第48話 名前を呼ぶ
水の匂いが先に届いた。街道を抜け、緩やかな坂を下った先にそれは広がっていた。水上都市――アクア・リーネ。
湖でも海でもない。大きな内湾に無数の桟橋が伸び、その上に白い家々が並んでいる。青い屋根が水面に映り、風が吹くたびに町そのものが揺れているように見えた。
「……綺麗」
ルーミアが、ほとんど息のように呟く。確かに美しい町だった。光と水だけで出来ているみたいに、やわらかい。
「足元、滑るなよ」
レオンが先に橋へ足をかける。板張りの橋は、体重を乗せるとわずかに沈んだ。水音がすぐ近くで鳴る。
ノエルはルーミアの横に並ぶ。
「大丈夫?」
「……うん」
返事はすぐだった。けれど歩き出すまでに、ほんの一瞬だけ間がある。自分でも分かる、そのわずかな遅れ。
ルーミアは視線を落とす。水面に映る町。揺れる空。右目に映る景色は、くっきりと鮮やかだ。左目に映るそれは、ほんの少しだけ淡い。見えないわけじゃない。ぼやけているわけでもない。ただ――色が浅い。
(……まだ、大丈夫)
そう思って、顔を上げる。橋を渡ると、子どもたちが駆け抜けていった。水飛沫が上がり、笑い声が水面に跳ねる。
「この町、静かだけど……重くないね」
ルーミアが言う。色糸は穏やかだった。薄いが、絡まりも沈みもない。水のように揺れているだけ。
「観光地でもあるらしいわ」
ノエルが周囲を見回す。
「湧き水が有名なんですって」
中央広場には、円形の水場があった。澄んだ水が絶えず湧き、石の縁から溢れて細い水路へと流れていく。その周囲で、人々が静かに手を浸し、何かを呟いていた。
「……何してるんだろ」
「願掛けだろうな」
レオンが言う。
近くにいた老婆が振り返り、三人に目を細めた。
「旅人かい」
「ええ」
ノエルが答える。
「ここはね、名前を忘れない町なんだよ」
「名前?」
ルーミアが首を傾げる。
「この水は全部覚えてる。ここに落ちたものは、消えない」
老婆は水面を指さした。
「大事な人の名前を、声に出して沈めるんだ」
沈める。その言葉に、ルーミアの視線が水面へ落ちる。揺れる光。自分の顔が歪んで映る。一瞬、輪郭が薄く見えた。自分だけ少し淡い。
「……?」
「どうした」
レオンの声。
「ううん」
ルーミアはすぐに笑う。
「水って、反射すごいね」
左目に、わずかな違和感。光を受けると、色がさらに浅く見える。でも、それを指摘する人はいない。
老婆が続ける。
「夕方になると、“名前を呼ぶ時間”がある。みんなで順番に呼ぶのさ」
「生きてる人も?」
「ああ。いなくなった人もね」
呼ぶ。名前で。ルーミアは無意識に左目へ触れかけ、やめた。触れたところで、戻るわけじゃない。
夕方。鐘が低く鳴り、人々が水場を囲む。誰も騒がない。ただ静かに、順番に、名前を落としていく。
「おとうさん」
幼い声が水に溶ける。波紋がひとつ、広がる。
「ユハン」
「エレナ」
名前だけが落ちていく。祈りではなく、確認のように。
「……不思議だね」
ルーミアが言う。
「何が?」
「名前を呼ぶだけで、“いる”って思える」
ノエルは答えない。やがて、老婆が三人を見る。
「旅人さん方も、どうだい」
レオンは首を振った。
「俺はいい」
「私は見てるわ」
ノエルも静かに言う。
視線がルーミアに向く。一瞬だけ迷う。そして、水辺へ歩み寄った。橋板がわずかに沈む。水音が近い。水面に映る自分。右目は、いつも通り。左目は――やはり、少し淡い。それをルーミアは知っている。
「……ノエル」
名前を落とす。波紋が広がる。ノエルの肩が、わずかに揺れた。
「……レオン」
もうひとつ、落とす。
最後に水面の自分を見る。映る姿が、ほんの少し薄い。だから。
「……ルーミア」
小さく、自分の名を呼ぶ。
水面が揺れた。風は強くない。それでも波紋が大きく広がる。光が乱れ、映る顔が砕ける。ノエルは一歩踏み出す。
「……大丈夫?」
「うん」
ルーミアはすぐに笑う。けれど揺れが収まった瞬間、ノエルは見た。水面に、レオンと自分は映っている。
でも、ルーミアの姿だけが、ほんの一拍遅れて浮かび上がった。まるで、名前を呼ばれて、今ここに固定されたみたいに。水はすぐに穏やかになる。
「ちょっと揺れただけ」
ルーミアは言う。声は安定している。足取りも変わらない。左目は、ほんの少し違うまま。誰もそれを指摘しない。ただ。ノエルの胸に、言葉にならない違和感だけが残った。
アクア・リーネは静かに揺れている。呼ばれた名前は、水に残る。呼ばれなければ――どうなるのか。まだ、誰も口にしていなかった。
夜のアクア・リーネは、昼よりも静かだった。灯りが水面に溶け、揺れる光が橋板の裏まで届いている。風は弱い。水は絶えず動いているのに、音はほとんどしない。
宿へ戻る途中、ルーミアは二度、足を止めた。
「……どうしたの?」
ノエルが問う。
「ううん」
ルーミアは少しだけ首を傾げる。
「なんか、呼ばれてる気がして」
「呼ばれてる?」
「うん。でも、分かんないや」
笑って、また歩き出す。
その背中を、ノエルは見つめる。夕方、水面に映らなかった一瞬。遅れて浮かび上がった姿。見間違いかもしれない。水の反射かもしれない。そう思おうとしても、胸の奥のざらつきは消えなかった。
部屋は水路に面していた。窓を開けると、夜の運河がゆるやかに流れている。揺れる灯りが、天井に反射する。
「今日は静かだね」
ルーミアが窓辺に立つ。
「観光客は夜は出歩かないらしい」
レオンが短く答える。
ノエルは荷を下ろしながら言った。
「明日の朝、出る?」
「うん。長くいる町じゃない気がする」
「何かあったのか?」
レオンの問いに、ルーミアは少し考える。
「ううん。ただ……」
視線が、水面へ落ちる。
「ここ、名前を呼ばないと、いるかどうか分からなくなりそう」
冗談みたいな言い方だった。でも、冗談ではなかった。ノエルはその言葉を否定しなかった。
深夜。水が跳ねる音で、ノエルは目を覚ました。隣の寝床は、空だった。
「……ルーミア?」
返事はない。レオンも同時に目を開ける。
「どこだ」
「外?」
二人は階段を駆け下り、水路へ出る。橋の中央に、ルーミアは立っていた。水面を見下ろしている。
「……ルーミア」
ノエルが呼ぶ。彼女は、ゆっくり振り向いた。
「……ノエル?」
少し困ったような顔。
「ちょっと、変なんだ」
「何が」
「みんなの声が、遠い」
風はない。水も荒れていない。それなのに。橋板が、わずかに沈んでいる。ノエルの視界が揺らぐ。
違う。沈んでいるのは橋ではない。ルーミアの影が、水に溶けている。足元から輪郭が淡くなる。
「……ここに、いるよね?」
自分の手を見つめながら、ルーミアが言う。声は震えていない。ただ、確認するように。
「いるわ」
ノエルは即座に答える。レオンが橋へ踏み込む。
「動くな」
橋がさらに沈む。水が溢れ、ルーミアの足首に触れる。水面に映る姿。ノエルとレオンははっきりしている。でも、ルーミアの映りだけがわずかに遅れる。
一拍。呼吸ひとつ分。
「……呼んでくれる?」
ルーミアが、静かに言う。
「私の名前」
その声に、ノエルの喉が締まる。
「ルーミア!」
強く、はっきりと。波紋が広がる。レオンも低く名を呼ぶ。
「ルーミア」
もう一度。
「ルーミア」
水面が揺れる。溶けかけていた輪郭が、ゆっくりと戻る。足元の沈みが止まる。橋は元の高さへ戻る。
ルーミアは、その場に立っている。消えていない。ただ、顔色がひどく悪い。
「……ごめん」
息を整えながら言う。
「ちょっと、分からなくなった」
ノエルは駆け寄り、強く抱き寄せた。
「分からなくなる前に言いなさい」
声が震えている。
「……うん」
ルーミアは頷く。怖くないわけじゃない。
でも。
これが起こることは知っていた気がする。名前を呼ばれなければ、輪郭が揺らぐ。それが当然みたいに。
宿へ戻る道で、誰も言葉を発さなかった。部屋に入り、椅子に座らせる。
「大丈夫か」
レオンの問い。
「うん。今はいる」
“今は”。その一言が、ノエルの胸に重く落ちる。
「……ありがとう」
ルーミアが二人を見る。
「呼んでくれて」
ノエルは何も言えない。もし気づくのが遅れたら。もし、呼ばなかったら。その先を想像してしまう。
翌朝。アクア・リーネは何事もなかったかのように、美しかった。橋も、水も、沈んでいない。出立の準備を終え、町を離れる。
去り際、昨日の老婆が三人を見た。
「忘れないでおくれよ」
穏やかな声。
「呼ばれなくなったものは、水に還る」
誰に向けた言葉かは分からない。
だが。ノエルは無意識に口にしていた。
「ルーミア」
「なに?」
即座に返る声。それを聞いて、ようやく息ができる。
水は何も奪っていない。けれど名前を呼ばれなければ、存在は揺らぐ。
ルーミアは歩いている。左目は、ほんの少し違うまま。怖いと感じる自分はいる。でも同時に、これはそういうものなのだと、静かに受け入れ始めてもいる。呼ばれれば、ここにいる。呼ばれなければ、揺らぐ。
アクア・リーネは、何も壊さなかった。
ただ。
進行しているものを、静かに映しただけだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
よろしければ、ブックマーク、評価をいただけると励みになります!
よろしくお願いいたします




