第38話 考える時間
朝のリュフトは、静かだった。交易路と観光の町とはいえ、朝は遅い。夜通し静かに動いていた馬車も、今は軒先で休んでいる。宿の中庭に差し込む光は柔らかく、急かすものが何もない。
「……起きてる?」
ノエルが声をかけると、ベッドの上でルーミアが身じろぎした。
「……うん」
返事はすぐだった。声も、いつもと変わらない。
「眠れた?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「夢、見なかったから」
ノエルは、それ以上突っ込まなかった。眠れていないわけではない。少なくとも、そう見える。
支度を整え、朝食をとる。パンとスープ。簡単なものだ。ルーミアは、黙々と食べていた。食欲はあるし、箸も止まらない。
「……今日は、どうする?」
ノエルが尋ねる。
「この町、もう少し見る?」
ルーミアは、スープを飲み干してから顔を上げた。
「……出たい」
即答だった。
「理由は?」
「……理由、いる?」
「確認してるだけ」
「……まあ、動けるから、かな?」
その言葉に、ノエルは一瞬だけ視線を伏せた。動ける。確かにそう。立ち上がる動作も、歩き出す足取りも、問題ない。荷を背負う動きも、いつも通り。
「急がなくてもいいのよ」
「分かってる」
ルーミアはそう言いながら、外套を羽織った。
「でも、止まる理由もないから」
その言い方が、ノエルの胸に引っかかった。止まる理由。それは、疲れたから。休みたいから。怖いから。どれも、今のルーミアの口からは出てこない。
ーー少しでも早く、立ち止まってる人に寄り添ってあげたいから。
以前なら、こういった理由が出てくるはずだった。今では、ただ無関心から来るかのような理由付け。
宿を出て町を歩く。朝の市場は、準備の最中だった。野菜を並べる商人。桶を運ぶ子ども。笑い声。
色糸は、いつも通り見える。絡まったものもあれば、薄いものもある。けれど、昨日と同じだ。今すぐ編むべき色はない。
「……ねえ」
歩きながら、ノエルが声をかけた。
「なに?」
「昨日と今日で、何か違う感じはある?」
ルーミアは、少し考える素振りを見せた。
「……あんまり」
「あんまり?」
「昨日と同じだよ」
「……同じ、か」
ノエルは、それ以上言わなかった。
別行動をしていたレオンと合流し、町を抜け、街道に出る。リュフトの外れは、なだらかな丘が続いている。
「ルーミア」
レオンが声をかける。
「どうしたの、レオン」
「身につけておけ」
そう言って、レオンは短剣を差し出した。柄の部分には、極光色の刺繍が施されている。
「え……私、剣はあまり使ったことないよ」
「振るわなくていい。持ってるだけで、選択肢は増える」
淡々と告げた。
「……わかった。いつかお礼しなきゃね」
「気にするな」
歩き始めて、しばらく経った頃。ルーミアの足取りが、ほんの一瞬だけ、乱れた。
「……大丈夫?」
「うん、躓いただけ」
「そう」
ノエルは歩調を合わせる。
(躓くこと自体は、珍しくない。でも……)
昨日も、似た瞬間があった。ほんの一瞬、本人も気に留めない程度。たまにやってしまう日常の範囲内。けれど、それが続いている。
「……疲れてない?」
「疲れてたら、言うよ」
その返答は、以前と変わらない。嘘をついている様子もない。
「……自分で、変だと思うところは?」
ノエルの問いに、ルーミアは少しだけ困った顔をした。
「……変?」
「いつもと違う、とか」
しばらく沈黙が続く。やがて、ルーミアは小さく息を吐いた。
「……変かどうかは、分かんないけど……おかしいって言われたら、否定できない」
ノエルは、その言葉を噛みしめた。本人が気づいている。でも理由が分からない。
「……まだ、動ける?」
「うん」
「無理は?」
「してないよ」
そのやり取りは、何度目だろう。
ノエルは、空を見上げた。雲ひとつない。穏やかな天気。何も起きていない。それなのにーー
(偶然じゃない)
原因は分からない。でも、これは「たまたま」ではない。何かの積み重ね。そう確信するには、十分だった。
「……次の町まで、どれくらい?」
ルーミアが尋ねる。
「半日もかからないわ」
「じゃあ……行こう」
その背中は、迷っていない。ノエルは、黙って頷いた。止める理由は、まだ言葉にならない。でも、このまま見過ごしていい気がしない。
三人は街道を穏やかな空の下で進む。"疲れが残っているかのような行動"の理由は、まだ名前を持っていなかった。
昼を過ぎた頃、街道の景色が少しずつ変わり始めた。なだらかな丘は終わり、低木が増える。風が通るたび、葉が擦れる音が静かに続いた。
「……ここ、前にも通った気がする」
ルーミアが言った。
「そうね。支道に入る前の合流点よ」
ノエルは即座に答える。
「この先を曲がれば、小さな水場がある」
レオンが付け加えた。
「……そうだった」
ルーミアは頷いたが、その声はどこか曖昧だった。一定の速度で歩く。無理はない範囲、のはずだった。
「……ノエル」
「なに?」
「ちょっと、待って」
ルーミアが足を止めた。
「どうしたの?」
「……なんか」
言葉を探すように、視線が泳ぐ。
「……距離、変じゃない?」
ノエルは即座に周囲を確認した。街道はまっすぐで分岐もない。目印になる木も、記憶と一致している。
「変?」
「いや……ここ、もう少し近かった気がして」
ルーミアは、少しだけ眉を寄せた。
ノエルの喉が、小さく鳴った。
(距離感。認識の誤差。昨日と繋がっている)
「熱でもある?」
「……ないと思う」
「そこか痛む?」
「……怪我してないよ」
ルーミアは自分の手を見た。握って、開く。力は入る。震えもない。
「……ちゃんと、動く」
「そうね」
「でも、反応というか……判断? が遅れる感じがする」
レオンがぴくりと反応した。ルーミアは続ける。
「考えてるだけなのに、最初の一瞬が……ずれる」
ルーミア自身の率直な言葉だった。
「それ、昨日今日だけじゃない?」
「……うん」
ノエルは、そこで立ち止まった。
「今日は、休みましょう」
「え?」
「水場まで行かない」
「でも、もう少しーー」
「今」
声は穏やかだったが、揺るがなかった。
「……そうだな。今、少し休むか」
レオンも並ぶ。ルーミアは一瞬だけ迷い、頷いた。
「……分かった」
木陰に腰を下ろす。ノエルは水筒を差し出した。
「飲んで」
「うん」
水を飲むルーミアの様子に異常はない。むしろ落ち着いている。
「……ねえ。これって、疲れなのかな?」
ルーミアが、思いの外、さらりと聞いた。
ノエルは即答できなかった。常人の場合と言っていいのかわからないが、疲れなら休めば戻る。でもーー
「……たぶん、疲れだけじゃない」
正直に言う。
「でも原因は、断定できない」
「……そっか」
ルーミアは、驚いた様子も見せなかった。
「私も、分からないや」
沈黙が落ちる。風の音だけが、三人の間を通り過ぎた。
「……でも、動けるうちは進むね」
沈黙とともに、風の音が三人の間を通り過ぎた。
ルーミアは顔を上げる。その目は、はっきりしていた。弱ってはいない。
「困ってる人を、見過ごしたくないもんね」
「そうだな……」
レオンは、否定しなかった。
「だから、今日は無理しない範囲で進むことにする」
それは、まるで惰性や義務のような言い方だった。
欲の消失。感情の希薄化。判断と行動の鈍化。この時点でノエルは核心に迫り始めていた。
「……行こうか」
ルーミアが立ち上がる。
「うん」
街道を進むうち、映る景色が徐々に変わってきた。低木が途切れ、視界が少し開ける。先ほどの水場から離れたせいか、風が乾いている。
「……そろそろ、次の町が見えてくる頃ね」
ノエルが言った。
「……うん」
ルーミアの返事は、短い。歩調は保たれているが、先ほどから言葉数が減っている。
(無理をしている、というほどではないが、“余裕”がない)
ノエルは、そう感じていた。
「……ねえ、ルーミア」
「なに?」
「もし、今日は誰かが困っていたらーー」
言いかけて、ノエルは言葉を選び直した。
「……助けに行ける?」
ルーミアは、少し考えた。
「……行けると思う」
「“思う”?」
「……うん」
ルーミアは視線を落とす。
「前だったら、迷わなかったと思う」
「今は?」
「……考えちゃうけど、それでも行かなきゃ」
それは、弱さではなかった。むしろ、正確な自己認識だった。
「そうね」
ノエルは頷いた。
「間違いじゃない」
「……うん」
「でもルーミア。その“考える時間”が、前より長いよ」
ノエルの切り出しに、ルーミアは否定しなかった。
「……自分でも、そう思う。判断が遅れちゃう」
それは、はっきりした自覚だった。
「……うん」
「でも、動けなくなったわけじゃない」
「……うん」
「だったら、止まる理由にならない」
ルーミアの言葉は、静かだった。強がりでも、意地でもない。今までの旅を越えてきた、その理由を、本能的に繋ぎ止めるような。それがノエルに刺さっていく。
「……一つ、約束して」
ノエルは言った。
「なに?」
「“おかしい”と思ったら、すぐ言うこと」
「……うん」
「できれば、私やレオンが気づく前」
「……分かった」
それは、止めるための言葉ではなかった。止める準備の第一歩だった。やがて、遠くに町影が見え始める。次の町。ここから先も、旅は続く。
「……ノエル」
「なに?」
「私さ」
少し、間があった。
「……ちゃんと、自分の状態を見てるつもりだよ」
「ええ」
「管理してるつもり」
「そう」
「だから大丈夫だよ」
ノエルの胸の中にある責任感が、ちくりと痛む。
「……ええ」
三人は並んで歩き続ける。何も起きていない。けれど、確実に何かが進行している。
原因は断定できないけど、心当たりはある。この異変はおそらく、魔法による代償だけじゃなかった。
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