第6話 同行しない理由、離れない理由
次の町は、地図の端に小さく記されているだけの場所。アウレア王国東寄り、霧原街道沿いの集落・カーナ。街道を外れた者しか立ち寄らない、半ば忘れられた土地。
霧が多い。朝も昼も視界は曖昧で、輪郭が溶けている。
「……嫌な感じ」
ノエルが低く言った。危険を察した声ではない。慣れすぎている場所に対する警戒だった。
集落に入ると、すぐに分かる。ここは、編めば確実に救える場所だ。人々の背後に伸びる糸は整っている。色も、濃さも、向きも、異常ではない。
ただ一箇所を除いて。
集落の中央の古い礼拝堂。その中から、ひときわ太くはっきりとした糸が伸びていた。澄んだ青。悲しみでも絶望でもない。強く、まっすぐな後悔の色。
ルーミアの足が止まる。胸の奥が、微かに反応した。
「……」
その感覚に、彼女自身が戸惑う。何時ぶりだろう。感情らしきものが、形を持って触れてきたのは。
「待って」
ノエルが即座に言った。声がいつもより硬い。
「ここは……今回は、見送ろう」
ルーミアは、ゆっくり振り返る。
ノエルは、礼拝堂を見ていた。その背後の糸が、濃く揺れている。灰色に、青が強く混ざる色。
「理由は?」
ルーミアの問いは責めていない。ただ、確認だった。
「分かるでしょ」
ノエルは視線を逸らさない。
「ここは軽い依頼じゃない。編めば、“成功”する」
成功。その言葉に、ルーミアの中で何かが、わずかに軋む。
ノエルは、続けた。
「でも今のあんたがそれをやったら、どこまで影響あるかわからない」
ルーミアは礼拝堂を見る。青い糸が静かに揺れている。切れそうではない。むしろ、待っている。
「……戻るとしても」
言葉を選びながら口にする。
「どこに?」
ノエルは答えなかった。代わりに、一歩前に出てルーミアの進路を塞ぐ。
「今回、私が決める。同行者として。……守る側として」
はっきりした声だった。
ルーミアは、その背中を見つめた。守られる、という感覚。それ自体は、嫌ではない。だが胸の奥で、先ほど触れた“微かな反応”が消えかけている。
このまま引き返せば、また何も感じない時間に戻る。
それは安全だ。そして、耐えがたい。
「……ノエル。私は……止まる方が、怖いです」
声が少し低くなる。
ノエルの肩が、わずかに揺れた。振り返る。
「それは間違ってる。それはもう、“選択”じゃない」
ルーミアは、一歩、前に出る。
ノエルとの距離が、縮まる。
「……でも」
言葉が途切れる。
でも、を続ける言葉を、彼女はまだ持っていない。ただ一つ、あの青い糸を見ないふりをしたら、自分はもう二度と動けなくなる予感がする。
「……私」
ゆっくり、息を吸う。
「今回は……止められたくない」
それは初めての拒否だった。
ノエルは、しばらく黙っていた。
礼拝堂。青い糸。そして、目の前の少女。
同行しない理由は、山ほどある。離れるべき理由も、正しい。
それでも、ここで手を離したら、何が起きるかも分かっている。
ノエルは進路を譲った。ただし、条件付きだ。
「……分かった。中まで一緒に行く。途中で無理だと思ったら、私が止める」
ルーミアは頷いた。その表情に覚悟はない。
代わりにあるのは、動けることへの安堵だけ。
二人は、礼拝堂へ向かう。同行しない理由を、互いに抱えたまま。それでも離れない理由が、まだ、ここにあるから。
礼拝堂の中は、外よりも静かだった。石造りの床。崩れかけた柱。祈りの言葉が刻まれていたはずの壁は、ほとんど読めない。
色はない。だが青い糸だけが、はっきりとそこにあった。
祭壇の前に、ひとりの男が跪いている。年は三十代後半。兵士の名残を残した体つき。だが鎧も剣もなく、ただ両手を組み、頭を垂れている。男の背から伸びる糸は、澄んだ青。濁りも乱れもない。悲しみではない。絶望でもない。
「……後悔、だな」
ノエルが低く言った。その声に男は反応しなかった。
ルーミアは、一歩踏み出す。その瞬間、胸の奥がはっきりと動いた。冷たい。重い。でも、逃げたくない。
「……!」
ノエルが即座に腕を掴む。
「待って」
強い力だった。引き止める、というより、止める力。
「やっぱり……あんたが触れていい類の感情じゃない」
ルーミアは男を見る。
青い糸はまっすぐだ。切れそうにない。自壊してもいない。
「……違う」
小さく、だがはっきり言った。
ノエルがルーミアを見る。
「これは……まだ、生きてる感情です」
ノエルの指が、わずかに緩む。
「後悔っていうのはね」
ノエルは言葉を選ぶ。
「一番、戻れない感情なのよ。取り除けば、前に進めるように見えて……人を空っぽにする」
ルーミアは首を振った。
「……違います」
自分でも驚くほど、即答だった。
「この人は……後悔を手放したくない」
男の肩が微かに揺れた。それでも顔は上げない。青い糸が静かに強くなる。
「……だから」
ルーミアはノエルの手を外した。力は弱い。だが、意志ははっきりしている。
「編めば……この人は進める」
ノエルの表情が、硬くなる。
「進める、って言葉を……そんなふうに使わないで」
低い声。
「それは、切り離すって意味」
ルーミアは少しだけ黙った。そして、静かに言う。
「……でも」
視線を青い糸から外さない。
「今、私が止まったら……私は、もう進めません」
それは理屈じゃなく願いでもない。事実だった。詠唱をしなければ、また、何も感じない場所に戻る。それは安全で、同時に、存在が薄れていく道。
ノエルは目を閉じた。短く、深く息を吐く。
「……詠唱するなら」
ゆっくりと目を開ける。
「私の目の前でやりなさい」
逃げ道を、塞ぐ言葉だった。
「倒れたら、止める。途中でも、止める」
ルーミアは頷いた。条件を受け入れるというより、そこに縋った。彼女は息を吸う。詠唱の言葉を、口に乗せる。胸の奥が、きしむ。それでも──止まらない。
「──色糸魔法」
言葉が落ちた瞬間、礼拝堂の空気が深く沈んだ。
青い糸が、はっきりと応えた。
詠唱の言葉が落ちた瞬間、礼拝堂の空気が、ゆっくりと沈む。風は止まり、音が吸い取られたように静まる。それは激しくもなく、拒絶することもなく、ただ確かにそこにあると、主張するように揺れた。
ルーミアは、布を広げる。手は震えていない。迷いもない。
針を入れた瞬間、胸の奥が強く引かれた。
痛みではない。だが、軽くもない。
ーー重い。
糸は抵抗しない。それでも、簡単には編み込まれない。まるで、「消される気はない」と言っているかのように。
一針。また一針。
青は、薄くならない。代わりに深くなる。
「……っ」
ルーミアの視界が歪んだ。礼拝堂の壁が遠ざかる。自分の輪郭が、曖昧になる。
ノエルが、すぐそばにいる。視界の端で、彼女が歯を食いしばるのが見えた。
「……やめなさい」
低い声。
「これ以上……それは、編んじゃいけない」
だが、ルーミアの手は止まらない。止める理由が、もう、どこにも残っていなかった。ーー編まなければ、私は動けない。それだけが、はっきりしている。
青い糸が布に絡む。その瞬間、男が初めて顔を上げた。
「……ああ」
声にならない息。彼の目に、涙はない。だが、確かな“揺れ”があった。
後悔は消えていない。薄れてもいない。代わりに、形を変えた。重さが均等になった。抱えられる重さに。
「……行ってこい」
男は、誰にともなく呟いた。その言葉に、青い糸が静かに落ち着く。完全に編み込まれたわけではない。切り取られたわけでもない。ただ、“生き続ける感情”として定着した。
ルーミアは、最後の一針を終えた。その瞬間ーー膝から力が抜けた。倒れる。だが、床には届かない。ノエルが間に合った。
「……っ!」
腕で抱え込み、必死に支える。
「……馬鹿……!」
怒鳴るような声。だが、その手は震えている。
「……わ、……」
焦点が合っていない。
「しっかりして……!」
「……わた……し」
「?」
「……ルー……ミア」
虚ろな瞳の少女から零れたのは、自身の名前。まるで、人と何かとの狭間で足掻くように。自分自身という存在が、無くならないようにするために、名乗っているかのようだった。
「……っ」
ノエルは、何も言えなくなった。
ルーミアの視界は白かった。音が遠いのだ。胸の奥に、ぽっかりと穴が空いた感覚だけがある。ーー何かを、持っていかれた。何だったのかは分からない。ただ、もう戻らないものがあると理解する。
次第に、白だった景色が色味を帯びてきた。
「……ごめん」
意識が戻ってからの声は、かすれていた。
ノエルは何も言わない。言えない。
彼女は知っている。これは失敗ではない。
同時に、成功でもない。
「……それでも」
ルーミアは薄く目を開ける。
「……私はまだ……動けます」
ノエルの腕が、わずかに強くなる。
「……次は」
低い声。
「次は、私が止める」
それは約束ではない。決意でもない。祈りに近い言葉だった。
礼拝堂を出ると、霧が少しだけ薄くなっていた。集落の色が戻ったわけではない。だが、輪郭が確かになった。男は振り返らない。それでいい。
二人は街道に戻る。同行しない理由は、十分すぎるほどある。離れるべき理由も、正しい。それでもノエルは、ルーミアの手を離さなかった。離せなかった。
「……次の町へ行こう」
それが、今できる唯一の選択だった。
ルーミアは微かに頷いた。その表情には、達成感も、後悔もない。ただ、“まだ進める”という認識だけが残っている。
それが、どれほど危うい状態なのかを、二人とも、もう理解していた。
面白ければ、ブックマーク、評価をいただけると励みになります!




