第3話 一色だけ残った手紙
フォルティスを離れて三日。街道は西へ伸び、人影はやがて途絶えた。アウレア王国西部、リィン荒原の外縁。かつては農村地帯として栄えた土地だと、色観の簡素な記録にはある。
「……この辺り、地図から消えかけてるわね」
馬車を降りながら、ノエルが言った。
畑はある。家もある。だが、暮らしている気配がない。実った作物は刈られず、重みに耐えきれずに垂れ下がっている。洗濯物は干されたまま、色を失った布のように風に揺れていた。
褪せている、というより――最初から色を与えられていなかったような景色。
ルーミアはゆっくりと村へ足を踏み入れる。胸の奥が、静まり返っているのを感じた。怖くはない。悲しくもない。ただ、何も湧いてこない。
「依頼は、この村一件だけ」
ノエルが背後から言う。
「対象は人じゃない。……手紙よ」
村の中央、半壊した集会所へ入る。崩れた壁。抜け落ちた天井。砂と埃の匂い。
それでも中央の机だけは、不自然なほど整っていた。その上に、一通の封書。封はすでに切られている。誰かが読んだ。けれど、その後がない。
ルーミアの視線が止まる。手紙から、一本だけ細い糸が伸びている。淡い緑。ほとんど透明に近い。怒りでも、悲しみでもない。
――願い。未来を前提にした、柔らかな色。それはかすかに揺れ、今にも切れそうだった。
「色観の記録では、数年前に“完全褪色”に近い状態になったらしい」
ノエルが机に手をつく。
「住民は徐々に移動。理由は不明。この手紙だけが残った」
ルーミアは近づく。
人の背から伸びる糸とは違う。すでに届かなかった想い。時間に置き去りにされた色。
紙を開く。
――カレン。来年の春には、きっと戻る。その時は、また一緒に畑をやろう。ルークより。
短い文。未来を疑っていない筆跡。ルーミアはしばらく、その文字を見つめた。春は来たはずだ。だが、戻らなかった。それでも、この糸はまだ残っている。
「……これを、編むの?」
ノエルの問いは静かだった。止める気配も、促す気配もない。選ぶのは、ルーミア。
色のない村。一色だけ残った願い。ルーミアは、初めて“編まない”という可能性を考えていた。
集会所には風の音しかなかった。壁の隙間から入り込んだ風が、机の上の手紙をわずかに揺らす。淡い緑の糸が、それに合わせてかすかに震えた。
まだ、切れていない。だが、弱い。
ルーミアは紙を閉じた。文字は簡潔で、余白が多い。急いで書かれたわけでも、迷いながら書かれたわけでもない。穏やかな筆跡だった。
「……戻るつもりだったんだね」
誰にともなく呟く。返事はない。当然だ。この村には、もう誰もいない。畑は耕されず、家の扉は開いたまま。食卓は片付けられているのに、生活の続きをする人がいない。
「止まった」のではない。「離れられた」。
ルーミアは糸を見つめる。これは怒りではない。後悔でもない。ただ、信じていた未来。来年の春、一緒に畑をやる日。それが来ると疑わなかった色。
「編めば……どうなると思う?」
ルーミアは視線を糸から逸らさずに聞いた。
ノエルは腕を組んだまま、少し考える。
「形は残るかもしれない。村に輪郭が戻るかもしれない。でも」
「でも?」
「“未来”だったものを、“過去”として固定する」
静かな声。
「それは救いかもしれないし、完全な終わりかもしれない」
ルーミアの喉がひりつく。編めば、この願いは消えない。だが、もう進まない。今この瞬間で、止まる。立ち去れば、この糸は自然にほどけるだろう。誰にも知られずに。それは、優しい消滅だろうか。それとも、見捨てることだろうか。
胸の奥は、相変わらず静かだ。迷いの形がはっきりしない。けれど、分かっている。見えてしまった以上、何もしないという選択もまた、選択だ。
ルーミアは無地の布を取り出す。広げる。風が止む。
「――色糸魔法」
声は小さいが、震えてはいない。
緑の糸に触れた瞬間、抵抗はなかった。怒りのような鋭さも、悲しみのような重さもない。ただ、やわらかい。糸は、素直に布へと導かれる。
一針。胸に、ちくりとした痛み。重くはない。だが確かに、何かが抜け落ちる。二針。三針。緑はゆっくりと薄れ、淡くなり、やがて透明に近づく。願いが、形を失っていく。
最後の一針を終えた時、布には、ほとんど何も残っていなかった。色にならなかった色。ただ、風が少しだけ変わる。崩れかけていた柱が、きしむ音を立てて落ち着く。村全体に、わずかな“奥行き”が戻る。
色ではない。だが、存在しているという輪郭。
ルーミアはその場に膝をついた。苦しい。だが理由が分からない。何を失ったのかも、何を救ったのかも。
「……それでも、編んだのね」
ノエルが近づく。責める声ではない。確認でもない。ただ、事実。
ルーミアは答えなかった。正しいとも、間違いとも言えない。ただ、“終わらせた”という感覚だけが残っていた。
村を出るとき、見送る者はいなかった。家は並び、畑は広がり、道も崩れてはいない。それでも、生活の続きを担う人がいない。風が吹き抜けるたび、扉が微かに軋む。
この世界では、今まで多くの村や町が、こうして地図から消えていった。人の感情が薄れ、褪色が土地に影響し、また人の感情と色が薄れる。
そうした止めようのない負の連鎖により、次第にその土地から人は離れ、土地は枯渇し、廃れ、地図上でも忘れられていく。
ルーミアは一度だけ振り返った。先ほどまで感じていた、微かな緑の糸はもう見えない。完全に消えた。代わりに、村の輪郭だけがくっきりとしている。
「……戻らないね」
ノエルが言う。責める響きはない。
「色が戻れば人も戻る、って話じゃない」
静かな現実。
ルーミアは頷かなかった。否定もしなかった。自分の手を見る。震えていない。痛みもない。だが、何も残っていない。
あの手紙に何が書いてあったのか、思い出そうとする。来年の春、一緒に畑をやろう。……それだけだった、はずだ。はずなのに、細部が曖昧だ。筆跡の形も、紙の質感も、もう思い出せない。
「……あれは、編むべきだった?」
ぽつりと出た声は、ひどく平べったかった。
ノエルは少し考える。
「分からない。編まなければ、あの願いは誰にも知られずに消えた。編んだから、終わった」
足を止めずに続ける。
「どちらが優しいかなんて、決められない」
ルーミアは胸の奥を探る。後悔はない。納得もない。達成感もない。ただ、“選んだ”という事実だけが残っている。それが、妙に重い。
「……編むと、世界は少し動く」
自分の声が、どこか遠くから聞こえる。
「でも……私の中は、動かない」
ノエルは横目で彼女を見る。何も言わない。慰めも、励ましも、差し出さない。それが今は、ありがたかった。
荒原の先に街道が見える。色の薄い空。風に揺れる枯れ草。世界は静かに続いている。
ルーミアは歩き出す。編んで、終わらせた。それでも、胸の奥には空白が広がるだけ。あの願いは救いだったのか。それとも、自分が区切りをつけたかっただけなのか。答えは出ない。出ないまま、足は前へ進む。
フォルティスで削れた何か。そして今日、薄く切り取られた何か。自覚はない。だが確実に、内側の何かは減っている。
それでも――次の町で依頼があれば、きっとまた編むだろう。役割だから。見えてしまうから。やめる理由を、まだ持っていないから。
荒原を抜ける風が、背中を押す。色を紡ぐたびに、自分の色を失いながら、ルーミアは歩く。“何も感じない”という静けさを抱えたまま。
それが、いちばん危うい兆しだと、まだ知らないまま。
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