第44話 見てしまった日
山あいの道を抜けた先に、その宿はあった。
木造二階建て。軒は低く、柱は黒く年季を帯びている。だが掃き清められた玄関先には、静かな手入れの跡があった。
白い湯気が、建物全体をやわらかく包んでいる。
「……温泉」
ルーミアの声が、素直に弾んだ。硫黄と濡れた木の匂い。遠くで薪が爆ぜる音。戦いも、判断も、色糸も――今日は関係ない。
「今回は純粋に休むだけよ」
ノエルが釘を刺す。
「依頼も騒動もなし。分かった?」
引き戸を開けると、鈴が小さく鳴った。帳場には誰もいない。机の上に鍵と札だけが並んでいる。
「……無人?」
「人の気配はある」
ノエルが静かに言う。
確かに、建物の奥から湯の流れる音がする。泊まる客もいるのだろう。鍵を手に取り、三人は廊下を進んだ。
古い床板が、やわらかく軋む。すれ違いざま、湯気が流れ込む。一瞬、背後に他の宿泊客の気配がした。だが、振り返る頃にはもう誰もいなかった。
「……まあ恥ずかしいって思う人もいるよね」
ルーミアは首を振った。今日は休む日だ。余計なことは考えない。
女湯の前で三人は立ち止まる。
「じゃあ」
ルーミアが振り返る。
「覗いたら死刑だからね」
「比喩じゃないわよ」
ノエルが冷静に補足する。
「俺はそんなことしない」
「信用はしてない」
「少しくらい信じろ」
戸が閉まる。女湯側から、ぱしゃり、と湯の音が弾けた。
レオンは肩をすくめ、男湯へ向かう。湯は広くはないが、深い。天井の梁が湯気で霞み、湯面がゆらゆらと揺れている。
「……はあ」
ルーミアは肩まで沈み、溶けた。
「生き返る……」
「まだ死んでないわよ」
ノエルも静かに浸かる。
しばらく、静寂。湯気が濃い。向こう側の壁が、白く揺れている。
ぱしゃ。
ルーミアが湯をすくう。その直後、水の跳ねる音が反響した
ていく。
「音反響して、もう一回聞こえた」
「他の客も見当たらないからね。貸し切りみたいなものね」
「貸し切り!」
ルーミアは喜び、湯面は小さく波立つ。ノエルは静かに湯をかき混ぜる。
「いい湯だね。湯気の揺れまで風情がある」
「うん」
ルーミアは視線を上げた。白い湯気がゆらゆらしている。
一方、男湯。
「……静かすぎるな」
レオンは一人で浸かり、天井を見上げる。女湯側から笑い声が聞こえる。二人分の水音。その中に一つ、気になる音があった。
「……なんの音だ?」
廊下側で、きし、と床が鳴った。レオンは立ち上がる。仕切りの板は古い。湿気で歪んでいる。
(他の客がいるのか?)
警戒心で廊下を覗くが、誰もいない。
「……気の張りすぎだな」
見回りのつもりで、仕切りの近くへ寄る。板は確かに古い。
「結構老朽化進んでるな。風で鳴っただけか」
触れてはいない。ただ近づいただけ。その瞬間。足元が、ぬるりと滑った。
「っ!?」
板がパキッと裂け、体勢を崩す。前へ傾き、湯気が裂ける。
そして真正面。
「ち、違う! 事故だ!」
ルーミアの瞳と、はっきり目が合った。
「……」
一拍。世界が止まる。
「……レオン?」
ノエルの視線がゆっくりとこちらへ向く。冷たい。
やばい。さらに足場が崩れる。
ぐらり。身体が前へ滑る。
「来るな!」
ノエルが動く。だが間に合わない。
どん。鈍い衝撃。柔らかい感触。
「…………」
至近距離のノエルの顔。そして理解した。
触れちまった。
「……二度目は故意よね?」
「違う!!」
ばしゃああああん!!
湯が顔面を直撃する。レオンは必死に後退する。だが板がさらに崩れる。
「触るな!」
「触ってない!!」
「三拍あった」
「なかった!! たぶん」
ルーミアは完全に固まっている。
「……ノエルのに、当たった……」
「言うな!」
「出て行けぇ」
レオンは全力で廊下へ飛び出した。背後で戸が閉まった。
数十分後、レオンは正座していた。
畳の上で背筋はまっすぐ。視線もまっすぐ。その姿は、元傭兵というより、元王国騎士かと思ってしまうほど。
そして目の前には、腕を組んだノエル。
「供述を許す」
冷静。だが、温度は低い。
「……事故だ」
「それ聞いた」
「板が老朽化していて」
「その前」
「……足を滑らせた」
「その前」
レオンは一瞬だけ沈黙した。
ルーミアは布団の端で小さく丸くなっている。耳まで赤い。
「……目が合った」
「どのくらい」
「一拍」
「正確に」
「……二拍弱」
「長い。目以外は?」
「聞かないでよノエル」
ルーミアは布団と共に丸くなった。
「……見ていない(二拍弱は)」
「ふーん」
即答だった。レオンの額に、ぴし、と指が当たる。
「二度目は?」
「不可抗力だろ」
「私に当たった」
「滑っただけだ!」
「柔らかかった?」
「言わせるな!」
ルーミアが顔を覆う。
「もうやめて……」
ノエルは一呼吸置いてから言った。
「罰は?」
「受ける」
「ほう……逃げないと?」
「逃げない」
ノエルは悩み、答える。
「髪を乾かす係」
「……は?」
「最後まで、丁寧に」
「俺が?」
「他に誰が?」
レオンは天井を見上げた。
「……分かった」
夜。湯上がりの部屋。ルーミアは座布団の上に座り、長い髪を背に流している。レオンはその後ろで、ぎこちなく布を握っていた。
「動くなよ」
「動いてない」
「ほんとに事故だからな」
「分かってる」
だが顔は赤いままだ。レオンは慎重に水気を拭う。驚くほど真剣だ。
「……意外と丁寧」
「雑にやったら殺される」
「正解」
ノエルが横から言う。レオンは黙々と乾かす。やがて。
「……ありがと」
小さな声。レオンは一瞬だけ手を止めた。
「……ああ」
その瞬間。
きし。とまた畳が鳴った。三人同時に顔を上げる。沈黙。誰も動いていない。
「……建物、古いからな」
レオンが言う。
「そうね」
ノエルも頷く。
「こういう雰囲気ある旅館って、どうしても身構えちゃうね」
ルーミアは困ったように微笑んだ。
翌朝。山の空気は澄んでいる。みかげ湯の軒先から、白い湯気が静かに立ちのぼっていた。
「よく寝た……」
ルーミアが背伸びをする。
「昨夜は騒がしかったわね」
ノエルが横目でレオンを見る。
「俺は正座と乾燥作業しかしていない」
「反省は?」
「板の強度を確認しなかったこと」
「そこじゃない」
ルーミアが吹き出す。空気は、いつもの三人だった。帳場に人影はない。鍵はすでに回収されていた。
「……いつ精算した?」
「机に置いた」
「誰もいなかったわよ」
一瞬の沈黙の後、すぐに鳥の鳴き声がそれを破る。
「まあ、いいか」
三人は外へ出た。門の横に、古びた木の看板が立っている。昨夜は湯気でよく見えなかった。朝日が当たり、文字がはっきりする。かすれた墨。小さな注意書き。
──四人目に気づいたら、振り返るな。
レオンは足を止めかける。
「……何か書いてあるな」
「なに?」
「いや」
目を細める。風が吹く。湯気が流れ、文字が揺れる。もう読めない。
「気のせいだ」
三人は石段を下りる。軽口を叩きながら。
「次はどっち?」
「南だな」
「また歩き?」
「うん、また」
「走らないでよ」
「走らない」
並んで進む。その背後。一瞬だけ。足音が、四つ重なった気がした。
ルーミアが、ほんの少しだけ立ち止まる。
「どうした?」
「……なんか、今」
「?」
「ううん。なんでもない」
歩き出す。誰も振り返らない。
みかげ湯の門の内側。白い湯気が、ゆらりと揺れる。仕切りの割れた板。畳のきしみ。濡れていないはずの廊下。静かな建物の中で、もう一つ分の“揺れ”だけが、残っている。
木の看板が、もう一度揺れた。
──四人目に気づいたら、振り返るな。
三人は知らない。
見てしまった日。
みかげ湯は、今日も静かに湯を沸かしている。
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