第46話 約束
カレストを離れて半日。灰色の景色はゆるやかにほどけ、草原が広がりはじめた。
乾いた風が吹き抜け、空はやけに高い。
「……今日も、何も起きなさそうね」
ノエルが空を仰ぐ。
「起きない日が普通なんだよ」
ルーミアが笑う。その笑い方は、ここ数日の中でいちばん自然だった。左目の色に触れることも、昨夜の出来事に触れることも、誰もしない。触れないことが、今は優しさだった。
昼前、小さな川に行き当たる。幅は狭いが、水は澄んでいる。石の間を流れる音が、耳に心地いい。
「ここで休むか」
レオンが荷を下ろす。
「賛成」
ノエルもすぐに同意する。
ルーミアは川辺にしゃがみ込み、水に手を浸した。
「つめたい」
「顔、洗ってこい。目も覚める」
「うん」
水面に映る自分の顔。揺れる水のせいで、左右の違いははっきりとは見えない。それで、少しだけほっとする。
「何か捕れるかもな」
レオンが、川の浅瀬をのぞき込む。
「お。旅人かい?」
声をかけられた先を見ると、二人の男女がいた。泥に塗れたつなぎと日差し除けの帽子。農家なのだろう。荷馬車に作物を乗せ、どこかへ運搬するところのようだ。
「そうです。この辺の魚って食べられますか?」
「少しだけ警戒心強いから、捕まえるのが手間だがな。うまいぞ!」
「だってさ。ありがとうございます!」
「おう! がんばってな。さて、お待たせカレン。行こうか」
「また待たせるの? ルーク。お人好しなのは相変わらずね。」
そう言いながら、二人はまた荷馬車を走らせて行った。私にも、あんな幸せそうなパートナーを見つけれる日がくるのかな。
ルーミアは二人を見送り、頬を叩いて切り替える。
「よし。魚、獲るしかないね」
「小さいのならいる」
「……釣るの?」
「いや、手掴み」
「うーわ、野生的」
ルーミアがくすりと笑う。レオンは袖をまくり、靴を脱いで川に入る。
「逃げ足速いぞ」
「じゃあ、頑張って」
「応援はいいから、そっちも石で追い込め」
「え、私?」
「三人いれば囲える」
「自然に私も混ぜないで」
ノエルも巻き込み、気づけば三人で川に足を入れていた。冷たい水に声を上げながら、魚影を追う。
「いた、左!」
「そっち行った!」
「逃がすな!」
ばしゃり、と水しぶきが上がる。結局、最初に捕まえたのはレオンだった。
「ほら」
小ぶりだが、銀色に光る魚。
「すごい」
ルーミアの目が素直に輝く。その輝きに、ノエルはほんの一瞬だけ視線を落とした。戻らないものがあっても、戻ってくる瞬間も、まだある。
火を起こし、簡単な塩焼きにする。匂いが立ちのぼると、急に腹が鳴った。
「……お腹すいた」
「さっきまで平気な顔してたのに」
「別腹ってやつ」
「魚に別腹はないわ」
三人で笑う。焼き上がった魚を分け合い、川辺の石に腰を下ろす。
「美味しい」
ルーミアが、ほっとしたように言う。
「塩しか振ってないぞ」
「それがいいんだよ」
レオンは、少しだけ照れたように視線を逸らす。
風が吹く。草が揺れ、水が光る。争いも、悲鳴も、助けを求める声もない。ただ、三人がいる。
「ねえ」
ルーミアが、川の流れを見つめたまま言う。
「もっと、いろんなところ見てみたいな」
「例えば?」
「海の向こうとか。砂漠とか。雪が一年中降る山とか」
「さっき言ってた。どれだけ見たいのよ」
「だって、まだ知らない景色いっぱいあるでしょ?」
その声は、未来を疑っていない響きだった。ノエルは、静かに頷く。
「……ええ。あるわ」
安定はしていない。約束も、確かなものではない。それでも。
「行けるとこまで、行こうよ」
ルーミアが笑う。レオンが、小さく言った。
「隣には立つ」
「知ってる」
返事は軽い。けれど、その軽さが心地いい。川の音が、穏やかに流れ続けている。
昼を過ぎても、三人はその場を離れなかった。川辺の草を敷いて寝転び、空を眺める。雲はゆっくり流れ、時間も同じように緩やかだった。
「こういう日が続けばいいのにね」
ルーミアが、両手を頭の後ろで組んだまま言う。
「退屈するわよ」
ノエルが即座に返す。
「えー?」
「何も起きないと、あんたは勝手に何か探す」
「そんなことないよ」
「ある」
間髪入れずに断言され、ルーミアは口を尖らせた。レオンは、そのやり取りを横目で見ながら小さく笑う。
「探すなら、食材にしろ」
「まだ食べるの?」
「干せば保存できる」
「さっき釣ったばっかりじゃん」
「旅は長い」
その言い方に、ルーミアは少しだけ目を細めた。
「……長い、か」
つぶやきは、風に紛れる。
ノエルは横目で彼女を見る。歩き方の一拍の遅れ。考えるまでの、ほんのわずかな空白。それでも今は、笑っている。
「ねえ、レオン」
「なんだ」
「レオンは、旅が終わったらどうする?」
唐突な問いだった。レオンは、少しだけ考える。
「終わる前提か」
「だって、いつかは終わるでしょ」
「……どうだろうな」
彼は、空を見上げた。
「戦場にいた頃は、終わるなんて考えなかった」
「今は?」
「今は……」
一瞬、言葉が途切れる。
「終わらなくてもいいと思ってる」
静かな声だった。ルーミアが、ぱちりと瞬きをする。
「それって」
「場所が変わるだけだ」
レオンは続ける。
「剣を振るう理由が変わるだけで、隣に立つ相手がいるなら、それでいい」
ノエルは視線を逸らした。その言葉は、重くもなく、軽くもなく、ただ真っ直ぐだった。
「じゃあさ」
ルーミアが身体を起こす。
「旅が終わったら、一緒にお店やろうよ」
「店?」
「うん。小さいやつ。山とか海の近くで」
「料理は誰が?」
「私もやるけど、レオンも」
「俺もか」
「魚焼くの上手いし」
「塩振っただけだ」
「でも美味しかった」
ノエルが小さく息を吐く。
「店って、楽じゃないわよ」
「分かってるよ」
ルーミアは笑う。
「でも、帰ってこれる場所って、あったらいいじゃん」
その言葉に、ノエルの胸がわずかに揺れた。
帰る場所。止められなかった日も、守れなかった夜も、全部含めて戻れる場所。
「……悪くないわね。それなら宿にしない?」
ノエルは、そう言った。
「宿! いいかも」
ルーミアの顔が輝く。
レオンは肩をすくめる。
「客が来なくても文句言うなよ」
「来るよ。だって、景色いいもん」
「根拠が雑だな」
三人で笑う。笑い声が、川のせせらぎに混ざる。安定した約束でもないが、それでも今、未来の話ができる。それだけで、十分だった。
夕方が近づき、空の色が柔らかく変わっていく。立ち上がるとき、ルーミアの動きがほんのわずかに遅れた。だが、誰も指摘しない。
「そろそろ行こう」
ノエルが言う。
「うん」
ルーミアは頷き、川を振り返った。流れは変わらない。今日の穏やかさも、明日まで続く保証はない。
それでも三人は並んで歩き出した。
町へ戻る道すがら、夕暮れはゆっくりと色を深めていった。西の空が橙に染まり、川面が光を弾く。
「……綺麗」
ルーミアが足を止める。ノエルとレオンも、自然と立ち止まった。高台から見下ろすと、グラーヴェンの灰色の町並みも、今だけは柔らかく見える。
「灰色でも、時間で変わるのね」
ノエルが呟く。
「変わらない色は、ないってこと?」
ルーミアが振り向く。
「どうかしら」
ノエルは、少しだけ考える。
「変わらないように見えて、ただ見えてないだけかも」
その言葉に、ルーミアは一瞬だけ視線を逸らした。見えていない。
最近、自分の中に増えている感覚。最初の一歩が遠いこと。考えるまでの、空白。でも今日は、笑えた。未来の話もできた。
「ねえ」
ルーミアが、ふいに言う。
「もしさ、宿やるなら、名前どうする?」
「まだやる前提なのね」
ノエルが苦笑する。
「だって、楽しいじゃん」
「……そうね」
レオンは腕を組んだまま、町を見下ろす。
「名前なんて、あとで決めればいい」
「えー、今考えようよ」
「料理で揉めるのが先だ」
「揉めないし」
「いや、揉めるね」
軽いやり取りに、また笑いが生まれる。その中で、ノエルはふと思う。
(この時間を、守りたい)
剣を握る理由が変わっても、止められなかったとしても。せめて、この並びだけは。
宿の部屋に戻り、荷を下ろす。窓の外は、もう薄暗い。ノエルが壁にもたれ、ふと口を開く。
「さっきの話」
「宿?」
ルーミアが振り返る。
「うん」
「本気?」
「半分」
「半分なんだ」
「残り半分は、まだ分かんない」
正直な答えだった。
「でも」
レオンが続ける。
「その隣に立つのも、悪くない」
空気が、わずかに変わる。軽さの中に、芯が通る。ノエルは、静かに息を吸った。
「……私は約束は、しないわよ」
ルーミアが、二人を見て笑う。
「じゃあ、今はそれでいいね」
夜が更ける。レオンは先に眠り、ノエルも横になる。ルーミアは、少し遅れて立ち上がった。水差しのそばに置かれた、小さな鏡を手に取る。灯りは弱い。それでも、顔は映る。
「……」
昼間の笑顔が、そこにある。少しだけ、疲れた顔。でも、悪くない。そう思って、もう一度よく見る。
瞳。銀色だったはずの光が、ほんのわずかに薄い。気のせい、と言えるほどの違い。
「……やっぱり」
鏡を近づける。やはり、ほんの少しだけ、淡い。何かを失った、というより。何かが抜け落ちたような。
喉が、ひりつく。でも、痛くはない。
「……大丈夫」
小さく呟く。誰に聞かせるでもなく。
昼間、未来の話をした。宿の名前も、料理の役割も、笑いながら決めかけた。あれは、嘘じゃない。
「進めるうちは、進む」
鏡を元に戻す。背後で、ノエルが寝返りを打つ音がした。その気配に、少しだけ安心する。
瞳の色は、戻らないかもしれない。それでも私には、
まだ見える景色がある。
まだ隣に立つ人がいる。
布団に潜り込み、目を閉じる。暗闇の中で、瞳の淡さだけが、やけに鮮明だった。
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