表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
52/69

第48話 名前を呼ぶ

 水の匂いが先に届いた。街道を抜け、緩やかな坂を下った先にそれは広がっていた。水上都市――アクア・リーネ。


 湖でも海でもない。大きな内湾に無数の桟橋が伸び、その上に白い家々が並んでいる。青い屋根が水面に映り、風が吹くたびに町そのものが揺れているように見えた。


「……綺麗」


ルーミアが、ほとんど息のように呟く。確かに美しい町だった。光と水だけで出来ているみたいに、やわらかい。


「足元、滑るなよ」


レオンが先に橋へ足をかける。板張りの橋は、体重を乗せるとわずかに沈んだ。水音がすぐ近くで鳴る。


ノエルはルーミアの横に並ぶ。


「大丈夫?」

「……うん」


返事はすぐだった。けれど歩き出すまでに、ほんの一瞬だけ間がある。自分でも分かる、そのわずかな遅れ。


ルーミアは視線を落とす。水面に映る町。揺れる空。右目に映る景色は、くっきりと鮮やかだ。左目に映るそれは、ほんの少しだけ淡い。見えないわけじゃない。ぼやけているわけでもない。ただ――色が浅い。


(……まだ、大丈夫)


そう思って、顔を上げる。橋を渡ると、子どもたちが駆け抜けていった。水飛沫が上がり、笑い声が水面に跳ねる。


「この町、静かだけど……重くないね」


ルーミアが言う。色糸は穏やかだった。薄いが、絡まりも沈みもない。水のように揺れているだけ。


「観光地でもあるらしいわ」


ノエルが周囲を見回す。


「湧き水が有名なんですって」



 中央広場には、円形の水場があった。澄んだ水が絶えず湧き、石の縁から溢れて細い水路へと流れていく。その周囲で、人々が静かに手を浸し、何かを呟いていた。


「……何してるんだろ」


「願掛けだろうな」

レオンが言う。


近くにいた老婆が振り返り、三人に目を細めた。

「旅人かい」


「ええ」

ノエルが答える。


「ここはね、名前を忘れない町なんだよ」


「名前?」

ルーミアが首を傾げる。


「この水は全部覚えてる。ここに落ちたものは、消えない」


老婆は水面を指さした。


「大事な人の名前を、声に出して沈めるんだ」


沈める。その言葉に、ルーミアの視線が水面へ落ちる。揺れる光。自分の顔が歪んで映る。一瞬、輪郭が薄く見えた。自分だけ少し淡い。


「……?」


「どうした」

レオンの声。


「ううん」

ルーミアはすぐに笑う。


「水って、反射すごいね」


左目に、わずかな違和感。光を受けると、色がさらに浅く見える。でも、それを指摘する人はいない。


老婆が続ける。


「夕方になると、“名前を呼ぶ時間”がある。みんなで順番に呼ぶのさ」


「生きてる人も?」

「ああ。いなくなった人もね」


呼ぶ。名前で。ルーミアは無意識に左目へ触れかけ、やめた。触れたところで、戻るわけじゃない。



 夕方。鐘が低く鳴り、人々が水場を囲む。誰も騒がない。ただ静かに、順番に、名前を落としていく。


「おとうさん」


幼い声が水に溶ける。波紋がひとつ、広がる。


「ユハン」

「エレナ」


名前だけが落ちていく。祈りではなく、確認のように。


「……不思議だね」

ルーミアが言う。


「何が?」


「名前を呼ぶだけで、“いる”って思える」


ノエルは答えない。やがて、老婆が三人を見る。


「旅人さん方も、どうだい」


レオンは首を振った。

「俺はいい」


「私は見てるわ」

ノエルも静かに言う。


視線がルーミアに向く。一瞬だけ迷う。そして、水辺へ歩み寄った。橋板がわずかに沈む。水音が近い。水面に映る自分。右目は、いつも通り。左目は――やはり、少し淡い。それをルーミアは知っている。


「……ノエル」


名前を落とす。波紋が広がる。ノエルの肩が、わずかに揺れた。


「……レオン」


もうひとつ、落とす。


最後に水面の自分を見る。映る姿が、ほんの少し薄い。だから。


「……ルーミア」


小さく、自分の名を呼ぶ。


水面が揺れた。風は強くない。それでも波紋が大きく広がる。光が乱れ、映る顔が砕ける。ノエルは一歩踏み出す。


「……大丈夫?」

「うん」


ルーミアはすぐに笑う。けれど揺れが収まった瞬間、ノエルは見た。水面に、レオンと自分は映っている。


でも、ルーミアの姿だけが、ほんの一拍遅れて浮かび上がった。まるで、名前を呼ばれて、今ここに固定されたみたいに。水はすぐに穏やかになる。


「ちょっと揺れただけ」


ルーミアは言う。声は安定している。足取りも変わらない。左目は、ほんの少し違うまま。誰もそれを指摘しない。ただ。ノエルの胸に、言葉にならない違和感だけが残った。


アクア・リーネは静かに揺れている。呼ばれた名前は、水に残る。呼ばれなければ――どうなるのか。まだ、誰も口にしていなかった。



 夜のアクア・リーネは、昼よりも静かだった。灯りが水面に溶け、揺れる光が橋板の裏まで届いている。風は弱い。水は絶えず動いているのに、音はほとんどしない。


宿へ戻る途中、ルーミアは二度、足を止めた。


「……どうしたの?」

ノエルが問う。


「ううん」

ルーミアは少しだけ首を傾げる。


「なんか、呼ばれてる気がして」

「呼ばれてる?」


「うん。でも、分かんないや」

笑って、また歩き出す。


その背中を、ノエルは見つめる。夕方、水面に映らなかった一瞬。遅れて浮かび上がった姿。見間違いかもしれない。水の反射かもしれない。そう思おうとしても、胸の奥のざらつきは消えなかった。



 部屋は水路に面していた。窓を開けると、夜の運河がゆるやかに流れている。揺れる灯りが、天井に反射する。


「今日は静かだね」

ルーミアが窓辺に立つ。


「観光客は夜は出歩かないらしい」

レオンが短く答える。


ノエルは荷を下ろしながら言った。

「明日の朝、出る?」


「うん。長くいる町じゃない気がする」

「何かあったのか?」


レオンの問いに、ルーミアは少し考える。


「ううん。ただ……」

視線が、水面へ落ちる。


「ここ、名前を呼ばないと、いるかどうか分からなくなりそう」


冗談みたいな言い方だった。でも、冗談ではなかった。ノエルはその言葉を否定しなかった。



 深夜。水が跳ねる音で、ノエルは目を覚ました。隣の寝床は、空だった。


「……ルーミア?」


返事はない。レオンも同時に目を開ける。


「どこだ」

「外?」


二人は階段を駆け下り、水路へ出る。橋の中央に、ルーミアは立っていた。水面を見下ろしている。


「……ルーミア」


ノエルが呼ぶ。彼女は、ゆっくり振り向いた。


「……ノエル?」


少し困ったような顔。


「ちょっと、変なんだ」

「何が」


「みんなの声が、遠い」


風はない。水も荒れていない。それなのに。橋板が、わずかに沈んでいる。ノエルの視界が揺らぐ。


違う。沈んでいるのは橋ではない。ルーミアの影が、水に溶けている。足元から輪郭が淡くなる。


「……ここに、いるよね?」


自分の手を見つめながら、ルーミアが言う。声は震えていない。ただ、確認するように。


「いるわ」


ノエルは即座に答える。レオンが橋へ踏み込む。


「動くな」


橋がさらに沈む。水が溢れ、ルーミアの足首に触れる。水面に映る姿。ノエルとレオンははっきりしている。でも、ルーミアの映りだけがわずかに遅れる。


一拍。呼吸ひとつ分。


「……呼んでくれる?」


ルーミアが、静かに言う。


「私の名前」


その声に、ノエルの喉が締まる。

「ルーミア!」


強く、はっきりと。波紋が広がる。レオンも低く名を呼ぶ。


「ルーミア」


もう一度。


「ルーミア」


水面が揺れる。溶けかけていた輪郭が、ゆっくりと戻る。足元の沈みが止まる。橋は元の高さへ戻る。


ルーミアは、その場に立っている。消えていない。ただ、顔色がひどく悪い。


「……ごめん」


息を整えながら言う。


「ちょっと、分からなくなった」


ノエルは駆け寄り、強く抱き寄せた。


「分からなくなる前に言いなさい」


声が震えている。


「……うん」


ルーミアは頷く。怖くないわけじゃない。


でも。


これが起こることは知っていた気がする。名前を呼ばれなければ、輪郭が揺らぐ。それが当然みたいに。



 宿へ戻る道で、誰も言葉を発さなかった。部屋に入り、椅子に座らせる。


「大丈夫か」

レオンの問い。


「うん。今はいる」


“今は”。その一言が、ノエルの胸に重く落ちる。


「……ありがとう」


ルーミアが二人を見る。


「呼んでくれて」


ノエルは何も言えない。もし気づくのが遅れたら。もし、呼ばなかったら。その先を想像してしまう。



 翌朝。アクア・リーネは何事もなかったかのように、美しかった。橋も、水も、沈んでいない。出立の準備を終え、町を離れる。


去り際、昨日の老婆が三人を見た。


「忘れないでおくれよ」

穏やかな声。


「呼ばれなくなったものは、水に還る」

誰に向けた言葉かは分からない。


だが。ノエルは無意識に口にしていた。


「ルーミア」


「なに?」


即座に返る声。それを聞いて、ようやく息ができる。


水は何も奪っていない。けれど名前を呼ばれなければ、存在は揺らぐ。


ルーミアは歩いている。左目は、ほんの少し違うまま。怖いと感じる自分はいる。でも同時に、これはそういうものなのだと、静かに受け入れ始めてもいる。呼ばれれば、ここにいる。呼ばれなければ、揺らぐ。


アクア・リーネは、何も壊さなかった。


ただ。


進行しているものを、静かに映しただけだった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

よろしければ、ブックマーク、評価をいただけると励みになります!

よろしくお願いいたします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ