第35.5話 抱きしめる手(幕間)
セライド=ノア。あの町は、静かだった。夜の街道に焚き火の音が混じる。乾いた薪が弾けるたび、火の粉が一瞬だけ空に舞い上がって、すぐに消える。
ノエルとレオンは、少し離れたところで眠っている。規則正しい寝息が微かに聞こえる。ルーミアは膝を抱えたまま、火を見つめていた。
あの家の匂いが、まだ残っている気がする。焼きたてのパンと、温かいスープと、干した布のやわらかな匂い。
最初に扉を開けたとき。母は、迷いなく抱きしめてきた。
ぎゅう、と。無邪気なほど、強く。
その瞬間――
反射的に、色糸を見てしまった。
悪い癖だと、自分でも思う。目に入ったものを、確かめずにはいられない。揺れていた。優しい色だった。温かい色だった。でも――
どこに結ばれているのか、分からなかった。
視線を上げると、母は笑っていた。
「大きくなったわねえ」
そう言って、頬を撫でてくれた。
その仕草は、昔と変わらないようで、少しだけ違っていた。
昔の母は、抱きしめるとき、包むようだった。
ーー息を合わせるように、そっと。
今は、まっすぐで、ためらいがなくて、明るすぎる。
でも、温かかった。
だから、何も言わなかった。
食卓も賑やかだった。母はよく笑い、よく話し、よく勧めた。視界の端で、色が揺れていて、見なければよかった、と毎回思う。でも見てしまう。
それでも、母は楽しそうだった。
ノエルに昔話を聞かせ、
レオンに勝手におかわりをよそい、
台所と食卓を何度も往復して。
その姿を見ながら、穏やかに楽しい時間を過ごした。
ちゃんと、楽しかった。この瞬間を壊したくなかった。
嘘ではない。
出発する朝。玄関先で、母はまた抱きしめた。今度も、強く。
「元気でね」
それだけだった。
「また来るね」
そう返すと、母は嬉しそうに頷いた。
「ええ」
それ以上の言葉はなかった。
振り返らずに歩き出したとき、胸の奥が少しだけ重くなった。ただ、何かを置いてきた感覚だけが残った。
焚き火が、ぱちりと弾ける。
ルーミアは、そっと自分の手を見下ろした。
目頭が熱い。あのとき抱きしめられた感触は、まだ残っている。温かくて、まっすぐで、少しだけ違う手。
色糸も優しかった。
ただ――
自分が覚えている結び目とは、
ほんの少しだけ、形が違っていた。
私に伸びる母からの薄い橙色の糸は、
家族への《《それ》》ではなかった。
私が七歳の時、色糸魔法は発現した。
母の褪色が、確認されたことをきっかけにーー。
ーー私の好きな色は、青色だよ。お母さん。
(ちゃんと昔は名前で呼んでくれてた)
ーーそのスープ褒めたの、たぶん私だなぁ。
(家を出る時は、必ず「いってらっしゃい」と「いってきます」だった)
ーー子どもなのに、静かで落ち着き過ぎてるって、心配してくれてたね。
(木登りできそうな木って、セライド=ノアにあったっけ?)
ーーそれでもちゃんと叱って、ちゃんと怒ってくれてた。
ルーミアは、目を閉じる。
夜風が、火の匂いを運んでくる。
明日も歩く。そう決めたはずなのに、胸の奥で、あの抱きしめる手だけが、何度も思い返されていた。
たとえ、私のことを忘れてても。
たとえ、違う誰かと勘違いしていても。
生きて、
笑って、
楽しく過ごしてくれている。
それだけでいい。
それだけでいいの。
この町で、胸がちくりとするたびに、
ーー寂しさに負けないように。
ーー母と笑って楽しく過ごせるように。
ーー仲間に心配をかけないように。
ルーミアは、笑った。
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