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第53話 無色平原と鐘の音

 断層域を離れて、どれほど歩いただろうか。背後の空気が、ようやく変わったと気づいたのは、足元の色が消え、風の音が変わったときだった。先ほどまで耳を裂いていた低い唸りが、嘘のように遠ざかる。


代わりに広がったのは、何も含まない風だった。


目の前に広がっていたのは、果てのない広大な平原だった。


草はある。土もある。空もある。だが、どれも色が薄く、完全な無ではない。だが、鮮やかさがない。


「ネヴァの無色平原……戻ってこれた」


ノエルが安堵で呟く。


風が渡り、草が揺れる。音はあるのに、感情の揺れがほとんど感じられない。


「さっき通ったときは、とんでもねぇ場所と思ったが……今じゃかわいく見えやがる」


レオンは、ふっと一息吐いた。

ルーミアも、ゆっくり息を吸う。


「……断層の影響がなければ、ちょっと落ち着く」


自分でも驚くほど、胸のざわつきが静まっていく。


断層域では、色糸が暴れていた。吸われ、絡まり、拒絶される感覚があった。だが、ここでは何も引っ張られない。


「不気味じゃないか?」


レオンが問う。


「少しだけ。でも……ここは、奪われてない」


ルーミアは、視界を遠くまで滑らせながら、感じたままを正直に答える。断層域は吸っていた。ここはただ、薄いだけ。


「色が定着してないだけで、拒絶はしてない……か」


ノエルが整理するように言う。


「うん。無色平原、ここなら、編めば通ると思う」


実際に詠唱はしない。ただ、感覚で分かる。この平原は、感情を削らない。


レオンが空を見上げる。


「さっきの異常は、あの場所固有のもんってことね」


「ええ」


ノエルが頷く。


「平原そのものは、ただ色が薄いだけ」


ルーミアは、断層域の方向を振り返る。遠くに、かすかな霞のような揺らぎが見える。


「色糸魔法が通じない土地なんて、今までなかった」


ノエルの声は、冷静だが硬い。


「無効化された感じじゃなかった」


「うん。たぶん吸収と、反発」


ルーミアが続ける。


ルーミアは視線を空へ向けた。空は青いはずなのに、どこか薄い。絵の具を水で溶きすぎたような色。


(ここなら……)


休める。少なくとも、崩れはしない。だが、回復するかは別だ。歩くたびに、身体の芯がじわりと痛む。断層域で魔法を使った反動。目に見える怪我ではない。だが、確実に何かが削れている感覚。


立てはする。歩くのも支障はない。だが、まっすく立つ、まっすぐ歩く。ここまで要求されると今はできる自身はない。


二人ともそれに気づいているのは、分かっている。何も言わないだけだ。


ルーミアは、胸に手を当てる。鼓動が、やけにはっきり聞こえる。まだ、ほんの少しだけ違和感が残っている。糸を強く引っ張られたあとの、痺れのような感覚。


「……なんでだろう、焦ってた」


ぽつりと漏らす。


「ええ」


ノエルは否定しない。


「通じると思ってた。でも、通らなかった」


それは事実だ。否定も誇張もない。ただの現実。色糸魔法が通じない場所がある。それはつまり、自分の役割が通じない場所がある、ということ。


風が三人の間を通り抜ける。色は薄いが穏やかだ。ルーミアは、また空を見上げた。


「ねえ、ノエル」


「なに?」


「私、ちょっとだけ安心してる」


ノエルは眉を上げる。


「通じなかったのに?」


「うん」


ルーミアは、小さく笑う。


「もし、この平原でも通じなかったら……」


「完全に壊れてるって思った?」


「……うん」


色糸魔法そのものが崩れたのではない。断層域が、異常だった。ネヴァの無色平原は、ただ何も奪わない。何も与えない。その違いが、はっきりした。


「じゃあ、問題はあの場所にある」


レオンが言う。


「魔法じゃねえ」


「ええ」


ノエルは平原の先を見つめる。


「だから、調べる価値がある」


ルーミアも視線を追う。


「……あった、あれ」


遠く、地平線の端に、直線的な影が見えた。自然物ではない。石で組まれた壁。中心で悠然とそびえ立つ塔。規則正しい建造物。


「町……?」


レオンが目を細める。

ノエルは、すぐに距離を測るように視線を走らせた。


「かなり大きいわね」


「平原に囲まれてる」


ルーミアの胸が、少しだけ高鳴る。


「……もしかして」


ノエルが、ゆっくりと言う。


「研究都市かも」


「研究?」


「断層域の近くよ。昔、資料で見たことがある」


風に乗って、微かに鐘の音のようなものが届く。石造りの町は、無色の平原の中で、ただ静かに立っていた。


「行ってみましょう」


ノエルが言う。ルーミアは、頷いた。


断層から退いた。だが、諦めたわけではない。通じなかった理由を、知るために。三人は、色の薄い草原を歩き出す。



 その塔の影は、近づくほどに石壁がはっきりと輪郭を持ちはじめた。ただ直線的に空へ伸びる石造りの塔が、いくつも並んでいる。まるで本棚を縦に積み上げたような、無骨な形。


無彩の地平に、灰白色の城壁が静かに立ち上がっている。外敵を拒むというより、情報を守るために造られた町。


「……あれが」


ノエルが呟く。


「エイデリア。研究と書物の閉鎖町……」


ルーミアは足を止めずに答えた。

ノエルが目を細める。


「ほんとに、閉じてる町ね」


「閉じてる?」


「物理的にも、思想的にも」


近づくにつれ、平原の色が少しずつ変わる。完全な無色ではない。石の白、木の褐色、布の灰。淡い色だが、無色平原と比べると、存在し、息をしている色だった。


ルーミアはいつもの癖のように色糸を見ると、町の方向に糸が集中していた。断層域のように散らず、ネヴァのように均一でもない。留まっている。その感覚に、胸が少しだけ撫で下ろしたくなる気持ちになった。


「……あそこは、違う」


ルーミアが言う。


「何が」


「糸が、ちゃんとある」


ノエルは一瞬だけ視線を向ける。


「色糸的には、そうなのね」


「うん」


風が止み、遠くから鐘のような低い音が響いた。高く澄んだ音ではない。乾いた重厚な金属音。規則的ではないが、断続的に鳴っている。


「なにかの合図かしら」


「警報かもな」


レオンが神妙に答える。


塔の足元に、ようやく人影が見えた。門らしきものはない。ただ、石柱が二本立ち、その間に鎖が渡されている。簡素だが、通行を制限する意思はある。


ネヴァの無色平原を振り返ると、何もなく、境界も曖昧な、ただ同じ色の景色が広がっていた。断層域のざらつきも、ここには届かない。


「……あそこから、ここまで来たのよね」


ノエルが静かに言う。


「うん」


ルーミアは、自分の手を見る。震えていない。だが、奥に残る疲労は消えていない。


三人は町へ向かい、歩き出すと、塔は近づくほどに圧迫感を増す。窓は小さく、外を拒むような造りだ。装飾がないことで、余計に石の重さが視界にのしかかる。


レオンが言う。


「あそこ、図書館だな」


「分かるの?」


「建物の並びがそうだ。武器屋も酒場も見えねえ」


確かに、煙突の煙も少なく、生活の匂いが薄い。研究と記録の町。そんな印象が、遠目でも伝わる。


石柱の前に、二人の人物が立っているのが見えた。鎧でも制服でもない。だが、整った衣服と揃えられた姿勢が、ただの旅人ではないことを示している。


「止められるでしょうね」


ノエルが小さく笑う。


「武装もしてるし、怪しいだろうね。私たち」


ルーミアは胸元に触れる。色観の証ペンダントから、ひんやりとした金属の感触が指先に伝わる。


(ここで、何かが分かる)


そう直感した。


断層域で魔法が効かなかった理由。基盤の崩れ。定着しない色。ここなら、きっと手がかりがある。


ルーミアは、深く息を吸った。


「行こう」


ノエルが頷き、レオンも後に続いた。


三人は、石柱の前で足を止めた。無言の視線が、彼らを測る。ネヴァの無色平原を抜けた旅人。断層域から退いた者。だが、戻るつもりのある者。塔の影が、三人の足元を覆っていった。

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