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第35話 ただいまと言えた日

 ベルカリアを離れ、大きな川沿いを進むと、そこは潮風の抜ける町だった。


白い石造りの家々が段々に並ぶ町、セライド=ノア。


坂道の途中からは遠くに海が見え、陽を受けた屋根瓦が眩く光っている。洗い立ての布が風に揺れ、遠くからは波の音がゆるやかに届く。


潮と、焼き立てのパンと、干した布の匂い。


「……懐かしい」


ここは、ルーミアの故郷だった。幼くして、色観に入るまでを過ごしていた生まれの町。偶然帰った故郷に、ルーミアは小さく呟いた。


レオンは何も言わず、通りの先を見ている。


「随分落ち着いた町。白と青が綺麗に残ってる」


ノエルが横で軽く伸びをする。


「うん。昔からこんな感じ」


言いながら、自然と足取りは軽くなる。


主要の大通りから角を曲がり、さらにもう一つ曲がった先に、小さな庭付きの家がある。


青く塗られた窓枠、白い壁。

扉の前には見慣れた鉢植え。

扉の塗装は、覚えがある頃に比べ、少し剥げている。


それでも形は変わっていない。ほんの一瞬だけ、立ち止まる。


「……ルーミア?」


ノエルの声に、はっとして笑う。


「ごめん。なんでもない」


ルーミアは、コン、と控えめにノックをした。中からパタパタと軽い足音がして、ガチャリ、という音とともに扉が開く。


「……あら?」


そこに立っていたのは、およそ十年ぶりに見る母の姿だった。明るく薄いピンク色のワンピースで、ルーミアと同じ、銀白色の髪が潮風に揺れる。


「ルーミア。もしかして、この人がお母さん?」


ノエルの声が、柔らかく背中を押す。


女性は、ぱちりと目を丸くする。


「……ルーミア?」


「うん。ただいま……って言っていいのかな」


久しぶりの再会。ルーミアの声は少し固かった。


すると次の瞬間、母は、ぱっと顔を綻ばせた。


「まあ! 大きくなって。帰ってきたのね!」


勢いよく駆け寄ってくる。


「わっ、待っ……」


言い終わる前に、ぎゅうっと抱きしめられた。


「ちょ、ちょっと。苦しいってば」



ルーミアは戸惑いを見せるが、一泊置いて、笑顔になった。



揺れる色糸が視界に入る。反射的に見てしまうのは、悪い癖なのかもしれない。


「来るなら先に連絡しなさいよ! びっくりするじゃない」


その声は、驚くほど明るい。

懐かしい母の匂い。思い起こされる過去の記憶。



ルーミアは微かに自身の服の裾を握りしめ、笑った。



「……驚かせたくて。それに帰れたのも偶然だし」


「もう、この子は」


ノエルが少し後ろで腕を組む。レオンは静かに一歩下がっていた。


「お友達?」


ノエルとレオンに母の視線がいく。


「はじめまして。ノエルです」

「レオンだ」


二人は小さく会釈をする。


「まあまあ! こんなしっかりした綺麗な方とイケメンな方と一緒だなんて!」


母は二人の手を取り、嬉しそうに何度も頷いた。


「さあ、立ち話もなんだし入って。ほら、あなたも」



ルーミアは少しだけ瞬きをしたが、すぐに笑って靴を脱ぐ。



「おじゃまします」


木の床。壁にかけられた古い布。窓辺の小さな花瓶。

家の中は、昔と変わらない匂いがした。


「ほら、座って。今スープ温めるから」


母は忙しそうに動き回る。その後ろ姿を見ながら、ルーミアは椅子に腰かけた。


「なんだか、落ち着かないね」


ノエルが小声で言う。


「元気だなあ」


ルーミアが呟く。


やがてテーブルいっぱいに料理が並ぶ。


「ちょっと張り切っちゃった」


「ちょっと?」

「ちょっとよ」


母は得意げに胸を張る。ルーミアは、スープを一口飲む。


「……おいしい」


自然に顔が綻ぶ。


「当たり前よ。褒められたこともあるんだから」


誇らしげな声。


「えー? だれに?」


「あらやだ、誰だったかしら。物忘れがひどくてやだわぁ」


母は楽しそうに首を傾げる。


「もう」



ルーミアは困ったような顔で、笑う。



スープを口に運ぶ。少し熱くて、喉にひっかかる。


「わっ、熱……ちょっとお水ある?」


「はいはい、もう慌てないの」


差し出された水を受け取り、飲み干す。


「……ふう」


「もう、相変わらず落ち着きがないのねえ」


「ひどいなあ」



ルーミアはまた笑った。



穏やかな時間。笑い声が重なる。母はノエルに質問し、レオンに質問し、楽しそうに相槌を打つ。


なんだか、今日はよく笑う。



 窓の外では、夕日がゆっくり傾いていた。


食卓を囲み、四人は他愛のない話をする。

旅の話、町の話、どうでもいい冗談。


母はよく笑い、よく話し、よく手を伸ばしてくる。

その手を、ルーミアは自然に受け止める。


「もう! 覚えてないなら、それでもいい」



ルーミアは笑わず、真剣な顔でそう言う。



夜が深まっても、母は満足そうに笑っていた。


 翌朝は、やけに明るかった。窓から差し込む光で目が覚める。


「……よく寝れた」


起き上がると、廊下から軽やかな鼻歌が聞こえてきた。


「おはよう」


台所に入ると、母が振り向く。


「まあ、早いのね」


「そんなことないよ」



そう言いながら、鏡に映った目が開いていない自分に、我に返る。



「先、顔洗ってくるね」


洗面所から戻ると、テーブルには既に朝食が並んでいる。焼きたてのパン、卵料理、温かいスープ。


「ほら、冷めちゃうわよ」


母はパンをちぎって皿にのせる。


「相変わらず世話焼きだね」


「誰のせいだと思ってるの」


母はくすっと笑い、ノエルが礼を言い、レオンが静かに手を合わせると、母は満足そうに頷いた。


「旅はどう? 危ないことしてない?」


「してないしてない。ね?」


とルーミアが二人に振ると、ノエルは目をあからさまに泳がせ、レオンは「概ね」と短く答える。


「概ねってなに、概ねって」


母が大げさに眉を上げ、三人で笑う。



パンに蜂蜜を垂らしながら、母は町の近況を話す。


坂の上の家が塗り直されたこと、

港に新しい船が入ったこと、

隣の奥さんがまた花を増やしたこと。


どれも小さな話題で、どれも確かにここで積み重ねてきた時間の匂いがした。


「あなたも少しは落ち着いたら?」


母が冗談めかして言う。


「落ち着いてるよ」


「そうかしら。昔からじっとしていられない子だったもの」


「えー? そんなことないって」



ルーミアは微笑む。



「あら、覚えてないの?」


母は楽しそうに首を傾げる。


「木登りして落ちて、泣きながら帰ってきたこともあったわよ」


「覚えてない!」



思わず声が大きくなり、すぐに笑いに変える。



「穏やかね」


ノエルが静かに言い、レオンは湯気の立つカップを見つめる。母は立ち上がり、食器を下げながら振り返る。


「また来なさいよ。今度はもっとゆっくり」


「うん、そうする」


自然に返すと、母は満足げに


「約束ね」


と指を立てた。その後、ルーミアは片付けを手伝う。


「いいのよ、お客さんなんだから」


と言いながらも、母は嬉しそうに布巾を渡してくる。



ルーミアはそれを、笑って受け取った。



並んで皿を拭く時間は、妙に穏やかだった。


ふと、母が近づいてきて、もう一度ぎゅっと抱きしめる。


「もっとゆっくりしていってもいいのよ?」


「そういうわけには……ほら、二人も気を使っちゃうからさ」


今日、また旅に戻る。母との温かい、最後の時間。


「元気でやりなさい」


その声は明るい。


「うん。お母さんもね」



ルーミアは笑い、母の背中を軽く叩いた。



玄関先まで見送られ、庭の鉢植えの横で手を振る。


「気をつけてね!」


「はーい!」


坂道を下りながら、三人は振り返る。母はまだ手を振っている。陽の光が白い壁に反射して、輪郭が少しだけ眩しい。


「いいお母さんだったね」

とノエル。


「うん」

とルーミアは答える。


「ああ」

とレオンも短く頷く。


潮風が頬を撫で、遠くで波が砕ける音がする。坂を下りきると、家は屋根の端だけになり、やがて見えなくなった。


「また来よう」


ルーミアは明るく言った。


「そうね」

ノエルが返す。


「海まで、穏やかだな」

レオンは空を見上げ、呟く。


「あ……言い忘れちゃってた」


ルーミアは、目尻に溜まる光を溢さないように呟いた。


「ただいま、お母さん。いってきます」


セイラド=ノアは、相変わらず静かに光っていた。

三人は街道へ向かい、次の町へ歩き出す。


背中に残るのは、潮の匂いと、温かいスープの味と、強く抱きしめる手の感触。


どれも確かで、どれもやさしいまま、旅路の朝に溶けていった。



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