第45話 戻らないもの
昼前、高原の縁に小さな町が見えてきた。木造の家々と、低い石垣。遠くに水車が回っている。今日のこの町の空は、淡く広い。
「カレスト、だったか」
レオンが地図を閉じる。
「交易路から外れてる分、静かだな」
「静かなのは、ありがたい」
ノエルが小さく息を吐く。
町に入ると、犬の鳴き声と子どもの笑い声が聞こえる。強い色はなく、色糸は薄く、穏やかに揺れている。沈んでいるわけでも、絡まっているわけでもない。
「……大丈夫そう」
ルーミアは、ほっとしたように言った。胸の奥にあった緊張が、少し緩む。
宿を取り荷を下ろす。部屋は簡素だが清潔だった。窓を開けると、乾いた風が流れ込む。
「今日は何するの?」
ルーミアが振り返る。
「何もしないわ。強いて言えば、何もしないが目的」
ノエルは即答した。
レオンは窓辺に立ち、外を見ている。
「町を一周くらいはしてもいい。ただの観光だ」
「じゃあ、あとで少しだけ歩こ」
ルーミアは、椅子に腰を下ろした。
身体は確かに軽い。重さはなく痛みもない。
(向き合うって、こういうことか)
無理に元通りになるとは思い込まない。でも必要以上に怯えない。怯えちゃうと萎縮して何もできない。大事な時に動けない。
午後、三人は町をゆっくり歩いた。井戸のそばで水を汲む老婆。干し草を運ぶ青年。軒先で編み物をする少女。どれも、日常だ。
「……平和」
ルーミアは、そう言って笑った。
「こういう日が続けばいいのに」
「続かせるのよ」
ノエルが淡く返す。
「続かせる?」
「壊さないように、ちゃんと選ぶ」
その言葉に、ルーミアは一拍置いて頷いた。
「……うん」
遅れはある。でも理解はできる。
夕方、丘の上から町を見下ろした。夕日が屋根を染め、風が草を揺らす。
「ねえ」
ルーミアが、空を見たまま言う。
「もし旅が終わったらさ」
「またそれ?」
ノエルが笑う。
「いいじゃん。考えるくらい」
「で、どうするの?」
ルーミアは少し考えた。一瞬、間が空く。
「……料理できるようになって、それを活かせることやってみたい」
「大衆食堂とか?」
「ううん。まだ何も決めてない」
レオンが肩をすくめる。
「客は来るのか」
「来るよ。おいしいの作れれば」
「それまでの毒味は任せろ。……ノエルに」
「私?」
「二人ともひどい」
三人の笑い声が重なる。ルーミアは、深く息を吸った。空気は澄んでいる。
「ちゃんと、歩けてる」
誰に向けたわけでもない呟き。
「何か言った?」
「ううん」
首を振る。まだ、大丈夫だ。そう思えた。
宿に戻り、夕食を終え、部屋に入る。灯りを落とす前、ルーミアは鏡の前に立った。いつもの自分が映る。銀白の髪に整った顔。ほんの少しだけ顔を近づけ、目をじっと見る。
――あれ。
瞬きをする。気のせいだと思おうとする。でも。
右の瞳は、いつもの色。
左は――
わずかに、薄い。
光を失ったわけではない。ただ、深みがない。昼間の高原の空みたいに、淡い。ルーミアは、鏡から目を逸らせなかった。指先が、ほんの少しだけ震える。
(これを言ったら、二人はきっと止めてくれる)
(逆にそれは、止まる理由を自分から渡すことになる)
左目は、ただ薄いだけ。
ルーミアはぎゅっと服の裾を握る。
──二人とも、ごめん。
(まだ、そのつもりはない)
翌朝。カレストは、昨日と変わらず穏やかだった。パンを焼く匂いが通りに流れ、家々の窓が順に開いていく。水車の回る音が、一定のリズムで響いている。
「……よく眠れた?」
ノエルが、湯気の立つ茶を差し出しながら聞く。
「うん」
ルーミアは、いつも通りに受け取った。鏡の前で立ち尽くした昨夜のことは、誰にも言っていない。左目の違和感は、朝になっても消えていなかった。
でも、見えないわけじゃない。ぼやけるわけでもない。ただ――薄い。
「今日はどうする」
レオンが、壁に立てかけた剣を持ち上げながら言う。
「依頼はない。急ぐ理由もない」
「じゃあ、少し町の外を歩こうか」
ルーミアが提案する。声は明るい。無理に作った響きではない。
「丘の向こうに、小さな湖があるらしいよ」
「湖?」
「宿の人が言ってた。釣りもできるって」
ノエルは一瞬だけ、ルーミアの目を見た。左右の色の違いには、まだ気づかない。
「いいわね。気分転換になる」
三人は町を抜け、ゆるやかな坂道を登った。草を踏む音が乾いている。途中、ルーミアは足を止めた。立ち止まるまでに、一瞬だけ間がある。
「どうした」
レオンが振り返る。
「……道、こっちで合ってるよね」
「合ってる」
「そっか」
小さく笑い、また歩き出す。判断の遅れは自覚している。焦らないように、深呼吸を一つ。
湖は、思っていたよりも小さかった。風に揺れる水面が、きらきらと光る。
「静かだな」
レオンが、周囲を見渡す。
「こういう場所、好き?」
ルーミアが聞く。
「嫌いじゃない」
「曖昧だね」
「嫌いじゃない、は高評価だ」
ノエルが笑った。
湖畔に腰を下ろし、三人はしばらく黙って水面を眺めた。何も起きない時間。色糸も、遠くで穏やかに揺れているだけ。
「……ねえ」
ルーミアが、膝を抱えたまま言う。
「もしさ、ほんとに食堂か何か、お店やるなら」
「まだ言うの?」
「いいじゃん」
少し拗ねたように言ってから、続ける。
「湖の近くもいいなって」
「山じゃなくか」
「山もいい。でも、水の音は落ち着く」
ノエルは、横顔を見た。
「旅、続ける前提で話してるわよね」
「もちろん。もっといろんなところ、見たいし」
その言葉は、心からの願いだった。
「北の氷の海とか、西の砂漠とか。まだ行ってない場所ばっかり」
「欲張りね」
「欲張りでいいよ。だって、まだ歩ける」
その一言に、ノエルの胸がわずかに痛んだ。今は歩ける。レオンは、水面に石を投げた。小さな波紋が広がる。
「歩けるうちに、だな」
何気ない言葉。ルーミアは頷く。
「うん」
太陽が少し傾き、湖の色が変わる。左目に映る景色が、ほんのわずかに淡く感じる。気のせいかもしれない。それでも、ルーミアは目を細めた。
「……きれいだね」
「見えにくい?」
ノエルが、何気なく聞いた。
「え?」
「眩しそうだったから」
一瞬、返事が遅れる。
「……ちょっとね。日差し強いかも」
自然に目を細める。嘘ではない。でも、全部でもない。
夕方、町へ戻る。宿の前で子どもが転びかけた。ルーミアは、とっさに手を伸ばそうとして、わずかに遅れた。レオンの手が先に子どもを支える。
「気をつけろ」
「……ありがとう」
子どもは駆け去っていく。ルーミアは、伸ばしかけた手をそっと下ろした。
「今、私の方が近かったよね」
「俺が早かっただけだ」
レオンは淡々と言う。ノエルは何も言わない。ただ、そのわずかな“差”を、見逃さなかった。
夜。部屋に戻り、荷を整理する。
「明日、出る?」
ノエルが聞く。
「うん。ここは大丈夫そう」
返事は、やはり一拍遅れる。だが迷いはない。
灯りを落とす前、ルーミアはもう一度、鏡の前に立った。
昨夜と同じ。左の瞳は、やはり少しだけ薄い。昨日より、はっきりと分かる。指でそっと触れてみると、冷たい。
(……戻らないのかな)
声には出さない。ただ、唇がわずかに動いただけ。扉の向こうで、ノエルとレオンの話し声が小さく聞こえる。笑い声も混じっている。その音に、少しだけ救われる。
ルーミアは鏡から目を離した。
大丈夫。まだ見えている。まだ、歩ける。そう思いながら布団に潜り込んだ。
夜更け。ノエルとレオンの話し声が途切れ、宿は静まり返った。ルーミアは、眠れているのかいないのか、分からない浅い意識のまま天井を見つめていた。
目を閉じても、鏡の中の自分が浮かぶ。左右でわずかに違う色。銀に近いはずの瞳が左だけ淡く、薄く、透けるように。痛みはない。視界も問題ない。ただ――戻らない、という予感だけがある。
翌朝、出立の準備は滞りなく進んだ。荷をまとめ、宿主に礼を言い、石畳の通りへ出る。
「天気、持ちそうね」
ノエルが空を見上げる。
「うん」
ルーミアは頷いた。頷くまでに、ほんの一瞬だけ空白がある。それはもう、誰にも隠しきれないほどではない。だが、消えてもいない。
三人は町の外れへ向かう。門を抜ける直前、小さな騒ぎが起きていた。昨日、湖の近くで見かけた少年が、道端にしゃがみ込んでいる。
「……どうしたの?」
ルーミアが声をかける。
「父さんが……起きない」
少年は震える声で言った。昨夜から、急に熱を出し、意識が戻らないという。町医者は呼んだ。命に関わるほどではない、と言われた。それでも、少年は不安でたまらないのだろう。
ルーミアは、父親の家へ向かった。簡素な寝台に横たわる男。顔色は悪いが、呼吸は安定している。
色糸が見える。深刻ではないが、弱っている。編むと楽になる。回復も早まる。その確信がある。
「……ルーミア」
ノエルが、低く名を呼ぶ。止めるでも、促すでもない声。選ぶのは、彼女だ。
ルーミアは、男の傍らに膝をついた。手を伸ばしかけて――止める。判断が、遅い。遅いと、自分で分かる。編むべきか、待つべきか。
以前なら、迷わなかった。今は、迷う。その迷いが、少年の目に映る。
「……助けられるの?」
まっすぐな問い。
ルーミアは、息を吸った。
「……うん」
嘘ではない。
「でも、今すぐじゃなくても大丈夫」
そう言いながら、自分の胸の奥を探る。
本当に? 数秒の沈黙。
少年は、ぎゅっと拳を握った。
「父さん、強いから……大丈夫、だよね」
「うん」
今度は、迷わず答えた。色糸は、まだ切れていない。今は編まない。その選択を、ルーミアは自分で決めた。
家を出たあと、レオンが口を開く。
「本当によかったのか」
「……うん」
答えは、すぐに出る。
「今の私で編むより、回復を待った方がいい気がした」
それは、冷静な判断だった。衝動ではなく、焦りでもない。
ノエルは、横顔を見る。迷いはあった。でも、逃げではなかった。
「……強くなったわね」
「そうかな」
「ええ」
レオンは何も言わない。ただ、歩幅を合わせる。
町の門を抜ける。カレストの灰色の屋根が、背後に遠ざかる。ルーミアは、一度だけ振り返った。目に映る景色は、変わらない。
でも左目の色は、やはり薄い。朝の光を受けて、わずかに透ける。
「……ねえ」
歩きながら、ルーミアが言う。
「もしさ、私の目の色が変わっても」
「……変わらない」
ノエルが、遮るように言った。
「何が?」
「隣にいること」
迷いのない声。レオンも、短く頷く。
「目の色で選んだ覚えはない」
ルーミアは、少しだけ笑った。
「ありがと」
その笑顔は、本物だった。
道は続く。判断は、まだ遅れる。身体も、完全ではない。でも、歩いている。歩くことを、自分で選んでいる。左目の色は戻らないかもしれない。それでも。
ルーミアは、前を向いた。戻らないものがあっても、進むことは、まだできる。
三人の影が、朝の光に長く伸びた。
その長さだけ、確かに時間は積み重なっている。
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