第50話 進む
ラディス・ベルは、何も起きない町だった。緩やかな坂が続き、石造りの家々は低く揃い、露店も声を張り上げない。必要な分だけ売り、必要な分だけ買う。鐘楼の音も柔らかく、昼を告げても空気は揺れない。
事件も悲鳴もない。止めるものがない町。
本来なら、それは安堵のはずだった。けれどノエルの胸は、静かに軋んでいた。
三人は広場の縁に腰を下ろしている。子どもが井戸の周りを走り、犬がその後を追い、露店の店主が淡々と品を並べる。穏やかな日常。
なのに。
――編んで。
あの夜の自分の声が、まだ耳の奥に残っている。
命令だったのか、懇願だったのか。どちらでも同じだ。結果は変わらない。止められなかった。止める役の自分が、止められなかった。
「静かだね」
ルーミアが言う。明るい声だった。無理のない、普通の声。
「こういう町、嫌いじゃない」
「……そう」
短く返す。ルーミアが立ち上がるとき、ほんの一拍、遅れる。その小さな遅れが、ノエルの視界に焼きつく。左目の色も、やはり違うままだ。完全には戻らない。ほんの少し、淡い。自分が選ばせた夜の、残り火。
「ノエル?」
呼ばれて、顔を上げる。
「具合、まだ悪い?」
率直な問い。
「平気よ」
即答する。癖だ。
ルーミアはじっと見る。
「嘘」
その一言が、胸に刺さる。
レオンが横から言う。
「呼吸、浅いぞ」
視線を逸らす。見抜かれている。
「……たいしたことじゃない」
「それ、私がよく言ってたやつ」
ルーミアの声は穏やかだが、逃がさない。沈黙が落ちる。井戸の水音だけが、遠くで響いている。
「……あの夜」
ルーミアが先に口を開く。
「私が選んだよ」
その言葉に、ノエルの心臓が強く跳ねる。
「あなたに言われたからじゃない」
「違う」
思わず強く否定する。
「違うわ」
二人がこちらを見る。言葉が溢れた。
「私が、追い込んだのよ」
空気が止まる。
「止めるはずだった。限界を測るのが私の役目だった」
色観にいた頃からそうだった。観測し、制御し、暴走を止める。それが自分の立ち位置。
「それなのに私は、あなたに限界を越えさせた」
自分の声が、思ったより震えている。
「守る側の顔をして、壊させた」
「ノエル」
「違わない」
遮るように言う。
「危険よ」
その言葉は、思っていたよりも静かに落ちた。
「隣にいると、あんたは限界を越える」
広場のざわめきが遠くなる。
「止められないなら、私は何のためにいるの?」
自嘲が滲む。
「止められないなら、隣にいる意味がないじゃない」
その一瞬。ルーミアの表情が変わった。
「……勝手に決めないで」
低い声。怒りを押し殺した声。
「私が選んだって、何回言えば分かるの?」
空気がぴりりと張る。
「私を、被害者にしないで」
その言葉は、鋭かった。ノエルは言葉を失う。
「あなたが危険? じゃあ私は何?」
ルーミアが一歩近づく。
「私だって、あなたを止められなかった」
あの夜。腹を打たれ、縛られ、追い詰められたノエルを。完全には守れなかった。言われたように編むことしかできなかった。
「それでも隣にいる」
迷いなく言う。
「止められなかったからって、消える理由にはならない」
胸が痛む。だが、まだ納得できない自分がいる。
「私は……」
喉が詰まる。
「私は、また同じことを言うかもしれない」
あの声。編んで、と。
「それでも、隣にいていいの?」
弱い問いだった。レオンが、静かに息を吐く。
「逃げるな」
低い声。
「自分を悪者にして、楽になるな」
ノエルが睨む。
「楽?」
「ああ」
視線を逸らさない。
「“私が危険だから離れる”は綺麗だ」
淡々と言う。
「でもそれ、責任取ってるようで取ってねえ」
胸の奥を抉られる。
「止められなかったなら、次どうするか考えろ」
「……」
「離れるかどうかじゃねえ」
広場の鐘が、柔らかく鳴る。
ノエルの内側で、何かが大きく揺れた。止められなかった。それは事実だ。でも離れることが、本当に償いなのか。答えはまだ出ない。ただ、胸の奥の冷たい塊が、はっきりと姿を持ち始めていた。
広場の鐘の余韻が、ゆっくりと消えていく。誰も騒いでいない。何も壊れていない。ラディス・ベルは相変わらず“何も起きない町”のままだ。けれど三人の間だけ、空気が張り詰めていた。
「離れることが責任だって思ってるなら」
ルーミアが、静かに続ける。
「それ、ずるいよ」
ノエルの眉がわずかに動く。
「私を守るため、って言えば正しそうに聞こえる。でも本当は、自分を許せないだけでしょ」
言い切られる。否定できない。ノエルは拳を握る。爪が掌に食い込む。
「……許せないわよ」
声が、低く落ちる。
「あの夜の私を」
止められなかった自分を。冷静でいられなかった自分を。感情に引きずられ、限界を越えさせた自分を。
「私は“止める人”でいたかった」
それが自分の価値だった。
「でも違った。止められなかった。だから……」
言葉が詰まる。
「だから価値がない、って?」
ルーミアが即座に返す。ノエルは黙る。その沈黙が答えだった。レオンが一歩前に出る。
「価値を役目で測るな」
淡々としているが、声は硬い。
「止めるのが役目なら、止められなかったら終わりか?」
視線を真正面から受ける。
「俺は何度も止められてねえ」
短く吐き出すように言う。
「でも今ここにいる」
ノエルの胸が、どくんと鳴る。
「失敗したら退場、なんて隊じゃねえだろ、俺たち」
正論だった。正論すぎて痛い。ルーミアがさらに一歩近づく。
「私、怖いよ」
その言葉に、ノエルが顔を上げる。
「左目のことも、遅れることも、分からなくなる瞬間も」
はっきりと言う。
「でもね。ノエルがいなくなるほうが、もっと怖い」
胸を撃ち抜かれたような感覚。
「止められなかった夜があった。でも、隣にいてくれた」
それは事実だ。壊れた。取り乱した。迷った。それでも離れなかった。
「それで十分だよ」
十分。その言葉が、ノエルの中で弾ける。
「十分じゃない」
反射的に返す。
「私……もっと出来た」
「出来なかった」
ルーミアが遮る。
「それが事実」
逃げ場がない。
「だから何?」
まっすぐな視線。
「出来なかったから、次は一緒に考えるんじゃないの?」
胸の奥の塊が、軋む。止められなかった夜を、なかったことにはできない。でも。止められなかった夜があったから、終わり、なのか。ノエルはゆっくり息を吸う。
「……私は怖い」
今度は、誤魔化さない。
「また同じことを言うかもしれない。追い詰めて、限界を越えさせるかもしれない」
声が震える。
「それでも」
ルーミアが言う。
「そのときは、私が選ぶ」
強い言葉だった。
「あなたが命令しても、私は私で決める」
ノエルの喉が鳴る。あの夜は、命令だったのか懇願だったのか。もう曖昧だ。でも今は、はっきりしている。ルーミアは従属していない。選んでいる。
「止める役が揺れてもいい」
ルーミアは続ける。
「揺れたまま、一緒に考えればいい」
レオンが腕を組む。
「止められなきゃ、止め方を変えろ」
雑に聞こえるが、核心だ。
「一人で抱えるな」
広場の風が、三人の間を抜ける。ノエルは、ようやく視線を地面から上げた。止める人。それは役目だ。誇りでもある。でも、それだけではないのかもしれない。
止められなかった夜を、共有する人。悩む人。隣で迷う人。
「……私は」
ゆっくり言葉を選ぶ。
「完璧でいようとしすぎてた」
止められなかった=失格、と思い込んでいた。
「止められない夜があるなら」
息を吐く。
「止められない前提で、隣にいる方法を探す」
それは逃げではない。続ける、という選択だ。ルーミアの表情が、わずかに緩む。
「うん」
「離れない」
はっきりと言う。
「止められなくても、隣にいる」
それが、今出せる答え。レオンが小さく頷く。
「それでいい」
静かな町の空が、夕焼けに染まり始める。何も起きない町。けれどノエルの中では、大きな線引きが変わった。止められなかった自分は、失格ではない。
未完成だ。壊れたまま、未完成のまま、続ける。
「……進むわよ」
今度は、はっきりと。
「止められなくても、進む」
ルーミアが笑う。
「うん」
レオンが肩をすくめる。
「坂ばっかだけどな」
小さな笑いが重なる。
完璧ではない。左目はほんの少し違うまま。判断も、まだ遅れることがある。それでも三人は並んで、ラディス・ベルの坂を上る。
壊れたまま。未完成のまま。それでも前に進む。
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