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第37話 何も起きていないはずの日

 交易帆船セルリアン号を降り、辿り着いたのは、交易路の分岐点に築かれた中規模の観光街だった。町の名はリュフト。石畳はよく整備され、行き交う人々の歩みは落ち着いている。


商人も、旅人も、職人も。誰もが忙しそうで、それでいて、追い立てられているわけではない。褪色していく世界の中でも、活気を失わない町だった。


「……いい町ね。活気があるし、交易品が並ぶ店がたくさんあって、お祭りみたい」


ノエルが周囲を見回しながら言った。


「うん」


ルーミアは短く答える。


声はいつも通りだった。息も乱れていない。歩調も、目立って遅れてはいない。ーー外から見れば、何の問題もない。


「今日はここに泊まろうか」


ノエルの判断に、レオンも異論はなかった。


「宿も多いしな。見たことない食材もたくさんあって、飯にも困らなそうだ」


「急ぐ理由もないしね」


ルーミアのその言葉に、ノエルは一瞬だけ視線を向けた。急ぐ理由。かつては、それが常にあった。


色が褪せる。人が立ち尽くす。“今すぐ”でなければ意味がないと、ルーミア自身が思っていた。それが今は、ない。


(……いや。正確には、「感じにくくなっている」だけ)


ノエルは、そう内心で訂正する。



 宿は街道沿いの二階建てで、客の出入りが多い。しかし騒がしさはなく、長期滞在の者も多いらしい。部屋に荷を置き、軽く街を見て回ることにした。


市場は活気があった。野菜の山、吊るされた干し肉、香草の束。他では見かけない形のパンの匂いが漂う。


この市場全体の色糸も見える。淡く、穏やかで、絡み合いも少ない。強い悲嘆も、怒りもない。


「今日は、編まなくてよさそうね」

ノエルが言う。


「誰も、今すぐ困ってない」

「……うん」


ルーミアのその返事に、迷いはなかった。


以前なら、「でも、この人は」、「あの人は」と、目を凝らしていたはずだ。今は、そうしない。胸の奥が、少しだけ軽くなる感覚があった。


「……楽だね。何も、決めなくていいの」


ルーミアが、ぽつりと言った。


ノエルは答えなかった。ただ、その言葉を胸の中で転がす。


市場を一周しただけなのに、ルーミアは一度、足を止めた。


「大丈夫?」


「うん。ちょっと、考え事」


考え事。それは本当だった。ただーー立ち止まる理由として、少しだけ遅かった。


「……行こう」


自分から歩き出したかと思えば、ルーミアは再度足を止めた。視線の先は、市場の角に並ぶ布。


鮮烈で、どこか荒い染めだが、

夜の海のような綺麗な青色をしていた。


「お。嬢ちゃん、これが気になるかい?」


商人の言葉に、ルーミアは静かに頷いた。


「なんでも、最近南から来た若い染師の色らしい」


ルーミアは布を指でなぞる。


揺らぎがある。混ざりきっていない。


でも、生きている色。


"こうなりたい"が詰まった色。


布の端に、見慣れない海外の言葉で、

”Mirei=Rovan”という刺繍がされていた。



それに反応するルーミアをノエルは静かに見ていた。


判断ができていないわけではない。ただ、ほんの少し、一拍分ほど遅れるような、気づきにくい誤差。


けれどノエルは、それを見逃さなかった。


(削れてる? まだ浅い。でも……)



宿に戻る途中、ルーミアは何度か深呼吸をした。


「疲れた?」


「……ううん」


嘘ではない。本人にとっては、本当に疲れていない。部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。


「少し、休もっか」


「うん」


素直な返事。眠る気はないので、横にはならない。ただ座っている。


ノエルは、窓の外の街を見つめながら、静かに思った。


(まだ、理由は代償と断定できない。たまたま、反応が遅れることが立て続けになった可能性もある)


 昼を過ぎても、町は穏やかだった。リュフトの通りには、急ぐ足取りの人がいない。荷車を引く商人も、品を並べ直す職人も、それぞれの速度で動いている。


「……やっぱり、いい町」


ルーミアが言った。それは感想というより、確認に近かった。


「ええ。長居したくなりそうな町」


ノエルはそう答えながら、無意識にルーミアの歩調を測っていた。


早くもない。遅くもない。ただ、一定しない。ほんの一瞬、足が止まり、ほんの一瞬、視線が遅れる。本人も自覚がない可能性のある、微小なズレ。


「何か買う?」


ノエルが声をかけると、ルーミアはゆっくり頷いた。


「……ううん。見てるだけでいい」


市場の端で、布を広げた露店があった。鮮やかな色ではない。旅人向けの、丈夫で実用的な布。ルーミアは、その前で立ち止まる。


「……触っていい?」


「どうぞ」


指先で布をなぞる。色糸ではない、ただの質感。


「これ、長持ちしそう」


「そうね」


ノエルは答えながら、ルーミアの手元を見ていた。触れる動作が、少しだけ慎重すぎる。輪郭をなぞるように、確かめるように。


(……まるで、布から手が勝手に外れないためのような動き)


選ぶのに時間がかかる。失敗を避けようとしている。


以前のルーミアは、”間違ってもいいから編む”側だった。今は、”間違えないために立ち止まる”側にいる。


「買わない?」


ノエルが尋ねる。


「……今日は、いい」


問いへの答えは、迷いがなかった。それもまた、今ではノエルが感じる違和感を走らせる。


 通りを抜け、小さな広場に出る。噴水の縁に腰を下ろす老人たちが、世間話をしている。誰も困っていない。誰も泣いていない。ここの色糸も静かだ。


「今日は、本当に何も起きねえな」


レオンが言った。


「そういう日もあるわ。いい事じゃない」


ノエルは即答した。


「俺は少し別行動をとるが、いいか。」


「……わかったわ」


別れ際、レオンはノエルにだけ聞こえる声で呟く。


「ちょっと任せる」


主語がなくとも、ノエルには伝わった。


「ええ」


そう言って、ノエルは送り出す。

ルーミアは、噴水を見つめたまま、小さく息を吐く。


「……変な感じ」


「何が?」


「何も、してないのに」


言葉が、そこで途切れる。


「……疲れてる?」


ノエルが聞く。


「ううん」


少なくとも、ルーミア自身の感覚では。


「眠くもないし、だるくもない」


「どういうこと?」


ルーミアは少し考えてから、首を傾げた。


「……分かんない」


その答えに、ノエルはそれ以上踏み込まなかった。分からない段階で、原因を決めつけるのは違う。でも分からないまま進むのも、危うい気がした。


(感情が削れてる。判断も少しずつ……身体にも影響してきている)


宿へ戻る道すがら、ルーミアは一度、立ち止まった。


「……あ」


「……なんか忘れ物?」


「道、こっちだっけ?」


さっき通ったばかりの道だった。


「……そうよ」


「そっか」


ルーミアはほぼ無表情に納得して、また歩き出す。笑い話にもならない程度の、些細なこと。誰にでもあるド忘れのようなもの。


誰も責めないし、誰も気にしない。けれどノエルの中では、確実に積み重なっていた。


(削れ方が今までと違う。錯覚じゃない)


部屋に戻ると、ルーミアは椅子に腰を下ろした。


「……座ると、楽」


「横になる?」


「大丈夫」


座るだけでいい、と言う。


何も起きていない。何も壊れていない。


それでも確実に、以前と同じではなかった。ノエルは、窓の外を見つめながら、静かに結論を保留した。



 日が落ちるにつれて、リュフトの通りは静かになっていった。宿の窓から見下ろす街路には、等間隔に灯りがともり、昼間の喧騒が嘘のように人影が減っていく。


交易路と観光の町らしく、完全に眠ることはないが、急ぐ足音はもう聞こえなかった。


「……夜が過ぎるのって、早いね」


ルーミアが窓辺で言った。


「この町は、そういう町よ」


ノエルは荷を整えながら答える。


「無理をしない。働くときは働くけど、休むときは休む」


「……いいな」


その言葉は、羨望とも違った。ただ、淡々とした感想。


以前なら、出てこなかったはずの言葉。「でも」「それでも」と、何かを探していたはずだ。色糸を、行動の理由を。


可笑しな表現かもしれないが、ここ最近ではむしろ"編みたがっている"ような様子だった。


今では、探している様子はない。



 夕食を済ませ、部屋に戻る。宿の食事は簡素だが、量は十分だった。


「……たくさん食べた」


ルーミアは、どこか自分に言い聞かせるように言う。


「ええ」


ノエルはそれ以上触れなかった。


ベッドに腰を下ろすルーミアの動きは、相変わらず問題ない。息も落ち着いている。顔色も悪くない。


「横になる?」


「……まだいい」


「無理はしないで」


「してないよ」


それも嘘ではなかったが、言葉はそこで止まる。ノエルは、机の椅子に腰を下ろした。


「今日は、いい日だったわ」


「……うん」


「誰も傷ついてないし、助けも必要なかった」


「……うん」


「だから、今日はそれでいいよ」


ルーミアは頷いた。けれど、その表情はどこか掴みきれない。満足でも、不満でもない。安堵とも、虚無とも違う。


「……明日は、どうする?」


ノエルが尋ねる。


「明日?」


「この町を出るか、もう一日いるか」


ルーミアは、すぐには答えなかった。少しだけ、考える時間があった。


「……ノエルが決めていいよ」


「……わかったわ」


灯りを落とし、部屋が暗くなる。ベッドに横になるルーミアは、目を閉じる前に一度、深く息を吸った。


「……ノエル、今日は……」


「なに?」


言いかけて、止まる。


「……やっぱり、なんでもない」


「そう」


ノエルは、それを追わなかった。


やがて、ルーミアの呼吸は一定になった。眠りは浅そうだが、ちゃんと眠れている。ノエルは、しばらくその様子を見ていた。


(疲れていない。少なくとも、本人はそう思っている。でも……)


昼間のわずかなズレ。判断の遅れ。無意味な立ち止まり。


(回復してるように見える、というより、むしろ逆……何かが“減っている予感”がする)


それは、魔法による代償の結果だと思っていた。これまでは、そうだった。けれど今日は、それだけでは説明がつかない。ノエルは、静かに結論を先送りにした。



今日だけでは、断定するべきではない。ただ一つだけ、確かなことがある。皆休んでるはずなのに、ルーミアだけ休めている感じがしない。


何も起きていないはずの日は、そうして、静かに終わった。無視できない変化を形取って。

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