第39話 湯に沈まないもの
リュフトを発ってから二日。街道は南へ折れ、空気はゆるやかに湿り気を帯びていった。
「……硫黄の匂い」
ルーミアが小さく言う。
「ああ。もう近い」
レオンが短く答えた。
目的地は、ユゴウ・セレン。山裾に広がる湯治の町だ。旅人も、商人も、傷を負った傭兵も、理由は違えど、休むために訪れる場所。
「ここなら……」
ルーミアはそこで言葉を切った。
「少しは、楽になると思う?」
ノエルはすぐに答えなかった。
「身体の疲れなら」
含みはあったが、追及はしない。
町が見えてくる。石造りの建物の隙間から、白い湯気が立ちのぼる。人通りは多いが、どこか歩調が緩い。急ぐ者がいない町。
「……不思議、みんな急いでない」
ルーミアは呟いた。
「急ぐ理由がないのよ」
宿に荷を下ろす。湯治客向けの簡素な宿だが、部屋は清潔で静かだった。
「今日は、何もしない」
ノエルがはっきり言う。
「散歩も、依頼の確認も、考え事も」
「……考え事まで?」
「ええ。極力やめる」
ルーミアは少し笑った。
「分かった」
昼を過ぎてから、三人は町をゆっくり歩いた。湯屋の前を通るたび、湯気が肌を撫でる。温かく、柔らかい。
「……あったかそう」
「実際あったかいわ」
「入ったら、元気になるかな」
その声には、ほんの少し期待が混じっていた。
夕方。三人は湯屋へ向かう。
湯屋は天井が高く、湯気がゆるやかに漂っている。
外の世界が薄くぼやける。
ルーミアはゆっくりと湯に足を入れた。
「……あ」
息が、ほどける。
「熱い?」
「ううん。ちょうどいい」
肩まで沈める。じんわりと、身体の芯に熱が広がる。筋肉が緩み、呼吸が深くなる。
「……気持ちいい」
その声は、本当に安堵していた。
ノエルは静かに隣に座る。ルーミアの肩は、いつもより少しだけ下がっている。
「久しぶりに、ちゃんと温まった気がする」
「そう」
湯は変わらず温かい。身体は確かに軽くなっている。少しして、ルーミアが目を閉じたまま言う。
「休むって、こういうことなんだね」
その声音に、嘘はなかった。湯は、きちんと効いている。湯気の向こうで、天井の梁がぼんやり揺れている。ルーミアは、目を閉じたまま言った。
「……ちゃんと、あったかい」
「そうね」
「前に入った湯より、ちゃんと熱い」
その言い方に、ノエルはわずかに眉を動かした。
「前?」
「覚えてないけど……なんか、もっと遠かった気がする」
遠い。重いでも、痛いでもなく、遠い。
ノエルは、そこで余計な言葉を足さなかった。
湯は正常だ。温度も、肌触りも、匂いも、すべて自然。ルーミアの頬には赤みが差し、血色も戻っている。
「……身体は、軽い」
「ええ」
「ちゃんと軽い」
念押しのように繰り返す。それは事実だ。だが数分後、ルーミアはゆっくり目を開けた。
「……ノエル」
「なに?」
「ちょっと、立ってみる」
湯から上がろうとする。その動きは、特におかしくない。ふらつきもない。だが、縁に手をかけたまま、一瞬だけ止まった。ほんの一瞬。
「……どうしたの?」
「ううん」
ルーミアは首を振る。
「今、何しようとしてたっけってなっただけ」
「……」
「でも、ちゃんと思い出せた」
そして、普通に立ち上がる。足取りも安定している。
「湯から上がろうとしてた」
「そう」
「ちゃんと分かる」
“ちゃんと”が、増えている。脱衣場へ戻り、身体を拭く。動作は普段と変わらない。鏡に映る自分を見て、ルーミアは言った。
「顔色、いいね」
「ええ」
「昨日より、全然いい」
それも事実だ。ノエルは、ルーミアの背に視線を落とす。肩甲骨のあたりに、薄い痣のような色がある。だが打撲とは違う。ぶつけた形跡はない。
「最近、どこかで転んだ?」
「え? ないよ」
「そう」
ルーミアは気に留めない。
宿へ戻る道。夕暮れの空気がひやりと肌を撫でる。
「……さっきより、外の空気がはっきりしてる」
ルーミアが言う。
「湯の中より、ちゃんと感じる」
「湯の中は?」
「ぼやけてた。熱いのは分かるけど、なんか……遠い感じ」
ノエルは歩きながら考える。湯は正常。身体は回復。だが、“感覚の拾い方”が変わっている。
宿に戻り、椅子に腰かける。
「……ちょっとだけ、考えるのも遅いかも」
ルーミアがぽつりと言う。
「どのくらい?」
「ほんのちょっと。前より、一拍いる」
ルーミアは、両手をパチンと合わせる。
「一拍分……」
「うん、最初の一瞬が空虚な感じ」
ノエルの指先が静かに握られる。
「どのくらい前から?」
「……それは、わかんない」
今日始まったものじゃない。温泉が奪ったわけでもない。むしろ温まって、身体の雑音が減ったからこそ、残っているものが浮き彫りになった。
「……痛みや疲れは?」
「ない」
「じゃあ怖さは?」
ルーミアは少し考えた。
「……不思議と、ない」
今は。ノエルはそれ以上、踏み込まない。身体は休まっている。だが、回復はしていない。正確には、回復すべきものが、もう別の場所に移っているかのようだった。
「もう寝ようか」
「うん」
ルーミアは素直に頷いた。無理をしない。強がらない。“まだ動ける”ことを、冷静に理解している。
布団に入る前、ルーミアが小さく言った。
「……ノエル」
「なに?」
「温泉、悪くないよ」
「ええ」
「ちゃんと、効いてる」
それは、本音だった。
夜は、静かに更けていった。ユゴウ・セレンの宿は、早く眠る町の流儀に従い、灯りが一つ、また一つと落ちていく。廊下を歩く足音もなく、外からは微かな湯気の噴き上がる音だけが届いていた。
ノエルは椅子に座ったまま、動かなかった。隣のベッドでは、ルーミアが眠っている。呼吸は一定。苦しそうでも、浅すぎるわけでもない。顔色も悪くない。
(身体は、回復している)
それは間違いない。温泉は効いている。筋肉の緊張は取れ、血色も戻り、足取りも安定していた。だが。
(回復しない域にまで、入っている)
それが、ノエルの結論だった。朝方、薄く目を開けたのはルーミアの方が先だった。
「……おはよう」
「……早いわね」
「目、覚めちゃった」
声はいつも通りだ。掠れもなく、震えもない。
ノエルは、慎重に問いかける。
「どう?」
ルーミアは少し考えた。ほんの一瞬。
「……身体は、軽い。昨日より、はっきり」
肯定だ。
「でも?」
促すと、ルーミアは正直に続けた。
「判断は、昨日のまま」
ノエルの胸が静かに冷える。
「どういう感じ?」
「考えれば分かる。ちゃんと分かる」
「ええ」
「でも、最初の一瞬が遠い」
遠い。重いではなく痛いでもない。
「例えば?」
「立ち上がる前とか。声をかける前とか。ほんの一拍、空白がある」
ルーミアは自分の手を見つめた。
「でも、その後は普通」
「戻らない?」
「……戻ってない」
「これ、休めば戻るやつじゃない気がするの」
その言葉に、ノエルは何も返せなかった。本人が、もう分かっている。そして受け入れている。
「……それでも行く?」
問いは確認だった。ルーミアは、ほんの一瞬だけ考えた。
「行く」
迷いはなかった。
「止めたほうがいい?」
「今は、止まる理由がない」
困っている人を前にして、“今日は休みます”とは言えない少女なのだとわかっている。
宿を出る。ユゴウ・セレンの朝は、湯気に包まれている。白い蒸気が石造りの建物をやわらかく覆い、町全体をぼかしていた。
「温泉って、すぐ効果が出るわけじゃないけど、気持ちよかった。少なくとも、そう思えてよかった」
ルーミアが言う。
「すぐ効果が出るような万能なものだったら、世界はもっと楽よ」
ノエルが返す。ルーミアは小さく笑った。
「そうだね」
「ええ」
「でもちゃんと、身体は少し整えれた」
誰にも見えない、ルーミアの中にある重圧。それが少し、このユゴウ・セレンの湯が洗い流してくれた気がした。
三人は町を出る。街道に出ると、湯気は消え、風が通る。
旅は続く。まだ動ける。だからこそ、止められない。
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