第40話 誰かの信じ方
硝子街アステラの夜は、静かに光っていた。昼間は透明に見えた家々の窓が、内側の灯りを受けて柔らかく輝いている。
石畳の中央広場には、大きな共同炉――“星灯りの炉”が据えられていた。丸く盛り上がった炉の腹の奥で、溶けた硝子が橙色に揺れている。その光が、円形の広場を均一に照らしていた。
「……ここ、落ち着くわね」
ノエルが言った。声は静かだが、どこか硬い。ルーミアは頷く。
「うん。きれい」
光の揺れを見ていると、心のざわつきを誤魔化せる気がする。レオンが、炉から少し離れた位置で腕を組んでいる。視線はルーミアから外さない。
「……昼間、もう無理はするな」
いつも以上に真剣な声だった。ルーミアは、わざと首を傾げる。
「昼間?」
「シェルグラードやベルカリア」
レオンは町の名前を言う。その場所でルーミアが何をしていたか、レオンの言葉の主語が何を示すのか、容易に察しがついた。
「……ああ」
軽く笑う。
「大したことじゃないよ。小さい揉め事ばっかりだし」
「大したことだ」
今度はノエルだった。その声は優しくない。だが怒鳴りもせず、まっすぐだった。
「落ち着いてから話そうと思ってたの。ルーミア、私たちから離れて使ってたわね」
炉の光が、三人の影を足元に落とす。
「偶然。近くにいただけ」
「偶然で、あの位置には立たない」
レオンが静かに返す。逃げ場がない。でも、まだ笑える。
「心配しすぎだよ」
柔らかく言う。
「やっても最小限だよ。削れてない。倒れてもない。見てたでしょ?」
「見てないところでやってる」
ノエルがはっきりと言った。空気が少し重くなる。
「……別に隠してたわけじゃ」
「隠してた」
ルーミアの胸が、わずかに波打つ。炉の中で、硝子が弾ける。
「……ごめん」
ルーミアは、すぐに言った。反射に近い。
「気をつける。回数も減らす。ちゃんと相談もする」
穏やかな声。いつもの波風を立てない言い方。
「だから、そんな顔しないで」
ノエルの眉が、ぴくりと動く。
「どんな顔よ」
「怒ってる顔」
「怒ってるからね」
即答だった。ルーミアは、ほんの少しだけ目を見開く。
「……なんで?」
「なんで? 分からないの?」
ノエルが一歩前に出る。石畳の上で、足音が乾いて響いた。
「あなた、吐いてたでしょう」
心臓が跳ねる。顔に出ないよう、息を整える。
「……吐いてないよ」
「嘘」
レオンが、低く続ける。
「裏口。井戸のそば」
全部見られていた。胃の奥がひりつく。
「たまたま体調が――」
「俺たちのこと、信用してねえのか」
その言葉は、刃物みたいに真っ直ぐだった。ルーミアの呼吸が一瞬止まる。
「……え?」
「吐いてることも、削れてることも、何も言わない」
レオンの視線は逸れない。
「隠して、笑って、平気な顔して。それって、信用してねえってことだろ」
炉の光が揺れる。ルーミアの胸の奥が錆び付いたようなざらつきを感じる。
「違うよ。心配かけたくないだけ」
「それが信用してないって言ってんだ」
レオンの声は荒くない。だから余計に重い。
「俺たち、そんなに頼りないか?」
違う。そうじゃない。でも、口が開かない。
ノエルが、ゆっくりと息を吐く。
「ルーミア。私たち、あなたの横にいるの。後ろじゃない」
その言葉が、胸の奥のどこかに触れる。
「……分かってる」
「分かってない。……あなた、ずっと一人で抱えてる」
炉の光が、ルーミアの顔を照らす。胸の奥が熱い。
「抱えてない」
「抱えてる」
言葉がぶつかる。
「吐くほど抱えてるのに、何も言わない」
「大丈夫だって言ってるでしょ!」
声が、少しだけ強くなる。自分でも驚くくらいに。広場に沈黙が落ちた。炉の中でまた硝子が弾ける。ルーミアは拳を握っていた。
(大丈夫)
本当に?
その問いが、胸の奥で微かに浮かぶ。でも今はそれを見ない。
「私、ちゃんと管理してる。編みすぎてない、深く触ってない、倒れてない」
視線をまっすぐ向ける。
「だから、問題ない」
その言葉が、広場に落ちる。ノエルの目が、静かに揺れた。
「……問題ない?」
その声は、怒鳴りではない。
風が炉の炎を大きく揺らした。ノエルの中で、何かが決定的に切り替わり、目がはっきりと変わる。怒りではない。傷ついている。
「……問題ない、って言ったわね」
声は低く、震えていない。
「うん」
「吐いてるのに?」
「それは、体調の――」
――パンッ!
硝子街の夜に、乾いてる澄んだ音が広場に響く。
ルーミアの頬が横に弾かれる。遅れて熱が広がる。
平手打ち。強すぎず、けれど容赦はなかった。ノエルの手が、わずかに震えている。叩いた自分の指先を、ぎゅっと握り込んでいる。
「……言わせない」
声が震えた。
「体調のせいとか、偶然とか、そういう言い訳」
ルーミアは、頬を押さえたまま、目を見開いている。叩かれたことより。ノエルが震えていることの方が、胸に刺さる。
「吐いてるの、見た」
今度ははっきりと言う。
「何も出なくなるまで、吐いてた」
レオンは何も言わない。ただ、目を逸らさない。
「削れてないって言うなら、あれは何?」
ルーミアの喉が鳴る。
「……」
言葉が出ない。
違う。削れていない、編みすぎてもいない。管理できている。そう、思っていた。
「救えた瞬間に、救われてる気分?」
ノエルの声が、静かに刺さる。
「それが嫌なんでしょう」
胸の奥が、強く掴まれた。
「……やめて。もうそんなに、衝動的なものはないから」
小さく出た声。
「やめない。そこ、誤魔化すから吐くの」
ルーミアの呼吸が、浅くなる。
ノエルの目が、潤んでいる。
「依存してる。話しておかないと、またいつそうなるかわからないでしょ?」
その言葉が落ちた瞬間、何かが決壊した。
「違う!!」
声が夜に響く。硝子の窓が、わずかに震えている。
「私はスイレンみたいにはならない! 大きく削ってないし、壊れてない! ちゃんと分かってる!」
涙が、視界を滲ませる。
「ただ……っ。怖いんだよ!!」
言ってしまった。ずっと飲み込んでいた本音が飛び出す。
「いつ編めなくなるか分からない! いつ色が見えなくなるか分からない!」
スイレンの笑顔が脳裏をよぎる。沈む白い花、ひび割れる中心。
「気づいた時には遅いかもしれない!」
涙が止まらない。
「だから……今、できるうちに……。今、編めるうちに……やらなきゃって」
沈黙。炉の中の炎が、大きく揺れる。
「止められるの怖い。止められて、本当に編めなくなったらどうするの」
「……」
「でも、止めてほしい気持ちもある。このまま壊れるのも怖い」
自分でも、何を言っているのか分からない。涙が、石畳に落ちる。
「壊れて、死ぬのも怖いよ」
レオンの指が、わずかに動く。
「でも」
ルーミアは、泣きながら笑った。
「私が壊れれば、二人は前に進める」
静寂。風が止まったみたいだった。
「私は代わりがきく」
その一言。次の瞬間、ノエルの表情が凍りついた。
「……は?」
低い声。ルーミアは、止まらない。
「色糸魔法なんて、なくても世界は回る。私一人いなくても、二人は旅できる」
言い終わった瞬間、ノエルの目の色が完全に変わった。怒りではない。絶望に近い衝撃。
「……ふざけないで」
声が、震えている。でも次の瞬間、別の声が重なった。
「お前、何言ってんだ」
レオンだった。いつもより、低い。はっきりとした怒りを含んでいる。
「そもそも、色糸魔法が使える、世界でただ一人の特異点だろ、お前は」
ルーミアが、息を呑む。
「それに、そんなんじゃなくても、俺たちの中には、ルーミアは一人しかいねえよ」
広場が、静まり返る。ノエルの肩が、震えている。
「代わりがきく、なんて二度と言わないで」
絞り出した声に、涙がこぼれた。ルーミアの肩を掴む。
「仲間でしょ?」
硝子街の炉が、静かに燃えている。同じ高さの石畳の上で。三人は逃げずに立ち、ノエルの手は、まだルーミアの肩を掴んでいた。震えている。叩いたときよりも、今の方が震えている。
「……私たちは、あなたが壊れても前に進めるほど、強くない」
掠れた声に、ルーミアがはっと顔を上げる。
「勝手に自分を切り捨てないで」
硝子街アステラの夜は静かだった。低い硝子窓の奥で炉が燃え、赤い光が石畳に滲む。レオンが、ゆっくりと息を吐いた。
「止めるのが怖いのは分かる。でもな」
ルーミアを視線で刺す。
「止められるってのは、奪われることじゃねえ」
ルーミアは涙で滲む視界のまま、レオンを見る。
「任せるってことだ」
その言葉が、胸に落ちる。
「お前は、“編むかどうか”を自分一人で抱えてる」
レオンの声は責めていない。ただ事実を突いている。
「でもそれ、俺ら三人の問題だろ」
三人。その響きが、やけに重い。
「私は……心配かけたくなかった」
本音が零れる。
「スイレンみたいになるの、怖かった。だから、削らない範囲でやってた」
「吐いてるのに?」
ノエルの問いは鋭いが、怒りはない。
「……」
言葉に詰まる。
「吐いてる時点で、範囲の外」
静かに、断言する。
「あなたの体が“無理”って言ってる」
ルーミアは、ぎゅっと拳を握った。
「でも、やめたら空っぽになるの。救えた瞬間、少しだけ満たされる」
涙がまた溢れる。
「それがなくなったら、私、何でいるのか分からなくなる」
風が、硝子窓を震わせた。ノエルが、ルーミアの肩から手を離す。代わりに、その両頬を優しく挟んだ。
「聞いて」
目を合わせる。
「あなたがここに立ってる理由は、誰かを救った数じゃない」
「……」
「私たちと並んでるからよ」
その一言に、胸が軋む。
「編めなくなったら?」
ルーミアの声は、子どもみたいに震えている。
「見えなくなったら?」
「その時は」
ノエルは迷わない。
「私がいる」
レオンが続ける。
「俺もな」
「それで足りなきゃ?」
「足りなくても進む」
「三人でな」
涙が、止まらない。
「私、信じてないのかな」
ぽつりと出た本音。
「信じてるつもりだった」
「“つもり”なんでしょ」
レオンが言う。
「信じるってのはな。弱いとこ見せれることだ」
ルーミアが息を呑む。
「吐くなら、隠すな。怖いなら、言え。止めてほしいなら、ちゃんと頼め」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「私は……壊れたくない」
はっきりと言えた。
「死にたくない」
夜気が、ひやりと肌を撫でる。
「だから……止めてほしい時は、ちゃんと言う」
ノエルの目が、揺れた。
「止められたら、怒っちゃうかもしれないけど」
泣き笑いになる。
「でも、黙って吐くのはやめる」
ノエルが、ぐしゃっとルーミアの頭を撫でた。
「それでいい」
レオンが、小さく笑う。
「やっと本音か」
空気が、少しだけ緩む。
硝子街アステラの炉の炎が、静かに揺れている。同じ高さの石畳の上。三人は、逃げずに立っている。
ルーミアは、深く息を吸った。胸の奥は、まだざらついている。衝動も、消えていない。怖さも、なくなっていない。でも。
(……一人じゃない)
それは、初めて腹の底に落ちた実感だった。
「ねえ」
ルーミアが言う。
「また吐いたら、どうしよ」
ノエルは即答する。
「背中さする」
レオンは肩をすくめる。
「水持ってくる」
涙と笑顔が、零れた。今度は、違う種類の涙だった。
硝子街の夜は、静かに更けていく。炉の火は消えない。割れやすい硝子みたいな心でも、ちゃんと支え合い、衝撃を分散できるだけで、割れずに済む。
ルーミアは、初めて思う。“信じる”って、全部抱え込むことじゃない。割れそうだと言えること。止めてほしいと頼めること。
そして。それを受け取ってくれる人がいると、知ること。
その夜、ルーミアは吐かなかった。衝動は消えていない。けれど初めて、それを一人で抱えずに眠れた。
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