第52話 偶然の断層
ネヴァの無色平原は、果てがなかった。空は薄く曇り、雲と地平線の境界が溶け合っている。草は生えているが色がなく、青でも緑でもなく、白とも灰とも言えない草花が、ただ、そこにあると分かるだけの草原だった。
風が吹けば揺れているはずなのに、その揺れさえ曖昧で、遠くを見ていると草、地面、川のそれぞれの境界が分からなくなる。
その平原の景色に影響されているのか、歩いている感覚もどこか薄い。
足音はしている。草を踏む感触もある。けれど、歩いているという実感が遅れてついてくるようだった。
「……変な場所ね。見方によっては綺麗な場所なんだろうけど」
ノエルが小さく言った。
「うん。怖いわけじゃないのに、落ち着かない」
ルーミアも頷く。
色糸がほとんど見えない。人がいないからではない。この土地そのものが、感情を受け止めない。怒りも悲しみも、ここでは残らない。風に流れていくみたいに、すぐ薄くなる。
まるで世界から切り離された場所みたいだった。
「静かすぎるな。鳥もいねえ。虫の音も、風の音も聞こえねえ」
レオンが周囲を見ながら言う。
言われて初めて気づく。風は吹いているはずなのに、音がしない。草は揺れているのに、擦れる音すらない。三人の足音だけが、やけに遠くまで響いていく。
ルーミアは、立ち止まった。
「……どうかした?」
ノエルが振り返ると、ルーミアは前方を見ている。
「裂けてる……」
少し先の地面が、線のように暗くなっていた。近づくと、それが影ではないと分かる。
細く、まっすぐに。誰かが大地を切り開いたみたいに、一直線に無色平原の大地に亀裂が走っている。
三人は縁まで近づく。
亀裂の中は、土の色をしていなかった。石も土も、色が抜け落ちている。輪郭だけが残っていて、深さが分からない。
「これは……自然にできたもんじゃねえな」
レオンが呟く。
「人工的な亀裂って言いたいの? それも無理よ」
ノエルが怪訝な表情のまま答えた。
ルーミアは亀裂の中を見つめた。色糸が流れている。
糸が、下へ下へと引かれている。生まれたばかりの感情の糸が、絡まる前に、ほどける前に、渦状に旋回しながらすべて下へ落ちていく。
「……吸われてる」
自分でも気づかないうちに、声が出ていた。
「ここが断層かもしれねえな。噂で聞いたことはある。地面が裂けて、町が飲み込まれたって話だ」
レオンが言う。
ノエルは周囲を見渡す。
「一本じゃないわね」
視線を動かすと、別の場所にも亀裂が見える。さらに遠くにも。大地を蜘蛛の巣みたいに、無数の裂け目が走っていた。
「……行ってみる?」
ノエルが言う。
ルーミアは少し迷ったが、頷いた。
「うん。糸が全部、同じ方向に流れてる」
三人は亀裂を飛び越えながら進む。
歩くほどに、景色が変わっていった。草の輪郭が薄くなり、石の色が消え、空の曇りも白に近づいていく。色だけじゃない。音も、匂いも、空気の重さも、少しずつ薄くなっていく。
やがて、風も止まった。さっきまで揺れていた草が、ぴたりと動かなくなる。空気が流れず、音もない。三人の足音だけが、やけに大きく響く。
「……これが、断層域の中なの?」
ノエルが呟く。その瞬間だった。
右側の地面が、音もなく盛り上がった。
「何か来るぞ!」
レオンが叫ぶ。
次の瞬間、地面が割れ、黒い塊が飛び出した。石の塊みたいな身体に、歪んだ腕のような突起。顔の形はないが、ひび割れた表面の隙間から、濁った光が漏れている。
生き物ではないはずのものが、歪な形を成して動いている。
「……なんだこれ」
レオンはすぐに剣を抜く。
黒い塊は音もなく跳ね、レオンへ腕のようなものを振り下ろした。剣がぶつかり、硬い音が響く。金属と石が擦れるような嫌な音だった。
ノエルが横から飛び込み、双剣で関節のような部分を斬る。黒い塊は崩れ、地面に落ちる。だが砕けた破片が、ゆっくりとまた動き出す。
「普通の生き物じゃないわね!」
レオンが踏み込み、核らしき部分を斬り砕く。今度は完全に動きが止まった。ノエルは、慎重に近寄り観察する。
「……魔物、なの?」
レオンが剣を払う。
「いや、違うな。血もねえし、匂いもねえ」
ルーミアは、動かなくなった塊を見つめていた。その塊の中に微かな色糸が見えた。
濃すぎる色糸だった。怒り、恐怖、後悔、憎しみ。何人分か分からないほどの感情が、無理やり一つに押し込められたみたいに、ぐちゃぐちゃに絡まっている。
そしてその糸は、地面の奥へと繋がっていた。
「……これ、感情だ」
ノエルとレオンがルーミアを見る。
「人の感情が、固まってる」
ルーミアは周囲を見渡す。断層域の中に入ってから、色糸の数が増えている。増えているどころではない。見える糸のほとんどが、地面の奥へ引かれている。
絡まりきらない感情。
ほどけきらない想い。
行き場をなくした色。
それが全部、ここへ落ちている。
「……濃すぎる」
思わず呟く。
普通なら、感情は人の中に留まり、絡まり、ほどけ、編まれ、やがて消える。色糸も同様だ。だがここでは違う。人の中に留まらず、地面の奥へ流れていく。
まるでその場所が、感情の行き場かのように。
その時だった。
地面の奥で、光が瞬いた。ほんの一瞬だった。稲妻のような強い光ではない。深い水の底で、何かが揺れたような光。
ルーミアの足が止まる。
「……今、何か光った」
ノエルが眉を寄せる。
「どこ?」
ルーミアは、断層の中心を指差す。
「地面の奥。すごく下」
レオンは断層の向こうを睨む。
「……行くか?」
ルーミアは頷いた。
胸の奥が、少しだけざわついていた。怖いわけではない。嫌な予感でもない。ただ、ここに来てはいけなかったのかもしれない、という感覚が、静かに胸の底に沈んでいた。
三人は、音のない大地を進んでいった。
歩いているはずなのに、距離の感覚が曖昧になる。足音だけがやけに大きく響き、景色はほとんど変わらない。色も風も音もない場所では、時間の流れさえ遅く感じられた。
やがて、地面が大きく抉られた場所へ辿り着く。
円形に沈んだ大地。その中心に、巨大な亀裂が口を開けていた。底は真っ暗で何も見えない。
ルーミアは息を止めた。
初めて目にするほどの、“見えすぎる色糸”。空中に無数の糸が漂っている。
絡まりきらない感情。ほどけきらない想い。
怒り、悲しみ、恐怖、後悔、祈り、諦め、希望。
あらゆる色が混ざり合い、渦を巻きながら、すべて断層の底へ落ちていく。
「……ここに、全部流れてる」
声が自然と小さくなる。
「世界の人の感情が、ここに集まってるみたい」
ノエルは断層の縁を見下ろす。
「集まってる、というより……吸われてるわね」
レオンは周囲を警戒しながら言う。
「さっきの化け物も、ここから出てきたんだろうな」
ルーミアは断層の流れを目で追った。色糸は空中で絡まる前に、全部下へ引かれていく。編まれる前の糸。形にならなかった感情。行き場をなくした想い。それらが全部、ここにある。
「……試してみる」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。単なる不確かな予感。でも止めなければいけない気がした。
ノエルは何も言わない。ただ、ルーミアの少し後ろに立つ。何かあれば引き戻せる距離。
レオンは足場を確認しながら言う。
「長くは持たねえぞ。地面、崩れかけてる」
ルーミアは断層の縁に立ち、手を伸ばした。
色糸が流れていく。その流れに糸を通す。束ねるのではなく、流れそのものを編み直す。
「色糸魔法」
断層の中心へ流れている糸が伸び、反応をみせる。まっすぐに落ちていく感情の流れの中へ糸を通し、絡ませ、結び、流れを止める。
一瞬、色の流れが崩れた。
落ちていく感情が止まり、断層の底で光が走る。
(通りそう?)
そう思った瞬間、断層全体が震えた。空間が歪み、地面が唸る。編み込んだ糸が、定着する直前で、ぱき、と乾いた音とともに砕けた。
下から何かが吹き上がる。風ではない。空間からの圧とも言えるような、感情ごと削り取るような、乾いた圧力だった。
「離れろ!」
レオンが叫ぶ。
ノエルがルーミアの腕を掴み、後ろへ引く。だがルーミアの視線は断層から離れない。砕けた糸がほどけ、流れていく。
(……これじゃダメだ、通らない)
ルーミアは、現実をはっきりと見せつけられた気分だった。
ここでは、色糸魔法が定着しない。編んでも、結んでも、すべて流される。それだけじゃない。編んだ糸が、自分の内側を削った感覚もあった。
足元の地面が崩れる。断層の縁が音もなく落ちていく。
「下がれ!」
レオンがルーミアの肩を掴み、引き倒す。ノエルも一緒に後ろへ飛ぶ。さっきまで立っていた場所が、崩れて闇の中へ落ちていった。
揺れはすぐに収まった。だが断層は静かに脈打っている。断層そのものが生き物のように呼吸し、感情を吸い続ける存在のように。
三人は少し離れた場所で立ち止まる。その光景に、しばらく誰も何も言わなかった。
ルーミアは、断層を見つめたまま言った。
「……焦ってた」
ノエルは小さく息を吐く。
「私もよ」
「通じると思ってた。色糸魔法なら、どこでも」
否定されないからこそ、胸が少し痛む。
断層を見ると、無数の色糸が落ちていっている。編もうとするほど、流れは強くなる。
「でも、違った。ここは……別物」
ノエルが頷く。
「ここは、一度退くよ」
「情報が足りねえな」
レオンが言う。
ルーミアはゆっくり目を閉じた。その表情には悔しさが滲み出ている。ここは、止めなければならない場所。その予感は、確信になりつつあった。
「……戻ろう。ここは、準備なしで来る場所じゃない」
三人は断層域に背を向ける。音のない大地を、来た道へ戻っていく。少しずつ風が戻り、草が揺れ、遠くで石の転がる音が聞こえる。
ネヴァの無色平原に出たとき、ようやく世界の音が戻ってきた。
ルーミアは自分の胸に手を当てる。
さっきの反発。ほんの少し、何かが削れたような感覚。気のせいかもしれないなのかもしれないが、確かに違った。
「……次は」
小さく呟く。
ノエルが隣で歩き、レオンが少し前を歩く。三人の影が、色のない平原に伸びる。
色糸魔法が通じなかった場所。
感情が集まり、流れ続ける場所。
断層域の奥に、何かがある。それを知らなければ、前には進めない。
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