第4話 編めば戻る
次に辿り着いたのは、アウレア王国中部・セレスタ川流域の小市だった。リュネほどの賑わいはない。だが、フォルティスよりはずっと穏やかだ。川沿いに簡素な市場が立ち、野菜や布が並んでいる。人影は多くないが、確かに行き交っていた。
「……ここ、久しぶりに“町”って感じがする」
ノエルが小さく息を吐く。
建物の輪郭ははっきりしている。布には、くすみながらも色が残っている。果物には、名前を呼べる程度の赤や黄があった。完全な褪色ではない。まだ、感情が循環している場所だ。
——だからこそなのかもしれない。ルーミアは、違和感を覚えた。
人々の背後に伸びる糸は、穏やかだった。赤は淡く、青は静かで、黄は、ほんのり温かい。荒れていない。叫びもない。切迫した色もない。触れれば、軽い依頼で済むだろう。削られる量も、きっと少ない。そう判断できる。
判断は、できるのに。胸の奥が、まったく反応しない。
「……」
視線を落とす。以前なら、こういう場所に安堵を覚えた。まだ救える、と。まだ間に合う、と。今は違う。色は見えている。意味も理解できている。なのに、それが“感情”として立ち上がらない。ただ情報として処理されるだけだ。
「依頼は、市の南端」
ノエルが言う。
「子どもに関するものよ」
ルーミアは頷く。反射的な動作。そこに迷いも期待もない。
市の南端、集会所の一角。簡素な机の前に、若い女が座っていた。膝の上には小さな上着。何度も縫い直された跡がある。女の背後から伸びる糸は、淡い黄色。不安と、祈り。色としては弱い。だが確かに、縋る感情だ。
「……お願いします」
女は深く頭を下げた。
「この子、最近……笑わなくなってしまって」
部屋の隅に、小さな影がある。五、六歳ほどの子ども。視線を落とし、母親の声にも反応しない。
だが、糸はある。細い。揺れている。完全には失われていない。——編めば戻る。経験がそう告げる。成功する依頼だ。
ルーミアは、一歩前に出た。布を取り出す。針を指に挟む。
いつもならここで迷いはない。けれど、胸の奥を探っても、何も動かない。同情も、焦りも、救いたいという衝動もない。ただ、“作業”としての認識だけがある。
「……」
詠唱の言葉が、喉の奥に引っかかった。
──色糸魔法
言えば始まる。言えば、また削れる。だが、削られる“何か”が、本当に残っているのか。それすら分からなかった。
室内は静まり返っている。母親は祈るように見ている。ノエルは何も言わない。選ぶのは、ルーミアだ。——彼女は息を吸った。
「……色糸魔法」
言葉は、途切れずに出た。詠唱の響きは正確だった。音の高さも、息の流れも、いつもと同じ。
なのに、何も起きない。
これまでなら空気中に見えない圧が満ち、糸が震えた。胸の奥が締めつけられ、自分の感情が削られていく感触が、確かにあった。
今は違う。静かすぎる。魔法が発動していないわけではない。子どもの背後の橙色は、確かに揺れている。だが——“触れている”感覚がない。
ルーミアは布を広げた。指先は迷わない。震えもない。針を入れる。糸は抵抗しなかった。するり、と。あまりにも容易く、布へと溶け込む。
一針。縫ったはずだ。けれど手応えがない。もう一針。布を通る糸の軌道は正確だ。黄色は布へと編み込まれていく。
だが、それを「重い」とも「軽い」とも感じない。まるで誰かの作業を、遠くから見ているようだった。自分の身体を通して、自分ではない誰かが縫っている。
「……?」
母親が、小さく息を呑む。その音が、やけに遠い。子どもが顔を上げた。視線が、ゆっくりと母親へ向く。橙色の糸が、ほんの少しだけ明るくなる。布に編み込まれた色が、淡く脈打つ。
一瞬。子どもの口元が緩み、笑った。ぎこちなく、だが確かに笑った。
「……!」
母親が声を漏らす。
「ねえ……? ほら、見て……」
子どもは言葉を返さない。だが視線を逸らさない。糸は安定している。成功だ。理屈として、理解できる。ルーミアは最後の一針を終えた。
針を抜き、糸を断つ。その動作も、完璧だった。だが。胸の奥は、凪いだまま。達成感も、削られる感覚も、疲労もない。
ただ——作業が終了した、という事実だけ。布を畳み、母親の前に差し出す。
母親の糸が、はっきりと明るさを増していく。
「……ありがとう……」
涙が零れ落ちる。その涙には、色があった。喜び。安堵。取り戻した温度。部屋の空気が、少しずつ温まるのが分かる。分かるのに。何も流れ込んでこない。
ルーミアは、自分の手を見つめた。感覚が薄い。冷たいわけではない。痺れているわけでもない。ただ、そこにあるはずの“実感”が、抜け落ちている。
成功した、確実に。なのに。心がどこにも追いついていなかった。
「本当に……ありがとうございます……」
母親は何度も頭を下げた。
涙が床に落ちる。その一滴一滴に、はっきりとした色が宿っている。喜び。安堵。失いかけたものを取り戻した安らぎ。子どもは母の服を掴み、ぎこちなく身体を寄せた。まだ完全ではない。けれど、糸は安定している。
——救われた。
誰が見ても、そう言える光景だった。
ノエルは、黙ってそれを見ている。
だが。ルーミアは、自分の手を見つめたままだった。震えていないし、力も入っている。指先の動きも正常だ。
疲労は、ほとんどない。——ない。そこに違和感があった。これまでなら、どれだけ軽い依頼でも、必ず何かは削れていた。小さな空洞。微かな息苦しさ。胸の奥に残る、痛みの余韻。今は、それがない。削られなかったのか。
それとも——もう、削るものがないのか。
「……」
立ち上がろうとして、ふと足が止まる。なぜ立つのか、一瞬だけ分からなかった。終わったから。ここにいる理由がないから。理屈で答えは出る。けれど、感情がついてこない。
ノエルが、そっと肩に触れた。
「……外、行こう」
ルーミアは頷く。それも、反射だった。
部屋を出る直前、母親の声が背中に届く。
「あなたが来てくれて、本当によかった……!」
温かい言葉のはずだった。だが、それは背中をすり抜けていった。まるで、布越しに聞いた声のように。
外へ出ると、川の音が耳に入る。セレスタ川の流れは変わらない。水は濁りもせず、ただ一定の速度で進んでいる。夕暮れの太陽が、水面に鈍い黄色を落としていた。
「……成功、ね」
ノエルが言う。声に喜びはない。事実を確認するだけの声音。
「母親も、子どもも。色は戻ってる」
ルーミアは頷いた。
「でも」
ノエルは視線を川から逸らさない。
「“戻った”って感じ、ある?」
問いは、静かだった。
ルーミアは内側を探る。喜びや安堵。やってよかったという感覚。
探る。
探る。
けど、何も見つからない。
「……見つからない」
正直な答えだった。
ノエルは小さく息を吐く。
「それが続くとね、“成功”と“失敗”の区別がつかなくなる。そして……それが思ってた以上に進行してる」
進行。その言葉は、冷たい。
色糸魔法は感情を扱う魔法。だからこそ、使い手の感情が基盤になる。基盤が薄れれば、魔法は形だけになる。
「やめなさい、とは言わない」
ノエルは先にそう言った。
「止めたところで、世界は褪せ続ける。あんたがいなくなっても同じ」
残酷な事実。
「だから聞く」
ようやくルーミアを見る。
「それでも、続ける?」
選択肢を並べる。続けるか。やめるか。どちらにも、感情は伴わない。戻る未来も、見えない。ただ、やめれば目の前の色は減っていく。それだけは分かる。
「……続けます」
静かな声。決意でも、覚悟でもない。役割を選んだだけの声。
ノエルは目を伏せた。
「……わかったわ」
それ以上は何も言わない。
小市に灯りが入る。橙色の光が通りを照らす。本来なら、温かい色。だがルーミアには、それが温かいかどうか分からない。色を紡げば、世界は少しだけ戻る。その代わりに、彼女自身の中が確実に薄くなっていく。
川は止まらない。
世界も止まらない。
だから彼女も、歩き出す。
——自分がどれだけ残っているのかも、分からないまま。
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