第51話 雨に止められる
空が崩れる前触れは、いつも唐突だ。西の空に重たい雲が広がったと思った次の瞬間、雨粒がひとつ、ふたつと落ちてきた。街道を歩いていた三人は、ほぼ同時に空を見上げる。
「……来るわね」
ノエルが短く言った。
その直後、土砂降りだった。乾いた街道は一瞬で濡れ、砂埃が沈み、視界が白く煙る。ルーミアは外套のフードを引き上げるが、横殴りの雨は容赦なく頬を打った。左目に落ちた雨粒がわずかに滲むが、彼女は何も言わない。
「この先に廃小屋がある。急ぐぞ」
レオンが前に出る。迷いのない足取りで、ぬかるむ地面を踏みしめていく。
三人は走った。泥が跳ね、靴が重くなる。やがて街道脇に傾いた木造の小屋が見えてきた。屋根は半分崩れているが、壁はまだ残っている。
中へ滑り込むと、雨音は一段低くなった。
「……助かった」
ルーミアは息を整えながら壁にもたれる。外では雨が屋根を叩き続けている。小屋の中は埃っぽいが、床は乾いていた。レオンはすぐに周囲を確認し、使えそうな薪を集め始める。
「火、つけられる?」
ノエルが尋ねる。
「やってみる」
短く答え、レオンは膝をついた。湿気を含んだ薪は、なかなか言うことを聞かない。火打ち石の火花が散るたびに、かすかな煙が上がっては消える。
「……あれ、意外と苦戦してる?」
ルーミアがにやりと笑う。
「黙って見てろ」
「はいはい」
三度目の火花で、ようやく細い炎が生まれた。小さな火が薪に移り、ぱちぱちと音を立てる。
「ほらな」
レオンはわずかに得意げだ。
「今の、ちょっと怪しかったけど」
「怪しくない」
ノエルがくすりと笑う。
火が安定すると、小屋の中は一気に温かくなった。濡れた外套を脱ぎ、三人は火を囲む。雨音はまだ強い。
「足止めね」
ノエルが腕を組む。
「焦っても仕方ない」
レオンは壁に背を預けた。
「こういうの、久しぶりかも」
ルーミアが火を見つめながら言う。
「雨宿り?」
「うん。旅に出てからは、だいたい目的地があったから」
止まる理由がなかった。けれど今は、ただ雨に止められている。悪くない、とルーミアは思った。
火の明かりに照らされる二人の横顔を、そっと見る。ノエルは濡れた髪をまとめ直し、レオンは無言で火を調整している。
「ねえ」
ルーミアが顔を上げる。
「レオンってさ、野営得意?」
「普通だ」
「普通って何」
「死なない程度だ」
「基準が物騒」
ノエルが肩を震わせる。
「でもさっき、ちょっと焦ってたよね?」
「焦ってない」
「焦ってた」
ルーミアが即答する。レオンは火をつつきながら、視線だけを向けた。
「……濡れた薪は嫌いだ」
「理由が可愛いね」
「可愛くない」
火が弾ける。その音に紛れて、三人の笑い声が重なった。外の雨はまだ止まない。けれど小屋の中は、静かで、あたたかい。ただ雨に止められているだけの時間だった。
火が安定すると、小屋の中は思っていたよりも居心地がよくなった。外では雨が絶え間なく屋根を叩いている。けれど火の前に座っていると、その音すら遠く感じられた。
「しばらく止みそうにないわね」
ノエルが入口の隙間から外を覗く。灰色の幕の向こうに、街道はほとんど見えない。
「急ぐ用事もない」
レオンが短く言う。
「珍しいね、レオンがそんなこと言うの」
「事実だ」
火を見つめたまま、視線を上げない。ルーミアはくすりと笑い、濡れた靴を脱いで火の近くに置いた。
「こういうの、ちょっと楽しいかも」
「楽しい?」
ノエルが振り返る。
「うん。足止めって、なんかさ……子どもの頃みたい」
「どういう意味よ」
「急に雨が降って、帰れなくなって。軒下で待ってる時間が、妙に特別に感じる、みたいな」
ノエルは少しだけ目を細める。
「……あったわね、そういうの」
レオンは黙っている。
「レオンは?」
ルーミアが身を乗り出す。
「雨宿りの思い出とかないの?」
「……特に」
「即答」
「濡れたら乾かす。それだけだ」
「情緒がないなぁ」
ルーミアが大げさにため息をつく。ノエルが肩をすくめた。
「この人、前からそうよ。無駄な感傷は切り捨てるタイプじゃない」
「無駄じゃないよ、雨宿りは」
ルーミアは真顔で言う。
「止まる理由になるじゃん」
レオンが、ほんのわずかに目を上げた。
「……止まりたいのか」
「え?」
「止まる理由が欲しいのか」
問いは淡々としている。ルーミアは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「違うよ。今はただ、こういう時間も悪くないって話」
「ならいい」
短い返事。けれどその声音は、ほんの少しだけ柔らいでいた。
火がぱちりと弾ける。ノエルが荷袋から干し肉を取り出し、レオンに放った。
「これ焼ける?」
「焼くだけならな」
「さっき薪に苦戦してた人が?」
「だから焦ってない」
ルーミアが吹き出す。
「さっきの顔、ちょっとだけ真剣すぎたよ」
「火は大事だ」
「うん、まあ、それは分かる」
ルーミアは両手を火にかざす。温もりが指先に染みていく。
「ねえ、ノエル」
「なに」
「色観にいた頃も、こういう足止めってあった?」
ノエルは少し考えてから答えた。
「足止めはあった。でも、落ち着く時間じゃなかったわね」
「常に報告と移動?」
「そう。止まるのは“遅れ”だった」
ルーミアは火を見つめる。
「じゃあ今は?」
「……今は」
ノエルは肩をすくめた。
「ただの雨宿りよ」
その言い方が、どこか少し嬉しそうだった。レオンが干し肉を火にかざしながら言う。
「こういう時間に油断するなよ」
「出た、保護者」
「護衛だ」
「似たようなものじゃない?」
ルーミアが笑うと、レオンは小さく鼻を鳴らした。
「……勝手に転ぶからな、お前は」
「転ばないよ」
「三日前に段差で転んだ」
「それは段差が悪い」
「段差は動かない」
「味方して、ノエル!」
「段差は動かないわね」
「ひどい!」
小屋の中に、三人分の笑い声が広がる。外は土砂降り。けれどここだけは、火の色が揺れている。編むことも、選ぶことも、何も迫られない時間だった。
夜になると、雨はさらに強くなった。小屋の屋根を叩く音が一定のリズムを刻み、火のはぜる音と混ざり合う。外界と切り離されたような、閉じた空間。簡単な食事を終えると、三人は自然と火の周りに腰を落ち着けた。
「……ねえ」
ルーミアがぽつりと声を落とす。
「もし、明日も雨だったらどうする?」
「もう一泊か」
レオンは即答した。
「無理に動くと体力を無駄に消耗する」
「判断が早いなあ」
「無理に進んで足場を崩すほうが愚かだ」
その言い方はいつも通り淡々としているのに、どこか柔らかい。ノエルが火をつつきながら言う。
「あなた、ちょっと前までは、もっと強引だったわよ」
「……そうか?」
「そうよ。雨でも進む、怪我しても進む、って顔してた」
レオンは少しだけ視線を逸らした。
「若かった」
「おじさんみたいな。今も若いでしょ」
「意味が違う」
短いやり取りに、ルーミアがくすくす笑う。
「今のほうが好きかも」
二人が同時にルーミアを見る。
「無理して進むより、ちゃんと止まれるほうが」
ルーミアは火を見つめたまま続ける。
「止まるって、逃げじゃないよね」
ノエルはゆっくりと頷いた。
「逃げるのは、向き合わないこと。止まるのは、選ぶための時間よ」
「……選ぶための時間」
ルーミアは小さく繰り返す。
火の色が揺れる。その光が三人の横顔を照らし、影を作る。
「ルーミア」
レオンが静かに呼ぶ。
「なに?」
「今日は、編まなくて済みそうだな」
問いでも責めでもない。ただの確認。
「うん」
ルーミアはあっさりと頷いた。
「今日は雨宿りの日だから」
「理由がいるのか?」
「いるよ」
即答だった。
「私、理由がないと落ち着かないから」
レオンはわずかに目を細める。
「……そうか」
それ以上は何も言わない。ノエルが毛布を広げる。
「交代の見張り順は?」
「いらない。こんな雨で動く盗賊はいない」
「断言するのね」
「俺なら動かない」
「基準が自分」
「合理的だろ?」
ルーミアが毛布にくるまりながら笑う。
「なんかさ」
「なに?」
「三人でいるの、前より自然になった気がする」
ノエルが動きを止める。
レオンも、火から視線を外さないまま耳を傾ける。
「最初は、なんか変な組み合わせだなって思ってた」
「失礼ね」
「良い意味でだよ」
「どんな意味?」
「ちゃんと違うから、ちょうどいい、みたいな」
ノエルはふっと笑った。
「抽象的ね」
「でも分かる」
レオンがぽつりと口を挟む。
ノエルが意外そうに目を向ける。
「あら、珍しく同意するのね」
「否定する理由がない」
それだけ言って、レオンは火の前に座り直す。
「先に休め。火は俺が見る」
「え、ほんと?」
「寝不足で足を取られるほうが面倒だ」
「優しい〜」
「うるせえ」
ルーミアは天井の穴越しに見える暗い空を見上げた。
雨音が続いていく。その音に身を任せて、ルーミアは目を閉じた。今日は何も起きない。何も選ばない。何も編まない。それでも、隣にいる気配がある。
「……おやすみ」
小さな声。
「おやすみ」
ノエルが返す。
レオンは火を見つめたまま、わずかに頷いた。
雨は夜のあいだ、降り続いた。
けれど小屋の中は、あたたかく、静かだった。
そんな雨の日の一日。
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