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第36話 船は揺れ、ずれていく

 交易帆船セルリアン号は、穏やかな海を滑るように進んでいた。やわらかく風を受け、帆が軋む音もほとんどない。


船体は一定のリズムで揺れているが、それは不安を誘うものではなく、むしろ身体を預けていれば自然と慣れてしまう程度の動きだった。


セライド=ノアの外れの港を離れてから、まだそれほど時間は経っていない。


陸はすでに見えなくなり、海や空の色も、境界は曖昧なまま遠くまで広がっていく。


甲板には、木製の箱がいくつも積まれ、その立方体の木箱は、固定され隙間なく並べられている。


中身は布や乾物などの交易品だろう。転がらないように紐で結ばれた樽とともに、規則的に配置されている。


その間を縫うようにして、三人は立っていた。


「……思ったより、揺れないね」


ノエルがそう言って、荷の手すりに軽く体を預ける。足元に意識を向けながら、揺れの感覚を確かめている。


「まだ外海に出たばかりだ。こんなもんだろ」


レオンは前方を見たまま答える。

ルーミアはその隣で、同じように海を見ていた。


「大丈夫?」


ノエルが視線を向け、問いかける。ルーミアは少しだけ間を置いてから頷いた。


「うん。平気」


返事は短く、それ以上続かない。ノエルは一瞬だけ様子を見たが、特に何も言わずに視線を戻す。


しばらく、三人は並んで海を見ていた。


ほぼ一定の潮風が吹き、帆を鳴らす音と、船体が水を切る音が重なることで、穏やかな時間を刻んでいく。


やがて、食堂から乗客に向けて声がかかる。三人はその流れのまま食堂へ向かった。


 船内の通路は木の匂いが強く、足音が軽く響く。食堂は甲板の下にあり、扉をくぐると、柔らかな音楽が流れていた。弦を弾く音が静かに重なり、軽やかなリズムを奏でている。


長い木製のテーブルと椅子が並ぶ。すでに何人かの乗客が座り、簡単な会話が交わされていた。


三人も空いている席に座る。


献立は、温かいスープと固めのパン、それに少量の干し肉。特別な料理ではないが、船の上で出されるものとしては十分な量だった。


ノエルは、スープを一口飲んで息をつく。


「……思ったより、いい味」


そう言いながらもう一口。味を確かめるように、ゆっくりと。


レオンは特に反応せず、パンを割って口に運ぶ。


ルーミアもスプーンを取り、同じようにスープを口に運んだ。温度はちょうどよく、塩気もある。飲み込みやすく、身体に染みるような感覚もある。


もう一口、同じように飲む。


特に問題はない。食べにくさもないし、味が分からないわけでもない。ただ、それ以上の何かがなかった。


「どう?」


ノエルが軽く尋ねる。

ルーミアはスプーンを持ったまま、少しだけ考える。


「……普通かな」


ノエルは「そっか」と小さく笑っていた。


食事は静かに進む。誰かが大きな声を出すわけでもなく、音楽と食器の触れる音だけが空間を満たす。


ルーミアはパンをちぎり、もう一度スープを口に運ぶ。動作はいつもと変わらない。食べること自体に違和感はない。


けれど、満たされているという感覚も、特に浮かんではこなかった。


食事を終え、再び甲板に出ると、風は少し強くなっていた。それに伴い、船体の揺れも少しだけ大きくなる。


甲板を歩くと、足元の感覚が少しだけ遅れる。踏み出したあとに、遅れて重心が乗るような感覚だった。


ルーミアは一度足を止める。


揺れているのは船だ。波の影響を受けているだけで、特別なことではない。


もう一度歩き、確かめる。身体はちゃんと動くし、転ぶこともない。それでも、どこか噛み合っていない感覚が残る。


荷の手すりに手を置き、海を見下ろす。


広がっているのは、(はなだ)色の海。実家にいた頃、セライド=ノアから望む海の色は、とても綺麗で大好きだった。今その青が、より近くにあるが、当時のような感情は芽生えない。


「……きれいだね」


ノエルのそれは素直な声だった。風景をそのまま受け取っている響きがある。ルーミアはその言葉を聞いて、同じ方向を見る。


「……うん」


頷く。きれいだとは思う。景色として整っているし、不快な要素もない。ただ、それ以上の言葉が浮かばなかった。


レオンも遅れて近づき、三人は再び並ぶ形になる。


「順調だな。このまま行けば、予定通りリュフトに着く」


前方を見たまま、レオンが言う。


「そうね。早く陸に着きたいけど……。ルーミアは、リュフトに着いたら何か食べたいものある?」


ノエルが軽く笑う。


「なんでもいいかな。何があるか、まだわかんないし」


船は変わらず揺れている。風も、海も、さっきと同じ。


三人はしばらく無言で海を見ていたが、やがてノエルが軽く肩を回した。


「少し歩かない? ずっと立ってると変に疲れそう」


「好きにしろ」


レオンは短く答え、先に歩き出す。甲板の上をゆっくりと進み、積まれた木箱の間を抜けていく。


ルーミアとノエルもその後に続いた。


足元はしっかりしている。踏み外す心配もないが、一歩ごとの遅れが身体の奥に残る。踏み出した感覚と、実際に体重が乗る瞬間が、少しずつずれていく。


揺れのせいだと考えれば、それで説明はつく。ただ、その揺れが止まったとしても、この違和感が消えるのかは分からなかった。


 甲板の端で、船員がロープを締め直している。手際よく結び目を確認し、緩みを調整する動きに無駄はない。もう一人は樽の固定具を確かめ、軽く叩いて音を聞く。


「慣れてるね」


ノエルが小さく言う。


「仕事だからな」


レオンは一瞥するが、必要以上に観察しない。

ルーミアはその様子を少しだけ見てから、視線を外す。


三人はそのまま船の後方へ回る。風当たりが少し変わり、帆の影で木材の色が均一にくすんで見える。


「ねえ、リュフトについて詳しいの?」


ノエルが、歩きながら声をかける。レオンは頷き、答える。


「職人をやってる昔馴染みがいてな。何度か行ったことがあるだけだ。海路と陸路が交わる場所で、人は多い」


「職人までいるのね。ちょっと楽しみかも」


ノエルのその声には、少しだけ弾みがあった。

ルーミアは、その会話を聞きながら歩く。


「楽しみだね」


同じように返す。人が多く、賑やかで、新しいものがある場所なら、期待するのは自然だ。


ただ、その言葉に乗る感情の強さが、どれくらいなのかが分からない。


しばらく進んだところで、船体が少し大きく揺れた。波に乗り上げたような感覚で、足元が一瞬浮く。


ノエルが手すりに手をつく。


「……わ、ちょっと酔いそう」


「これくらいで騒ぐな」


レオンは姿勢を崩さないまま、揺れに合わせて自然に体重を移動させている。


ノエルは息を整えながら、少しだけ笑う。


「慣れるしかないね、これは」


「そのうち気にならなくなる」


レオンが答える。ルーミアは、その言葉を聞いて頷く。


「……うん」


気にならなくなる、という言葉は正しい気がした。


ノエルが、何気なく言う。


「こういう時間、久しぶりかもね。ただ移動を楽しんでる感じって」


「だな。たまにはいい」


レオンも同意する。


「……うん」


ルーミアも、少し遅れて頷く。


風が吹き抜け、帆が鳴り、船は進む。


 夕方に近づくにつれて、海の表情は変わり始めていた。波は穏やかなままだが、光の反射が鈍くなり、遠くの水平線が曖昧に溶けていく。


三人は再び甲板に戻っていた。人の数は減り、船員たちも必要な作業だけを残し、持ち場に散っている。積まれた木箱の影が長く伸び、帆の影と重なって、足元の境界がぼやけていた。


ノエルは手すりに両手をかけ、ゆっくりと息を吐く。


「少し冷えてきたね」


「海の上だからな」


レオンは、外套の裾を軽く整える。


ルーミアはその横で、同じように海を見ていた。風が冷たくなり、肌に当たる感覚も変わっている。ただ、その冷たさを防ぐための動作には繋がらない。


「夜になる前に、もう一度食堂行く?」


ノエルが振り返る。


「軽くでも食べておいたほうがいいでしょ」


「任せる」


レオンは即答する。


ルーミアも少しだけ考えてから頷いた。


「……うん」


三人はそのまま船内へと戻る。


食堂は昼間よりも人が増えていた。乗客たちが席に着き、静かな話し声が重なっている。音楽は同じ旋律を繰り返し、周囲の声に紛れている。


空いている席に座り、簡単な食事を頼む。


運ばれてきたのは、温め直したスープと、少し柔らかくなったパン、それに薄く切った肉だった。昼とほとんど変わらない内容だったが、匂いはわずかに強くなっている。


ノエルはパンをちぎりながら、軽く言う。


「船のごはんって、ずっと同じ感じなんだね」


「保存が利くものしか積まねえからな」


レオンは肉を口に運びながら答える。


「贅沢はできない」


「まあ、それでも十分だけど」


ノエルはそう言いつつ、ルーミアが食べている倍の量を頬張っていく。


ルーミアはスープに口をつける。温度も味も、昼と同じように整っている。だが、食べなくてもよかったかも、という気持ちだった。食べる必要があるから食べている、という感覚に近い。


ノエルがふとこちらを見る。


「食べられてる?」


「……うん」


事実としては問題ない。ノエルはそれを確認して、特に深く追及することはしなかった。食事は静かに終わる。


三人は再び甲板へ出る。


空模様は、瓶覗(かめのぞ)き色から東雲(しののめ)色へと移り変わり、光はさらに弱くなっていた。


その景色の中、ルーミアは、陸から見る具合とは違っていて綺麗だ、とは思う。でもただそれだけで、それ以上は、《《何も感じなくなっていた》》。


境界が曖昧なまま、ただ明るさだけが残っているようにしか映らない。感情の起伏、その凹凸が、静かに均されていくようだった。


(私、何も感じなくなってきているのかも)


それは静かで、安定していて、何も失われない時間。


(……まぁ、別に困らないか)


船は進む。波を切る音が一定の間隔で続いてくる。


シェルグラード辺りから、毎晩起きては水場に駆け込んでいた。今はその予感もない。魔法を使いたい衝動も治まり、依存するようなこともない。


ルーミアは落ち着いている。


(セライド=ノアで、実家の空気に触れたおかげなのかも)


夜が近づく。ルーミアはその暗がりを見つめ、ふと思う。


(……断層域、行かなきゃだめかな?)


モルガス街道で決めた、この旅の目的地。アウレリア断層域。


行く理由は、世界の褪色進行に触れることができる可能性と、魔法の代償を含め、何かが好転する可能性を探すため。


ーーだった。


ルーミアの中では今、代償の進行によって、その理由が希薄になりつつあった。


何かをしたいという欲。目標。


その欲が、今では何も湧いてこない。


そして、何も欲しくないのは、とても楽に思えた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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