表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/69

第45話 戻らないもの

 昼前、高原の縁に小さな町が見えてきた。木造の家々と、低い石垣。遠くに水車が回っている。今日のこの町の空は、淡く広い。


「カレスト、だったか」

レオンが地図を閉じる。

「交易路から外れてる分、静かだな」


「静かなのは、ありがたい」

ノエルが小さく息を吐く。


町に入ると、犬の鳴き声と子どもの笑い声が聞こえる。強い色はなく、色糸は薄く、穏やかに揺れている。沈んでいるわけでも、絡まっているわけでもない。


「……大丈夫そう」


ルーミアは、ほっとしたように言った。胸の奥にあった緊張が、少し緩む。


宿を取り荷を下ろす。部屋は簡素だが清潔だった。窓を開けると、乾いた風が流れ込む。


「今日は何するの?」

ルーミアが振り返る。


「何もしないわ。強いて言えば、何もしないが目的」

ノエルは即答した。


レオンは窓辺に立ち、外を見ている。

「町を一周くらいはしてもいい。ただの観光だ」


「じゃあ、あとで少しだけ歩こ」

ルーミアは、椅子に腰を下ろした。


身体は確かに軽い。重さはなく痛みもない。


(向き合うって、こういうことか)


無理に元通りになるとは思い込まない。でも必要以上に怯えない。怯えちゃうと萎縮して何もできない。大事な時に動けない。



 午後、三人は町をゆっくり歩いた。井戸のそばで水を汲む老婆。干し草を運ぶ青年。軒先で編み物をする少女。どれも、日常だ。


「……平和」

ルーミアは、そう言って笑った。

「こういう日が続けばいいのに」


「続かせるのよ」

ノエルが淡く返す。


「続かせる?」


「壊さないように、ちゃんと選ぶ」


その言葉に、ルーミアは一拍置いて頷いた。

「……うん」

遅れはある。でも理解はできる。


 夕方、丘の上から町を見下ろした。夕日が屋根を染め、風が草を揺らす。


「ねえ」

ルーミアが、空を見たまま言う。

「もし旅が終わったらさ」


「またそれ?」

ノエルが笑う。


「いいじゃん。考えるくらい」

「で、どうするの?」


ルーミアは少し考えた。一瞬、間が空く。


「……料理できるようになって、それを活かせることやってみたい」


「大衆食堂とか?」


「ううん。まだ何も決めてない」


レオンが肩をすくめる。


「客は来るのか」

「来るよ。おいしいの作れれば」


「それまでの毒味は任せろ。……ノエルに」

「私?」


「二人ともひどい」


三人の笑い声が重なる。ルーミアは、深く息を吸った。空気は澄んでいる。


「ちゃんと、歩けてる」


誰に向けたわけでもない呟き。


「何か言った?」

「ううん」


首を振る。まだ、大丈夫だ。そう思えた。



 宿に戻り、夕食を終え、部屋に入る。灯りを落とす前、ルーミアは鏡の前に立った。いつもの自分が映る。銀白の髪に整った顔。ほんの少しだけ顔を近づけ、目をじっと見る。


――あれ。


瞬きをする。気のせいだと思おうとする。でも。


右の瞳は、いつもの色。


左は――


わずかに、薄い。


光を失ったわけではない。ただ、深みがない。昼間の高原の空みたいに、淡い。ルーミアは、鏡から目を逸らせなかった。指先が、ほんの少しだけ震える。


(これを言ったら、二人はきっと止めてくれる)


(逆にそれは、止まる理由を自分から渡すことになる)


左目は、ただ薄いだけ。


ルーミアはぎゅっと服の裾を握る。


──二人とも、ごめん。


(まだ、そのつもりはない)



 翌朝。カレストは、昨日と変わらず穏やかだった。パンを焼く匂いが通りに流れ、家々の窓が順に開いていく。水車の回る音が、一定のリズムで響いている。


「……よく眠れた?」


ノエルが、湯気の立つ茶を差し出しながら聞く。


「うん」


ルーミアは、いつも通りに受け取った。鏡の前で立ち尽くした昨夜のことは、誰にも言っていない。左目の違和感は、朝になっても消えていなかった。


でも、見えないわけじゃない。ぼやけるわけでもない。ただ――薄い。


「今日はどうする」


レオンが、壁に立てかけた剣を持ち上げながら言う。


「依頼はない。急ぐ理由もない」

「じゃあ、少し町の外を歩こうか」


ルーミアが提案する。声は明るい。無理に作った響きではない。


「丘の向こうに、小さな湖があるらしいよ」

「湖?」


「宿の人が言ってた。釣りもできるって」


ノエルは一瞬だけ、ルーミアの目を見た。左右の色の違いには、まだ気づかない。


「いいわね。気分転換になる」


三人は町を抜け、ゆるやかな坂道を登った。草を踏む音が乾いている。途中、ルーミアは足を止めた。立ち止まるまでに、一瞬だけ間がある。


「どうした」


レオンが振り返る。


「……道、こっちで合ってるよね」


「合ってる」

「そっか」


小さく笑い、また歩き出す。判断の遅れは自覚している。焦らないように、深呼吸を一つ。


湖は、思っていたよりも小さかった。風に揺れる水面が、きらきらと光る。


「静かだな」

レオンが、周囲を見渡す。


「こういう場所、好き?」

ルーミアが聞く。


「嫌いじゃない」

「曖昧だね」


「嫌いじゃない、は高評価だ」


ノエルが笑った。


湖畔に腰を下ろし、三人はしばらく黙って水面を眺めた。何も起きない時間。色糸も、遠くで穏やかに揺れているだけ。


「……ねえ」

ルーミアが、膝を抱えたまま言う。


「もしさ、ほんとに食堂か何か、お店やるなら」


「まだ言うの?」

「いいじゃん」


少し拗ねたように言ってから、続ける。


「湖の近くもいいなって」


「山じゃなくか」


「山もいい。でも、水の音は落ち着く」


ノエルは、横顔を見た。


「旅、続ける前提で話してるわよね」

「もちろん。もっといろんなところ、見たいし」


その言葉は、心からの願いだった。


「北の氷の海とか、西の砂漠とか。まだ行ってない場所ばっかり」


「欲張りね」

「欲張りでいいよ。だって、まだ歩ける」


その一言に、ノエルの胸がわずかに痛んだ。今は歩ける。レオンは、水面に石を投げた。小さな波紋が広がる。


「歩けるうちに、だな」


何気ない言葉。ルーミアは頷く。


「うん」


太陽が少し傾き、湖の色が変わる。左目に映る景色が、ほんのわずかに淡く感じる。気のせいかもしれない。それでも、ルーミアは目を細めた。


「……きれいだね」


「見えにくい?」

ノエルが、何気なく聞いた。


「え?」

「眩しそうだったから」


一瞬、返事が遅れる。


「……ちょっとね。日差し強いかも」


自然に目を細める。嘘ではない。でも、全部でもない。



 夕方、町へ戻る。宿の前で子どもが転びかけた。ルーミアは、とっさに手を伸ばそうとして、わずかに遅れた。レオンの手が先に子どもを支える。


「気をつけろ」

「……ありがとう」


子どもは駆け去っていく。ルーミアは、伸ばしかけた手をそっと下ろした。


「今、私の方が近かったよね」

「俺が早かっただけだ」


レオンは淡々と言う。ノエルは何も言わない。ただ、そのわずかな“差”を、見逃さなかった。



 夜。部屋に戻り、荷を整理する。


「明日、出る?」

ノエルが聞く。


「うん。ここは大丈夫そう」

返事は、やはり一拍遅れる。だが迷いはない。


灯りを落とす前、ルーミアはもう一度、鏡の前に立った。


昨夜と同じ。左の瞳は、やはり少しだけ薄い。昨日より、はっきりと分かる。指でそっと触れてみると、冷たい。


(……戻らないのかな)


声には出さない。ただ、唇がわずかに動いただけ。扉の向こうで、ノエルとレオンの話し声が小さく聞こえる。笑い声も混じっている。その音に、少しだけ救われる。


ルーミアは鏡から目を離した。


大丈夫。まだ見えている。まだ、歩ける。そう思いながら布団に潜り込んだ。



 夜更け。ノエルとレオンの話し声が途切れ、宿は静まり返った。ルーミアは、眠れているのかいないのか、分からない浅い意識のまま天井を見つめていた。


目を閉じても、鏡の中の自分が浮かぶ。左右でわずかに違う色。銀に近いはずの瞳が左だけ淡く、薄く、透けるように。痛みはない。視界も問題ない。ただ――戻らない、という予感だけがある。


 翌朝、出立の準備は滞りなく進んだ。荷をまとめ、宿主に礼を言い、石畳の通りへ出る。


「天気、持ちそうね」

ノエルが空を見上げる。


「うん」


ルーミアは頷いた。頷くまでに、ほんの一瞬だけ空白がある。それはもう、誰にも隠しきれないほどではない。だが、消えてもいない。



 三人は町の外れへ向かう。門を抜ける直前、小さな騒ぎが起きていた。昨日、湖の近くで見かけた少年が、道端にしゃがみ込んでいる。


「……どうしたの?」

ルーミアが声をかける。


「父さんが……起きない」


少年は震える声で言った。昨夜から、急に熱を出し、意識が戻らないという。町医者は呼んだ。命に関わるほどではない、と言われた。それでも、少年は不安でたまらないのだろう。


ルーミアは、父親の家へ向かった。簡素な寝台に横たわる男。顔色は悪いが、呼吸は安定している。


色糸が見える。深刻ではないが、弱っている。編むと楽になる。回復も早まる。その確信がある。


「……ルーミア」


ノエルが、低く名を呼ぶ。止めるでも、促すでもない声。選ぶのは、彼女だ。


ルーミアは、男の傍らに膝をついた。手を伸ばしかけて――止める。判断が、遅い。遅いと、自分で分かる。編むべきか、待つべきか。


以前なら、迷わなかった。今は、迷う。その迷いが、少年の目に映る。


「……助けられるの?」

まっすぐな問い。


ルーミアは、息を吸った。

「……うん」


嘘ではない。


「でも、今すぐじゃなくても大丈夫」


そう言いながら、自分の胸の奥を探る。


本当に? 数秒の沈黙。


少年は、ぎゅっと拳を握った。

「父さん、強いから……大丈夫、だよね」


「うん」


今度は、迷わず答えた。色糸は、まだ切れていない。今は編まない。その選択を、ルーミアは自分で決めた。


家を出たあと、レオンが口を開く。

「本当によかったのか」


「……うん」

答えは、すぐに出る。


「今の私で編むより、回復を待った方がいい気がした」


それは、冷静な判断だった。衝動ではなく、焦りでもない。


ノエルは、横顔を見る。迷いはあった。でも、逃げではなかった。


「……強くなったわね」


「そうかな」

「ええ」


レオンは何も言わない。ただ、歩幅を合わせる。


 町の門を抜ける。カレストの灰色の屋根が、背後に遠ざかる。ルーミアは、一度だけ振り返った。目に映る景色は、変わらない。


でも左目の色は、やはり薄い。朝の光を受けて、わずかに透ける。


「……ねえ」

歩きながら、ルーミアが言う。


「もしさ、私の目の色が変わっても」


「……変わらない」


ノエルが、遮るように言った。


「何が?」

「隣にいること」


迷いのない声。レオンも、短く頷く。


「目の色で選んだ覚えはない」


ルーミアは、少しだけ笑った。


「ありがと」


その笑顔は、本物だった。


道は続く。判断は、まだ遅れる。身体も、完全ではない。でも、歩いている。歩くことを、自分で選んでいる。左目の色は戻らないかもしれない。それでも。


ルーミアは、前を向いた。戻らないものがあっても、進むことは、まだできる。



三人の影が、朝の光に長く伸びた。

その長さだけ、確かに時間は積み重なっている。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

よろしければ、ブックマーク、評価をいただけると励みになります!

よろしくお願いいたします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ