第1話 褪せた朝に、色を見る少女
この町では、朝の光には色がなかった。いや、“この町で”というのは語弊がある。
この世界では、ほとんどの町に朝の光なんてなかった。
その白か灰か判断がつかないような光が、ここ、リュネの宿場町にも均一に届いている。照らしているというより、輪郭だけを確かめるような光。石畳は乾いているのに、濡れたような鈍い反射を返している。
市場の布は揺れ、鮮やかさはない。
色が薄れることは、もう誰も驚かない。
りんごを落とした女性は、特に気にする素振りもなく拾わずに去っていく。
通りの端で、いかにも魔導士らしい黒いフードを被った少女がいる。
ルーミア・エイル。
彼女の視界だけが、この世界と少し違っていた。
人々の胸の奥から、細い糸が伸びている。
諦めの青。
義務となってしまった誇りの黄。
ほとんど見えない灰。
色糸。感情の残滓。
それを見ることができるのは、世界でただ一人、ルーミアだけだった。
昨日の夕方。宿へ戻ると、扉の下に一通の封書が差し込まれていた。
粗末な紙。だが封蝋は丁寧に押されている。
震える指で閉じられた跡があった。
ルーミアは部屋に戻り、静かに封を切る。短い文面だった。
『色糸の魔導士様へ
突然のお手紙をお許しください。
私は、色を失いたくありません。
息子の記憶を、失いたくないのです。
どうか一度、お会いしていただけませんか。
明日、町外れの井戸におります』
最後に名がある。
――マリア・グレン。
ルーミアは紙を折り直した。
“戻したい”ではない。
“失いたくない”。
その言葉が、胸に残る。
町外れの井戸は、人通りが少ない。
夕暮れの光が石組みを薄く染めていた。
井戸の縁に、一人の女が立っている。
三十代半ばほどで、整えられていない髪。
両手を胸の前で強く組み、何かを握りしめている。
「……色糸の魔導士、様ですか」
女は、まっすぐにルーミアを見た。
声は静かだが、底に震えがある。
その瞬間、ルーミアの視界に濃い藍色が広がった。
胸の奥から溢れ出す、絡まり合った糸。
重く、深い。沈みきらない悲しみの色。
「手紙を」
ルーミアは小さく言う。
「読みました」
女は、ほっと息を吐いた。
「息子を……事故で亡くしました。七歳でした。エリオ、といいます」
名前を口にした瞬間、藍色が強く揺れる。
「最初は……泣けました。毎晩、眠れないくらい」
井戸の縁に置いた手が、白くなるほど力を込める。
「でも最近……思い出しても、涙が出ないんです」
静かな告白だった。
「写真を見ても、平気なんです。あの子の声も、少しずつ遠くなって……」
女は顔を上げる。
「怖いんです。苦しいままでいい。痛みごと、あの子を抱えていたいんです」
藍色の糸は、限界まで張り詰めている。
今はまだ、崩れていない。
だが、このまま褪せれば、痛みごと記憶が薄れていく。
ルーミアは一瞬だけ目を閉じる。
編めば、整う。
けれど、代わりに何かが削れる。
それでも。
「……明日、伺います」
静かに告げた。
女の肩は震えていた。
「ありがとうございます」
それは、救いに縋る声ではなかった。覚悟を決めた人の声だった。井戸の水面に、夕焼けが揺れる。色のない町で、ただ一つ濃い藍色が、明日を待っていた。
翌朝、リュネの空は相変わらず色を持たなかった。けれど昨日よりも、空気は重い。ルーミアは町外れの家の前に立つ。小さな庭。手入れはされているが、花は咲いていない。窓辺には子どもの背丈ほどの傷が残っている。扉の奥から、濃い藍色が滲み出していた。
ノックをする
「……どうぞ」
かすれた声。
中は静まり返っていた。部屋の中央の机には、小さな木の玩具が置かれている。壁には、拙い文字で書かれた紙。
――おかあさん だいすき
藍色の糸は、女の胸から無数に伸びていた。絡まり、縺れ、結び目だらけになっている。
「来て、くださったんですね」
マリアは椅子に座ったまま、ルーミアを見上げる。その目は泣き腫らしていない。それが、何より怖い。
「……怖いんです」
女は言う。
「このまま平気になってしまうのが」
藍色が、かすかに震え出す。
「忘れたくない。泣けなくなったら、あの子を裏切る気がして」
ルーミアは一歩、近づく。指先が、冷たい空気を切る。
「全部は、戻せません」
小さく告げる。
「苦しさも、消えません」
女は、ゆっくり頷いた。
「それでもいい」
その声に、嘘はなかった。
ルーミアは外套の内側から、小さな布を取り出す。無地の、色を持たない布。女の前に膝をつく。
「……色糸魔法」
藍色の糸に触れた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
重い。
沈む。
水底に引きずり込まれるような感覚。
これは、彼女の悲しみ。七年分の、息子の笑顔。小さな手の温度。夜中に聞いた寝息。そして、事故の日の、凍りつくような光景。
糸は抵抗する。溶けたくないと、訴える。
ルーミアは、それをゆっくりと編む。
一針。絡まりをほどくように。
二針。強く張り詰めた部分を、緩めるように。
三針。結び目を解き、整える。
藍色は、深さを失わないまま、濁りだけを落としていく。
痛みが、ただの痛みではなくなる。
“思い出”として形を取り始める。
「……あ……」
マリアの喉から、かすかな音が漏れた。涙が、一粒だけ頬を伝う。それは堰を切ったような涙ではない。ゆっくりと、確かめるような涙だった。
「エリオは……走るのが下手で」
女は、ぽつりと呟く。
「転んで、すぐ泣いて……」
藍色の糸が、やわらぐ。
「でも、すぐ笑う子だった」
震えていた肩が、少しだけ下がった。
最後の一針を終え、ルーミアは糸を布に収める。藍色は細くなった。消えてはいない。残っている。
マリアは、顔を覆って泣いた。今度は、はっきりと。嗚咽を押し殺しながら。
「思い出せる……」
指の隙間から、涙が落ちる。
「苦しい。でも……ちゃんと、あの子の顔が浮かぶ」
ルーミアは立ち上がる。
視界がわずかに揺れた。床の木目が、一瞬ぼやける。
「ありがとう」
女は何度も頭を下げた。
「忘れなくて、いいんですね」
ルーミアは、ほんの少しだけ首を横に振る。
「忘れないでください」それだけを言い、その場を後にした。
家を出ると、朝の光が少しだけ違って見えた。通りの端の花瓶に、かすかな色が差している。世界は劇的に変わらない。けれど、一つの家の中では、確かに何かが戻った。
ルーミアは石段を上る。足元がふらつく。胸の奥が、妙に静かだった。
――何かが、薄くなった。それが何かは、考えない。
ただ、歩く。その時だった。
「大丈夫?」
振り向くと、背の高い女が立っていた。灰色の外套。腰には双剣。風に揺れるダークブロンド色の髪。奥の瞳は、妙に冷静だ。
ルーミアは一瞬、言葉を失う。
「……平気」
そう答えたつもりだった。けれど視界が傾く。だが次の瞬間、腕を掴まれていた。
「平気な人は、そんな顔しない」
事実を置くような声音。
ルーミアは無言で立ち直る。
女の背後にも、糸が見えた。灰色と、淡い青。何かを失い、それでも前を向こうとする色。
「……あなた」
女はまっすぐに言う。
「色糸の魔導士、でしょ」
肩がわずかに跳ねる。
隠していたつもりはないが、言い当てられると胸が冷える。
「さっきの家。空気が変わった」淡々と続ける。
「泣き声が聞こえた。あの家、七年、誰も泣かなかった」
ルーミアは目を伏せる。
マリアは泣いた。息子の名を呼びながら。苦しみを取り戻し、思い出を取り戻し、ようやく泣けた。その後、彼女は庭に出て、小さな苗木に水をやった。
「この子が好きだった木なの」と、静かに笑って。それが“救われた”ということだった。忘れることではなく、抱えて生きることを選べた。
女はルーミアの顔を覗き込む。
「あなた、自分の足元見てる?」
言われて気づく。自分の足元が、少し揺れている。
「何を、削ったの」
問いは静かだ。責めてはいない。
ルーミアは、答えない。答えられない。代償の形は、まだ分からない。ただ、胸の奥のどこかが、薄くなった気がするだけだ。
「一人で歩くには、今の世界は危ない」
女は手を離さずに言う。
「少なくとも、倒れそうな時に支える人はいた方がいい」
それは提案だった。同情ではない。
「私はノエル・リシュラン」
名乗る声は、乾いている。
「戦うのは得意。でも、感情のことは分からない」
小さく笑う。
「だから、補えるところだけ補う」
ルーミアはゆっくりと頷いた。拒む理由が、思いつかなかった。自分一人で歩けるほど、この世界は軽くない。
「……ルーミア」
小さく名乗る。
ノエルはそれ以上踏み込まない。
「無理に話さなくていい。一緒に歩くだけでいい」
二人は並んで石段を上る。
市場の入口では、あの林檎の女が、しゃがみ込んで果実を拾っていた。誰かが一つ、手伝っている。色は戻っていない。けれど、藍色は少しだけ薄れている。
ルーミアはそれを見て、何も言わなかった。
ただ、歩く。世界はまだ褪せている。
救えるのは、一人ずつ。失うのも、一針ずつ。
それでも、背中に並ぶ影が、ひとつ増えた。
色のない朝の光の下で、二つの影は同じ方向へ伸びる。
それが正しいかどうかは、まだ分からない。
ただ――
歩き出してしまった。
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