切れる。
「……何?」
ノエルが促す。
「……私……ここに、いなくなっちゃう気がする」
言った瞬間、胸の奥がひどく軽くなった。
「ノエルは……私がいなくなったら、どうしますか?」
怖い、という感情はない。ただ、事実を報告しただけ。
ノエルの視線が鋭くなる。
「……それは」
言いかけて、止める。深く息を吐く。
「役割がないと、自分が薄くなる感じ。分かるわ」
自嘲にも似た声。
「だから私は、ここで宿を手伝った。護衛をした。“何かをしている自分”でいるために」
ルーミアは初めて、はっきりとノエルを見る。その糸は、後悔だけではない。依存。役割に縋る色。
「……ノエル」
「なに?」
「……私は……何したらいい?」
問いは、助言を求める響きではなかった。決めてほしい。そう言っている。
ノエルは、すぐに答えない。それが止めるための沈黙か、選ばせるための間か、自分でも分からない。やがて口を開く。
「……今日は休む」
「明日になったら?」
「明日考える」
それだけ。具体的な答えは、与えない。
ルーミアは、その曖昧さにほっとした。
自分で決めなくていい。今は、それで十分だった。
灯りが消える。暗闇の中、ルーミアは目を閉じる。眠りはすぐには来ない。だが、隣の寝台から聞こえる微かな寝息が、彼女をこの世界に繋ぎ止めていた。
——それが危うい形の安定だと、まだ誰も口にしない。
朝は、思ったよりも早く来た。
リュミエールの町は夜明け前から動き出す。馬車の車輪の軋む音。荷を積む声。焼き立てのパンの匂い。眠りきらない町の、現実的な朝。
ルーミアは目を開けた。眠った記憶は曖昧だ。だが、時間は過ぎている。
隣の寝台は、すでに空だった。
外套を羽織り、階段を下りる。一階の食堂で、ノエルが女主人と短く言葉を交わしていた。
「今日発つの?」
「ええ。街道が混み始める前に」
女主人は少しだけ眉を下げる。
「もっと長く居てもよかったのに」
ノエルは曖昧に笑った。
「そうね。でも……居心地がいい場所ほど、長くは居られないの」
理由は言わない。言えば、留まる言い訳になる。
鍵を返し、代金を置き、ノエルは振り返る。
「準備、できてる?」
ルーミアは頷いた。荷は少ない。増えるものも、ほとんどない。
宿を出ると、朝の光が町を包んでいる。完全な色ではない。だが、生活に必要なだけの色はある。
「……ここ、好き?」
歩きながら、ノエルが聞く。
ルーミアは少し考える。好き、という感情の輪郭が曖昧だ。
「……楽です」
それが一番近い。
ノエルは小さく笑う。
「そうでしょ」
一拍。
「だから出る」
ルーミアは足を止めた。
「……どうして?」
ノエルは振り返らない。
「ここに居るとね」
少し間を置く。
「私は、“過去の私”に戻れる気がする」
色観にいた頃。選別をしていた頃。誰かを切り捨てる判断を、正しいと信じていた頃。
「それは……今のあんたに見せたくないの」
ルーミアは、その言葉を聞いても胸は揺れない。だが、理解はした。
二人は街道へ出る。町の喧騒が背後に遠ざかる。そのとき、声がかかった。
「お嬢ちゃん!」
振り返ると、昨日宿で見かけた商人が立っている。
「名前、なんて言うんだい?」
問いは軽い。悪意はない。
ルーミアは、口を開きかけて止まる。名前を言えば、自分という輪郭がはっきりする。輪郭がはっきりすれば、“役割”から外れた部分まで見えてしまう。今は、それが怖いんだ。
沈黙。
ノエルが一歩前に出る。
「この子は——」
一瞬、間が空く。
ルーミアは何も言わない。否定もしない。訂正もしない。
ノエルは、その沈黙を受け取る。
「……旅の途中よ」
商人は首を傾げたが、それ以上追及しなかった。手を振り、町へ戻っていく。再び歩き出す。リュミエールが、背後で小さくなる。
「……よかったの?」
ノエルが確認する。
「名前、言わなくて」
ルーミアはしばらく黙ってから、頷いた。
「……今は……役割でいる方が、いいです」
それは、自分を守るための選択。同時に、自分を削る選択。
ノエルは止めない。正すこともしない。
二人で街道を進む。
色を紡ぐ少女と、色を選び続けた女。
同じ理由で、町を出る。
——ここに留まれば、壊れるから。
休んだはずなのに。ルーミアの胸の奥は、昨日よりも少しだけ軽い。
軽いまま。その軽さが戻らないことに、まだ誰も、言葉を与えていなかった。
面白ければ、ブックマーク、評価をいただけると励みになります!




