第47話 止められない
レグナ=ディアスは、崖に抱かれた町だった。灰白色の岩壁が町を半円状に囲み、唯一の出入口は峡谷へ続く細い道だけ。風は上から落ちてきて、通りを抜ける頃には冷たく乾いている。
交易路から外れた土地にしては、建物は整っていて石畳も崩れず、荒廃しているわけではない。
だが、人の視線が重い。
窓の奥や半開きの扉の隙間。誰もがこちらを見ている。
「……色、強い」
ルーミアが小さく訊く。
「気味が悪いわね」
ノエルはそう答えた。
ルーミアでなくとも、町の空気の質で分かる。感情を押し殺している町。嫌な予感が薄く広がる。
宿に荷を預け、三人は町を一周した。目立った異変や病人は見当たらない。
「……誰か見てる」
レオンがぽつりと言った。
ノエルは頷く。視線は慣れていて敵意とも違う。評価する目だ。“観察する側”の目。
「深入りせず、様子を見るだけ」
ルーミアは素直に頷いた。
夜。レオンが宿の裏手を見てくると言って外に出たあと、ルーミアは早めに休んだ。ノエルは一階の食堂で水を飲んでいた。
すると扉が開き、三人の男が入ってきた。旅人にしては静かすぎる足取り。
「……久しぶりだな」
声で色観の人間だとわかる。おそらく元。ノエルの喉が冷える。
「所属は?」
「もうない」
短く返し、男の口元が歪む。
「お前は追い出された側だ」
ノエルは立ち上がる。
「何の用?」
「検証だ」
その単語で背筋が凍る。
「色糸魔法の限界値を知りたい」
ノエルは瞬時に剣に手をかけた、が遅い。背後から腕を抑えられる。二人。油断していなかったはずなのに、動きが速い。腹部に拳がめり込む。
「っ……!」
呼吸が抜け、膝が折れる。床に落ちる前に髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
「まずはこの女を折る」
男が言う。
「お前は、あの娘の“制御装置”だ」
もう一撃。腹の奥に鈍く沈む痛み。吐き気が込み上げる。それでも睨む。
「……卑怯ね」
声は掠れているが、崩れてはいない。男は笑う。
「卑怯? 救えなかった側が言う台詞か?」
狙っている。色観時代の傷を。ノエルの眉がわずかに動く。それを見逃さない。
「観測だけして、何人見殺しにした?」
「……」
「だから今度は、編ませる」
縄で両腕を縛られ、椅子に座らされる。呼吸が浅く、立ち上がろうとしても腹の痛みが邪魔をする。
「離せ」
冷静に言う。
「彼女に近づいたら、ただじゃ済まさない」
男の一人が、静かに答える。
「その“ただじゃ済まない”を見たいんだ」
扉が開く。連れてこられたのは、若い女性だった。
「……先輩」
「……は?」
見覚えがある。色観時代の後輩。その声が胸を刺す。彼女の背後には、さらに小さな影。弟だ。まだ十にも満たない。ノエルの視界が一瞬揺れる。
「どうして……」
後輩は泣いている。
「この町、止まってるんです。誰も動かない。観測だけで終わるんですか?」
狂乱者が、子どもの腕を掴む。小さな悲鳴。刃が皮膚に触れる。浅いが、血が滲む。ノエルの呼吸が止まる。
「外道が。やめろ」
「編ませればいい。まだ止めるな」
視線がぶつかる。
遠くから足音がした。ルーミア? このタイミングで。ノエルの胸が激しく打つ。
(来ちゃだめ)
祈りに近い思考。だが扉は開き、ルーミアが立ち尽くす。状況を見て息を呑む。
「……え? ノエル?」
後輩が叫ぶ。
「お願いします、先輩!」
子どもが泣く。
「痛いよ……」
ノエルの中で何かが軋んでいく。止めるか、守るか。守るなら、止められない。腹の痛みよりも、胸が痛む。ルーミアの目が迷いで揺れる。ノエルは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。そして、開く。
「……ごめん、編んで」
声は掠れていた。でも、はっきり届いた。ルーミアの喉が小さく震えた。
「……ノエル?」
(色糸接触で隙を……)
ノエルは視線を逸らさない。縄に縛られ、腹部には鈍痛、呼吸は浅い。それでも背筋は折れていない。
狂乱者の一人が、子どもの腕に当てた刃をわずかに押し込み、赤が滲む。
「早くしろ。妙な真似はするな?」
淡々とした声。
(だめ。人数差があり過ぎて意味がない……)
ルーミアの視界に糸が見えている。後輩の女性から伸びる糸は、極限まで引き絞られた色。その弟の糸は、細く震えている。
そして――
ノエルの糸。
張り詰めた銀と深い青が絡み合い、今にも裂けそうなほど緊張している。
「……やめて」
ルーミアが呟く。誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
ノエルは歯を食いしばった。
(だめ)
本音は、そこにある。
(でも)
子どもの泣き声が、耳を貫く。
色観時代に守れなかった命。観測しかできなかった夜。全部が一瞬で蘇る。男がノエルの髪を掴み、顔を上げさせる。
「次、止めろと言ってみろよ」
試すように。
「命令しろ」
ノエルは睨み返すが、さらに腹にもう一発。鈍い衝撃。
「う゛っ……」
息が抜け、視界が滲む。言わない。代わりに、震える声で――
「……編ん゛で」
ルーミアの瞳が揺れる。
「でも」
「今なら間に合う」
それは事実だ。糸は、まだ切れていない。
「お願い」
その一言は弱さだった。ノエルは、自分の弱さを理解している。止められない。守るために止められない。それが、どれほど悔しいか。
ルーミアは一歩前に出た。
「――色糸魔法」
詠唱が空気を裂き、糸が激しく揺れる。子どもの恐怖。姉の絶望。町に沈殿していた停滞の色。それらが一斉に浮き上がる。ルーミアの顔色が、瞬時に変わる。
「っ……!」
膝が震える。狂乱者たちは息を呑む。観測、実験。彼らの目は、救いではなく、数値を測る目。
「いいぞ」
一人が囁く。
「限界まで引き出せ」
ノエルの胸が凍る。
「やめ゛ろ!」
叫ぶ。が、腹の痛みで身体が動かない。ルーミアの背中が小さく揺れる。糸が布に編み込まれていく。その代償が目に見える。呼吸が乱れ、視線が虚ろになる。
「もういい!」
ノエルが叫ぶ。
「止めて!」
――最後の一針が落ちる。
空気が静まった。
子どもの泣き声が止む。傷は塞がり、恐怖は薄まる。姉は崩れ落ち、弟を抱きしめる。
「ありがとうございます……」
その言葉がナイフのように刺さる。ルーミアは、ふらりと前に倒れかける。縄を無理やり引きちぎろうとするが、解けない。
「ルーミア!」
レオンが、遅れて飛び込んできた。剣が閃き、狂乱者の一人が吹き飛ぶ。
混乱。だがノエルの視界はそこではない。ルーミアの目。焦点が外れている。
「……平気」
そう言う。
その“平気”が、致命的に軽い。ノエルの胸の奥で、何かが崩れる。
(私が言わせた)
編めと言った。止められなかった。守るために壊した。
「ああ……」
狂乱者たちはレオンによって制圧される。だが、勝敗などどうでもいい。ノエルは、ようやく縄を解かれ、床に崩れ落ちる。腹の痛みよりも、喉の奥が熱い。
「……ごめん」
誰に向けた言葉か分からない。ルーミアは首を振る。
「助けられた」
助かった。その言葉が、ノエルの尊厳を削る。
守れなかった。
止められなかった。
選ばせてしまった。
色観時代の悪夢が、完全に重なる。
ノエルの指先が震える。初めてはっきりと。止められない。どれだけ身体を張っても。どれだけ傷ついても彼女は編む。
そして、それを許してしまった。その現実が内側を焼いた。
宿の部屋は、やけに静かだった。戦闘の余韻も、怒号も、もう遠い。レオンは下で見張りをすると言い、二人きりになった。
扉が閉まる。その音がやけに重く響いた。
ルーミアは椅子に腰を下ろし、息を整えている。顔色は悪いが、立ててはいる。
「……大丈夫?」
先に口を開いたのはルーミアだった。ノエルは一瞬、言葉を失う。
(大丈夫なわけない)
腹部は鈍く痛む。縄の跡が手首に残っている。呼吸をすると、まだ内側が軋む。
でも。
(大丈夫じゃないのは、あなたでしょ?)
「平気」
反射的に出た。
ルーミアは、ほっとしたように笑う。その笑顔が致命的だった。
「助かったね」
その言葉が刃になる。ノエルの胸の奥で、何かがひび割れる。
助かった。
そうだ。子どもは助かった。姉も救われた。間違っていない。正しい選択だった。なのに。
「……ノエル?」
沈黙が長かったのだろう。ルーミアが首を傾げる。ノエルは、視線を合わせられなかった。
「……少し、休も?」
ルーミアが、気遣うように言う。その優しさが、余計に刺さる。
(私が言わせた)
編んで、と。
守るためだと、自分に言い訳して。止められないと知りながら。
「……っ」
喉が詰まり、視界が滲む。
(泣くな)
色観の元職員。護衛。大人。泣く理由なんて、ない。
(泣いちゃだめだ)
涙が、落ちた。ぽたり、と。
ルーミアが、息を呑む。
「え……」
ノエルは顔を背ける。
「……なんでもない」
声が震える。隠そうとするが隠せない。肩が微かに揺れる。
「ノエル……?」
ルーミアが立ち上がりかける。その動きが、わずかに遅い。一拍遅れて。それを見た瞬間、ノエルの中で何かが完全に崩れた。
「やめて」
掠れた声。
ルーミアが止まる。
「……やめて、そんな顔で」
そんな顔。心配する顔。自分を気遣う顔。
「私が……」
言葉が、壊れる。
「私が言ったのに」
編んで、と。守りたいと願って。止める役目のくせに。
「止められなかった……!」
声が裏返る。
初めてルーミアに向けて感情をぶつけた。怒りじゃない。責めでもない。無力さ。
「どれだけ……身体張っても」
腹の痛みが蘇る。蹴られた衝撃。縄に縛られた感触。
「止められない」
涙が止まらない。
「私、何のためにいるの……」
色観時代の記憶が重なる。観測だけして救えなかった夜。数字に変わった命。報告書の山。
まただ。また、私は――守れなかった。止められなかった。
ルーミアは何も言えない。
ただ近づく。一歩。また一歩。判断が、ほんの少し遅い。
それでも、ノエルの前に立つ。そっと手を伸ばす。躊躇いが、ほんの一瞬ある。それから――
抱きしめた。優しく。そっと、包むように。
ノエルの呼吸が止まる。
温かい。小さな体。それなのに折れない芯。
「……いてくれて、よかった」
ルーミアが静かに言う。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただの事実みたいに。
ノエルの心が、さらに軋む。
(そんなこと、言わないで)
私は止められない。壊れるあなたを、止められない。それでも。ルーミアは続ける。
「ノエルがいなかったら、私、一人で決めてたよ?」
一人で。それは、もっと危うい未来。
「……だから」
抱きしめる手に、少しだけ力がこもる。
「一緒に悩んでくれて、ありがとう」
ノエルの喉から嗚咽が漏れた。崩れる。完全に。肩が震え、涙が止まらない。
「……やだ」
子どものような声。
「止めたいのに……」
「うん」
「止められない……!」
「うん」
否定しない。正論も言わない。ただ、受け止める。
ノエルは、ルーミアの服を掴む。強く。縋るように。
「壊れるの、見たくない」
やっと出た本音。ルーミアは、目を閉じる。その言葉の重みを、まだ全部は理解できない。でも。
「……私も」
小さく答える。
「壊れたくない」
静かな事実。
二人の呼吸が、少しずつ重なる。完全には立ち直らない。解決もしない。ノエルの中の無力さは、消えていない。むしろ、はっきりと形になった。
でも、壊れたまま隣にいる。それだけは選べる。
夜は深い。外では風が鳴っている。
止められない。それでも、離れない。
その決意だけが、かろうじて二人を繋いでいた。
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