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第2話 感情は糸になる

 リュネの宿場町を出ると、街道はゆるやかに北へと伸びていた。かつては王都と寒冷地帯を結ぶ交易路として栄えた道。色鮮やかな布や香辛料を積んだ馬車が行き交い、笑い声が絶えなかったという。


――かつては、だ。今では、街道を歩く人影はまばら。車輪の音は乾き、会話は短く、誰も長居をしない。


「この辺りは、まだマシな方よ」


前を歩きながら、ノエルが言った。歩幅は一定。周囲への視線は絶えず巡らされている。護衛経験者の癖だ。


「王都に近い分、完全には抜けきっていない。……南の方はもっと酷い」


ルーミアは返事をしなかった。


畑の作物は形だけを保ち、葉は薄く、風に揺れるたび色を落とす。


だが彼女の視界には、別のものが映っていた。畑の男の背から伸びる、鈍い茶色の糸。惰性。生きるためではなく、生き延びるためだけの労働の色。


母子からは不安定な黄緑。守りたい想いと、先の見えない不安が絡み合う色。見れば見るほど糸は増える。増えれば増えるほど、胸の奥が静かになっていく。


「……無理に見なくていい」

振り返らずに、ノエルが言った。


どうして分かったのかは分からない。

だが、その一言でルーミアの足がわずかに止まる。


「色糸の魔導士って、便利な存在だと思われがちだけど、全部を背負う仕事じゃない。少なくとも、一人でやるものじゃない」


ルーミアは外套の内側に触れた。布越しに伝わる、認定証の硬さ。


世界色相観測院――〈色観〉。色の異変を調査し、記録し、選別する機関。彼女はそこに“所属していることになっている”。


「……色観は」

かすれた声が出る。ノエルが足を止め、振り返る。

「元職員。もう辞めたわ。正確には……追い出された、に近いけど」


軽い口調、けれど背後の糸がわずかに濃く揺れる。


「救う手立てがなかった。戻せないと分かっていて、記録だけ続けるのは……私には無理だった」


空を見上げる。色のない空。


「色を“戻す”ことはできない。それを一番よく知ってるのが、色観の人間よ」


ルーミアは、自分の中に浮かぶはずの感情を探した。共感。怒り。疑問。どれも、輪郭が曖昧だ。


「……次の町は?」

ようやく、それだけを口にする。


ノエルは小さく笑った。

「フォルティス。元は軍需都市。戦争が終わって、人だけが残った街」


嫌な予感が、糸の形で浮かぶ。濃い赤と、くすんだ灰。


「依頼が来てる。あんた宛てよ」


ルーミアは立ち止まる。依頼。編むべき糸。胸の奥が、また少し空白になる。それでも、彼女は歩き出した。



 フォルティスの街に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。乾いた鉄の匂い。石壁に染みついた油と煙。遠くで打たれる槌の音。だが鍛冶場は半分しか稼働していない。動いているのは、手だけだった。


「……重い」

ルーミアは小さく呟く。


街路に立つ人々の背後から、濃い赤と灰色の糸が幾重にも伸びている。赤は怒り。灰は諦念。混ざりきらず、燃えきらず、ただ滞っている。


「戦争が終わったのは十年前よ」

ノエルが言う。


「でも、終わり方が悪かった。勝ったとも負けたとも言えない停戦。命を賭けた意味を、誰も説明してくれなかった」


赤い糸が、風もないのに揺れる。怒りの行き場を失った色。


依頼書には簡潔に記されていた。

――旧第三兵舎区画。感情停滞、進行強。


石畳を進むと、兵舎跡の建物が並ぶ一角に出た。崩れかけた壁に背を預け、一人の男が座っている。


四十前後。左脚を引きずるように伸ばし、地面を見つめていた。彼の周囲の糸は、これまで見たどれよりも荒れている。


赤。黒。灰。ねじれ、絡まり、今にも断ち切れそうだ。


「……色糸の魔導士、だな」

男は顔を上げずに言った。

「噂は聞いてる」

声に力はない。


「戻さなくていい」

その言葉に、赤がわずかに燃え上がる。

「ただ……怒ってた理由を、思い出したい」

黒が揺れた。


ルーミアは一歩前へ出る。


赤は鋭く、黒は深い。編めば、大きく削れる。それでも。


「どうして、思い出したいんですか」

自分でも珍しく、問いが出た。


男はわずかに笑う。

「忘れてるのが、一番腹立たしいからだ」


拳が震える。

「仲間が死んだ。俺は生き残った。……なのに、怒りが薄れていく」

赤が弱くなり、灰が広がる。

「それが一番、許せない」


ルーミアは布を取り出す。無地の、色のない布。手がわずかに震えた。


「――色糸魔法(クロマ・ウィーブ)


赤に触れた瞬間、焼けるような痛みが走る。怒りは刃だ。触れた者を切り裂く。黒は底なしの井戸のように引きずり込もうとする。


視界が揺れる。それでも、針を動かす。

一針。赤が布に絡む。また一針。黒が沈む。


男の呼吸が荒くなる。

「……俺は……」

赤が少しだけ薄まる。

「守れなかった」


その言葉と同時に、糸が形を変えた。怒りが、痛みに。痛みが、悔恨に。完全ではない。だが、滞っていた色が流れ始める。


最後の一針。布を畳んだ瞬間、膝が崩れた。


腕を掴まれる。ノエルだ。

「そこまで」

冷静な声。


男は、ゆっくりと顔を上げる。目は赤い。だが、焦点は定まっている。


「……思い出した」

静かな声だった。

「怒ってた。悔しかった。……今も、悔しい」

赤は完全には消えていない。


だが、暴れていない。


「いいと思います」

ルーミアの口から、自然に言葉が出た。

「怒りは……なくすものじゃないですから」


男は、わずかに頷いた。

「……ありがとう」


その言葉を聞いた瞬間。胸の奥で、何かが音もなく剥がれ落ちた。何を失ったのか。まだ、分からないまま。



 宿の天井は、ひどく白かった。視界に色が乗らない。まぶたを閉じても、何も浮かばない。


「……水」

唇が乾いていることだけは分かる。すぐに冷たい器が触れた。


「ゆっくり」

ノエルの声。


水を飲む。味は、ある。はずだ。だが、喉を通る感覚しか残らない。


「どれくらい、寝てた」


「半日」

短い答え。


「兵舎区画を出てすぐ倒れた。今回は派手だったわね」


派手。その言葉に、少しだけ違和感が生まれる。何があったのか、思い出そうとする。


赤、黒、男。断片は浮かぶ。だが、肝心の顔が思い出せない。


「……どんな人だった?」


ノエルが一瞬だけ視線を落とす。

「四十前後。左脚を引きずってた。怒りを忘れかけてた男」


「……そう」

それだけしか出てこない。怒りの熱。刃のような赤。そこまでは覚えている。


だが。

「……私、何を……編んだ?」

問いは、ほとんど無意識だった。


ノエルは答えない。代わりに、窓の外を見た。

「怒りを“整理”したのよ。消したわけじゃない」

淡々とした声。

「でも、代償は重い感情ほど大きい」


ルーミアは、胸に手を当てる。何かが足りない。だが、何が欠けたのか分からない。悲しみか。恐れか。怒りか。探しても、輪郭が掴めない。


「……分からない」


正直な言葉だった。焦りがあるはずなのに、その焦りすら薄い。


ノエルは椅子から立ち上がる。


「それが一番怖いのよ」

小さく、そう言った。



 翌朝、フォルティスの空は薄曇りだった。街は昨日より静かだ。


旧兵舎区画を遠目に見ると、男が立っているのが見えた。背筋は伸びている。怒りの赤は、まだある。だが、暴れてはいない。彼は仲間の名を口にしていた。声は震えているが、止まらない。


「……戻ってる」

ルーミアは呟く。


「完全じゃないけどね」

ノエルが応じる。


「それでいいのよ」


 

 街の赤は、少しだけ薄まっていた。代わりに、灰がわずかに色を取り戻している。小さな変化。だが確かだ。


「これで、依頼は完了」

ノエルは書簡を封に入れる。

「色観は喜ぶでしょうね」


その名前を聞いて、胸がわずかに冷える。


世界色相観測院。

選別する機関。記録する組織。救う場所ではない。


「……私は」

言いかけて、止まる。何を言おうとしたのか分からなくなる。自分の感情が、遠い。


「次の町は?」

代わりに、それを口にする。


ノエルはわずかに目を細めた。

「削れた実感がない?」


「……ない」

嘘ではない。実感がないことが、異常だと分かるだけだ。


「慣れると危ないわよ」

軽く言う。


「削れても、気づかなくなる」

その言葉は、冗談ではなかった。



 街道へ向かう。フォルティスは背後に遠ざかる。怒りを取り戻した男。色を少しだけ取り戻した街。そして、何を失ったのか分からないままの少女。


外套の内側に触れる。認定証の冷たさは、変わらない。


「……それでも」

小さく、呟く。


「編まなきゃ」


感情は伴わない。だが選択だけは、まだできる。色の薄い空の下。ルーミアは、削れていることにすら慣れ始めながら、次の町へ歩き出した。

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