第49話 沈まない影
水上都市アクア・リーネを離れてからも、どこか湿った匂いが胸の奥に残っていた。実際に空気は乾いている。街道の土は白くひび割れ、風は軽く、衣の裾をさらっていくだけだ。それでも、振り返れば水面が広がっているような錯覚に、ルーミアは何度か足を止めかけた。
後ろを確認する仕草が、以前よりわずかに増えていることに、彼女自身は気づいている。だが、それをやめようとはしない。
「まだ気になるの?」
ノエルはそう問いながらも、視線は周囲ではなくルーミアに向けられていた。問いかけというより、確認に近い。
「ううん。ただ……あの町、水が多いのに、喉が渇く感じがして」
うまく言語化できず、ルーミアは小さく笑う。その笑みは自然だが、どこか薄い。
レオンは前を歩きながら淡々と言った。
「長居する場所じゃなかった。それだけだ」
余計な意味を持たせない言い方だったが、ノエルの緊張は解けない。歩きながら、彼女は一定の間隔で名前を呼ぶ。
「ルーミア」
「なに?」
すぐに返る声。その即答を聞くたびに、ノエルの呼吸はわずかに整う。
だが、次の呼びかけまでの沈黙が、妙に長く感じられる。
やがて辿り着いたのは、内海に面した小さな港町だった。ヴェルド=マーレ。入り江に沿って木造の家々が並び、干された網と揺れる帆が陽光を受けている。波は穏やかで、岸壁に寄せては静かに引いていく。
水は、ただそこにある。揺れているが沈まない。
「……きれいだね」
ルーミアが素直に呟く。その横顔は柔らかい。左目の色は、強い日差しの下ではほとんど違いが分からない。ただ、よく見れば、右よりわずかに淡い。
「こっちはちゃんと海だもの」
ノエルはそう言いながらも、ルーミアの瞳から視線を逸らさない。崩壊したあの日以降、彼女の中では何かが壊れたまま固定されている。理性は働いている。だが、その奥にある執着は、もう隠れていない。
宿に荷を置いたあと、三人は浜辺を歩いた。浅瀬では子どもたちが遊び、漁師たちが舟を引き上げている。町全体が生活の音に満ちている。その光景は健やかで、どこにも不穏は見当たらない。
それでも、ルーミアの足はある一点で止まった。
波打ち際に、一人の少年が立っている。ほかの子どもたちから少し離れ、じっと海を見つめていた。
「……あの子」
ルーミアが呟く。
「どうした」
「いや、なんでもない。ただ気になっただけ」
少年の口が動く。声は届かない。だが次の瞬間、入り江の波が不自然に静止した。
ほんの一瞬の出来事だった。風も、揺れも、すべてが止まり、水面が鏡のように空を映す。町、舟、空、全てをそのまま閉じ込めるように静止する。
そして、すぐに波は戻った。周囲の誰も気づいていない。子どもたちは笑い、漁師は縄を引き、いつも通りの時間が流れている。
だが、三人は確かに見た。
「……今、止まったよね」
ルーミアの声は低い。
「偶然だ」
レオンはそう言ったが、その目は少年を外さない。少年が振り返る。目が合う。その瞳に敵意はない。ただ、どこか静かな寂しさが滲んでいる。
口が動いた。
――呼んで。
音はない。それでも意味だけが届いた気がした。ルーミアの胸の奥に、冷たいものが落ちる。あの夜、橋の上で呼ばれた自分の名前が、蘇る。
ノエルの手が、わずかに動いた。
「行こう」
低い声だが強制ではない。退くべきか、近づくべきかを量る声音。
ルーミアは、少年から目を逸らさないまま、小さく息を吸った。この町の水は沈まない。ただ揺れている。だが、その揺れの奥で、何かが名前を待っている。
波は何事もなかったかのように岸に寄せる。
それでもルーミアの影は、陽光の下でほんのわずかに輪郭が曖昧だった。そしてノエルは、それを見逃さなかった。
翌朝、港は昨日と変わらず動いていた。舟が軋み、網が引き上げられ、魚の銀色が朝日に跳ねる。ヴェルド=マーレは、どこまでも健やかだ。水は青く澄み、波は穏やかで、昨日の静止が幻だったかのように規則正しく揺れている。
それでも、三人の間には言葉にしない確認があった。
「……夢じゃないよね」
ルーミアが小さく言う。ノエルは表情を変えずに答えた。
「何の話?」
「波、止まったやつ」
レオンが短く割り込む。
「俺も見た」
誰も否定しない。誰も深掘りしない。
浜辺には、昨日と同じ少年が立っている。潮で固まった髪が朝日に光り、裸足の足先は浅瀬の水に触れていた。近づいても逃げない。逃げる必要がないと知っているように、静かに三人を見返している。
「おはよう」
ルーミアが声をかけると、少年は少し首を傾げた。
「きのう、見てた?」
「うん」
正直に頷くルーミアの横で、ノエルの視線は少年の口元を見逃さない。
「たまに、止まるんだ」
少年はそう言って、海を見た。
「どうして?」
「呼ぶから」
その一言で、空気がわずかに変わる。呼ぶ。名前を。止まる水。ルーミアは、胸の奥がひやりと冷えるのを感じながらも、少年の瞳から目を逸らさなかった。
「誰の名前?」
少年は首を振る。
「わかんない。でも呼ぶと、止まる」
誇りも恐れもない声音だった。ただ事実を述べるだけの、静かな口調。ルーミアは一歩、波打ち際へ踏み出す。
「もう一回、やってみる?」
ノエルは止めない。ただ、いつでも手を伸ばせる距離に立つ。
少年は目を閉じ、小さく何かを呟いた。次の瞬間、入り江の水面がまた静止した。風が止まり、波が凪ぎ、世界が音を失う。空がそのまま海に沈み、町も舟も、すべてが鏡に閉じ込められる。
ルーミアは、水面を覗き込んだ。そこに映る三人。ノエル。レオン。そして、自分。今度は、はっきり分かった。
ノエルとレオンは瞬きと同時に動く。だが、ルーミアの影だけが、わずかに遅れる。呼吸一つ分。ほんのそれだけの差だが、確実に。
水面のルーミアは、一拍遅れて瞬きをする。
「……見たか」
レオンの低い声が、静止した空気の中に落ちる。波が戻り、音が帰ってくる。世界は何事もなかったように動き出す。少年は満足したように息を吐き、浜辺を駆けていった。残された三人の間に、沈黙が落ちる。
「遅れてた」
ノエルが言う。その声には、もう驚きはない。確認だ。
ルーミアは靴についた砂を払う。
「光の屈折じゃない? 水だし」
軽い調子で笑う。だが、その笑みはどこか遠い。ノエルは笑わない。視線はルーミアの左目に落ちる。朝日を受けて、その瞳は以前よりもわずかに淡い。ほんの少し違うまま。それでも確実に、変わっている。
「……帰るわよ」
その声音は穏やかだが、強く締め付けるものを含んでいた。
宿へ戻る途中、ノエルは何度も名前を呼んだ。
「ルーミア」
「なに?」
返事は即座に返る。その速さに、ノエルの胸は一瞬だけ緩む。だが、呼ばなければどうなるのかを、彼女はもう知っている。
夜。部屋の灯りの下で、ルーミアは鏡の前に立っていた。左目は、以前よりも少しだけ淡い。銀に近かった色は、朝靄のように薄くなっている。失われてはいない。ただ、存在の濃度が下がっているような感覚。
「……怖いな」
ぽつりと、誰にも聞かれない声が落ちる。怖いと思っている自分はいる。だが同時に、それが当然の帰結であるかのように、静かに受け入れている自分もいる。
色糸を編み続けた代償。世界に触れすぎた証。
そうあるべきだと、どこかで納得してしまっている。
扉の向こうから、ノエルの声がする。
「ルーミア」
ほんの一瞬、返事が遅れかける。ルーミアは、わざと明るく答えた。
「なに?」
鏡の中の自分は、わずかに遅れて口を動かした気がした。気のせいだと思うことにする。水は沈めない。ただ映し、ずらし、遅れを暴く。
呼ばれ続けているうちは、まだ輪郭は保たれる。だが、呼ばれなくなったとき。そのとき、影はきっと、水よりも静かに溶けていく。
ヴェルド=マーレの夜は穏やかだった。
波は揺れ、舟は軋み、町は何事もなく眠る。
それでも。
ルーミアの影は、確かに世界より一拍、遅れていた。
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