第41話 進む選択
硝子街アステラを離れて半日。空は高く、雲は薄い。街道はゆるやかな下り坂になり、遠くに草原が広がっていた。硝子の塔群も、もう背後で霞んでいる。乾いた風が、三人の外套を軽く揺らした。
「……静かだね」
ルーミアが言う。
「ええ。今日は何も起きないかもしれないわね」
ノエルは地図を畳みながら答えた。
レオンは前方を見据えたまま、短く言う。
「“かもしれない”は信用するな」
「分かってる」
ルーミアは小さく笑った。その笑顔に、無理はない。少し歩いたところで、ルーミアが足を緩めた。
「……ねえ」
「なに?」
ノエルが視線を向ける。ルーミアは、ほんの一瞬だけ迷ってから言った。
「今日、もし編む場面があったらさ」
風が、三人の間を通り抜ける。
「一回、相談していい?」
ノエルの足が止まりかける。
「……相談?」
「うん」
ルーミアは、正面を見たまま続ける。
「私だけで決めない。前みたいに」
前みたいに。その言葉の意味を、三人とも分かっている。ノエルは、ゆっくりと息を吐いた。
「……もちろん」
レオンも頷く。
「回数も共有だな」
「うん」
ルーミアは、少しだけ安堵したように笑った。それは“止められる覚悟”ではなく、“預ける覚悟”だった。
街道沿いの小さな休憩所に差しかかる。石造りの低い屋根と、簡素な井戸。旅人が二、三人腰を下ろしている。その中に、足を押さえている老人がいた。表情は険しくない。ただ、困っている顔。
ルーミアの視界に、色糸が映る。絡まりは浅い。老いと焦りが、少しだけ結び目を作っている。以前なら、迷わなかった。けれど今は。
「……どう思う?」
ルーミアは、二人を見る。
ノエルは老人を観察する。呼吸は安定。立てないわけではない。
「歩けなくはなさそうね」
「でも、放っとけば悪化するかもな」
レオンが付け足す。
沈黙。ルーミアは胸に手を当てた。鼓動は安定している。視界も揺れていない。
「今日、まだゼロ回」
「ええ」
「……一回目にする」
決めた声だった。ノエルは頷く。
「短く」
「うん」
ルーミアは老人の前に膝をつく。
「大丈夫ですか?」
「ああ……歳は嫌だな」
苦笑。色糸が、弱く揺れる。ルーミアは深く息を吸った。
「――色糸魔法」
詠唱は、必要最小限。糸に触れ、撚りを整える。絡まりをほどく。成功。老人の肩がすっと落ちる。
「……軽い」
足を動かす。
「不思議だ」
「無理はしないでくださいね」
ルーミアは微笑む。
立ち上がった瞬間、胸の奥にかすかな圧が走った。
「……」
呼吸を整える。一拍。ノエルが見る。
「どう?」
「……大丈夫。軽い」
嘘ではない。重さはある。でも、制御できる。
レオンが淡々と言う。
「あと何回いける?」
ルーミアは少し考えた。
「……二回、かな」
「三回じゃないの?」
ノエルが問う。
「今日は、二回にする」
迷いなく答える。それが、今の彼女の選択だった。
三人は再び歩き出す。遠くに、次の町の影が見えてきた。賑わいの気配も、風に混ざって届く。
「……次、ありそうね」
「うん」
ルーミアは、真っ直ぐ前を見る。止められていない。でも、独りでもない。その違いは、確かにあった。
やがて街道の途中で、小さな人だかりが見えた。若い男が、荷を拾い集めている。手がわずかに震えている。色糸が、前より深く絡んでいるのが見えた。ルーミアは立ち止まる。
「……どうする?」
自分から聞く。
ノエルとレオンが、同時に男を見る。若い男が、地面に散らばった荷を拾い集めていた。布袋からこぼれた穀物が、乾いた土に混ざっている。
「違う、落としたんじゃない……手が、勝手に」
男は笑おうとして、笑えていない。その手は、確かに震えていた。
ルーミアの視界に、色糸が映る。不安と焦燥。焦りと自己嫌悪。絡まりは、さっきの老人よりも深い。
「……どう思う?」
ルーミアは、二人を見る。ノエルは男の様子を観察する。意識は明瞭。倒れそうではない。
「命に関わる感じじゃない」
レオンが静かに言う。
「だが、このままじゃ仕事は続かんだろうな」
ルーミアは、胸に手を当てる。一回目は軽度。まだ余裕はある。
「あと一回、いける」
自分で言う。ノエルの視線が揺れる。
「本当に?」
「……うん」
呼吸を整える。鼓動を数える。
「短くする」
近づき、男に声をかける。
「怪我はない?」
「ない、けど……最近、急に」
周囲の視線が、困惑と戸惑いを帯びている。ルーミアは、目を閉じた。
「――色糸魔法」
糸を掴む。深い。慎重にほどく。撚りを戻して、絡まりを解く。少し時間がかかる。
(遅い)
自覚する。でも、成功。男の手が、止まる。
「……あ」
拳を握り、開く。
「震え、止まってる……」
安堵が、周囲に広がる。
「ありがとう」
男が深く頭を下げる。その瞬間。胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
「……っ」
呼吸が一拍抜ける。視界が、ほんのわずか白む。レオンが即座に肩を支える。
「座れ」
「……まだ立てる」
ルーミアは、踏ん張る。倒れない。でも。さっきより、重い。
「今のは?」
ノエルが問う。
「……重い。前より」
正直に言う。
「でも、二回目だから」
「三回目は?」
レオン。
ルーミアは、少しだけ黙った。答えは分かっている。
「……今日は、やらない」
ノエルの指先が、わずかに緩む。
「本当に?」
「本当に」
自分に言い聞かせるように。
三人は人だかりを離れ、再び街道を歩く。
町の門が近づくと、ざわめきが増す。門の手前で、少女の泣き声が聞こえた。転んだのだろう。膝を擦りむき泣いていて、母親が慌てている。小さな、浅い絡まり。触れれば、すぐほどける。
ルーミアの足が、止まりかける。視界の端で、糸が揺れる。温かい、簡単な救い。
(あと一回)
頭の奥で、声がする。ノエルとレオンは、何も言わない。止めない。見ているだけ。選択を、預けている。ルーミアは、深く息を吸った。
「……行こう」
歩き出す。少女の泣き声は、背後に残る。母親が抱き上げる。時間が解決する程度の痛み。ルーミアの胸が、ざわつく。助けられた。助けられたはず。でも、今は――助けなかった。
「……平気?」
ノエルが静かに聞く。
「……ちょっと、ざわつく」
正直に答える。
「でも、耐えられる」
レオンが小さく言う。
「それでいい」
三人は門をくぐる。
中継町ヴィア。石の門を抜けると、市場通りがまっすぐ伸びている。人の往来は多いが、殺気はない。
宿を取り、部屋に入る。荷を下ろした瞬間、ルーミアはベッドに腰を下ろした。
「……二回で、こんな感じか」
「どんな感じ?」
ノエルが聞く。
「身体より、胸が重い」
少し考えてから、続ける。
「編まなかったの、引きずる」
ノエルは、静かに頷いた。
「でも、三回目をやってたら?」
「……もっと重かったかも」
ルーミアは、天井を見る。
「今日、二回で止めたの、正解?」
問いかけ。ノエルは、迷わず答える。
「正解よ」
レオンも頷く。
「限界を自分で決めた。悪くない」
ルーミアは、目を閉じた。
「……進むってさ」
ぽつりと。
「全部やることじゃないんだね」
ノエルの胸が、静かに温まる。
「ええ」
「選ぶこと」
ルーミアは、小さく笑う。
「今日は、二回」
それが、今の“進む選択”。
夜。町は静かに眠る。ルーミアは、すぐに寝息を立て始めた。ノエルは、椅子に座ったままその寝顔を見る。
完全ではない。でも、少しだけ変わった。止められない少女ではない。止まらない少女でもない。選べる少女。
レオンが低く言う。
「今日は、守られたな」
「……ええ」
ノエルは、ようやく深く息を吐いた。
休めない旅は続く。でも。今日は、確かに一歩違った。止められなかった未来ではなく。選んで進んだ未来。それが、ほんのわずかな希望だった。
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