第34話 衝動の代償
ベルカリアは、白い石畳の町だった。低い石壁が道を縁取り、淡い色の家々が柔らかな光を跳ね返している。
昼の日差しは強いはずなのに、壁に反射すると角が取れ、町全体をやわらかく包み込んだ。
乾いた風が通り抜けるたび、干した柑橘の皮の香りと、名も知らぬ白い花の甘さが混じり合う。
「……明るくていい匂い」
ルーミアの声に、ノエルは周囲を一瞥した。この町には、濃い褪色も、張り詰めた緊張もない。だが、人々の顔には薄らと疲れが乗っている。
大きな疲労ではない。ただ、積み重なった小さな摩耗。
市場の角で、若い男と年配の女性が言い合っていた。
「順番を守れって言ってるだけよ」
「急いでんだよ!」
怒鳴り合いではない。どちらも理がある。色糸は濁っているわけではない。ただ、互いの正しさで引っかかっている。
「……行くの? 大事じゃない」
ノエルが問う。
「うん」
それでも、ルーミアは立ち止まり、ひと呼吸置く。
(だからこそ、整えられる)
深刻すぎず、まだ壊れていない。
今なら代償もなくて済む。胸の奥が疼き出す。
「少しだけ」
男の肩に触れない距離で息をふっと吹き、小さく詠唱する。
「――色糸魔法」
詠唱に呼応し立ち上がった色糸の撚りを、少しずつ緩めていく。
色糸接触で“触りすぎない技術”を学んだことを活かしながら、整えていく。怒りを消さず、正しさも奪わない。ただ、要所の絡まりだけをほどく。
言い合いをしていた男が瞬きをした。
「……悪かった。急いでてさ」
女性も肩の力を抜く。
「私も、きつく言いすぎたわね」
それぞれの一言だけで、波は静まっていく。
「今の、魔法ですか?」
「ありがとう。助かりました」
二人が頭を下げる。
ルーミアの胸の奥に、温もりが灯る。確かな手応え。疲労感もなく、深く触れてもいない。その成功に、満たされていく。
「行こうか」
ノエルの声は抑えられていた。
ルーミアの石畳を踏む足が少し軽い。
(これなら、問題なく魔法を使える)
夕方、井戸のそばで少女が立ち尽くしていた。落ち着かない様子の少女は、封の切られた手紙を握りしめ、視線を落としている。色糸は薄い紫。不安と戸惑いが、まだ柔らかく揺れていた。
ルーミアはゆっくり歩を進め、少女の目の前に行くと、屈んで目線を少女に合わせた。
「どうしたの?」
「……お返事、どう書けばいいか分からなくて」
「そのお手紙、少しだけ見てもいい?」
「……うん」
ルーミアは、手紙を丁重に開く。それは、幼馴染の少年からの手紙だった。
ーー実は昔から。
その言葉が手紙を開いてすぐに、目に映る。つまり、恋の悩みだ。
(触れなくてもいい案件ではある……だけど応援してあげたい)
そう思った瞬間、指先が先に動いた。
「じゃあ、お返事が書きやすくなるように、おまじないかけてあげる」
「ほんと?」
少女は目を輝かせた。
「うん。じゃあ、目を瞑ってて」
「うん!」
少女が素直に目瞑ってくれたのを確認し、詠唱する。
「――色糸接触」
ルーミアは、少女の色糸の撚りを一つだけ優しく撫でた。手紙の答えは、おそらくもうこの少女の中にある。その答えに辿り着くための勇気、その一歩を踏み出すためのきっかけになるように、そっと背中を押すように撫でた。
魔法を終えると、少女の瞳がゆっくりと開き、また目を純白な光で輝かせた。
「……書ける気がする。ありがとう、お姉ちゃん!」
小さな笑みを浮かべ、去っていく背中は軽い。胸がまた温かくなる。
「使いすぎないで」
ノエルが言う。
「大丈夫だよ。なんだか調子がいいみたい」
日が傾き、白い壁が橙に染まる頃、ルーミアは一瞬だけ足を止めた。視界が前触れもなく揺れ、耳鳴りがかすめる。
「……?」
それは、本当に一瞬の出来事で、すぐに何事もなかったかのように消えていった。
(気のせいかな)
深刻な疲労感が残っているわけでもなく、その後のふらつきもない。
満たされたはずの場所に、薄い違和感が断片として残った。
夜のベルカリアは、月光を受けて青く沈んでいた。干された柑橘の皮の匂いが、昼よりも濃い。
「今日はここまでね」
ノエルが言う。
「うん」
本当に、大きくは削れていない。今までにないくらい、テンポ良く魔法が使えている。これは嬉しい変化だ。そう思いながら、ルーミアは布団に横になった。
宿の明かりがすべて落ち、皆が寝静まった頃、それは始まった。隣の寝息が安定するのを待ち、静かに起き上がる。音を立てないように慎重に廊下を抜け、裏口へ。冷えた石畳に足が触れた、その瞬間。
胃の奥がひっくり返った。
「……っ」
次々に込み上げるものを、また抑えきれず、今日口にしたものが暴れ、吐瀉物として白い石の上に落ちていく。口に苦味が広がり、喉が焼け、その苦しさで目に涙が溜まる。
(削れてない。これはきっと魔法の影響じゃないはず)
葛藤するルーミアの呼吸は浅く、胸も焼けるように熱かった。
口から何も出なくなってから、井戸水で口をすすぎ、水面に映る自分を見る。ひどく青白い顔。昼間の心地よさと軽快さが嘘のように、くたびれた顔だった。
胸の奥で言葉が浮かぶ。
(代償じゃなかったら、これは何?)
その疑問の答えは出ない。ただ、食べたものが良くなかっただけなのか、魔法の代償なのか、それとも別の要因なのか、判断するには、材料が少なすぎた。
また、別の疑問が浮かんでくる。
――どうして、あんなに衝動に任せるように編んだ? ……もしかしたら私は、救えた瞬間に、酔っているだけなんじゃ……
今の現状を生み出したのが、代償なのかはわからない。だが、編む度に少なくとも、どこか満たされたような気分になっていたことについては、これで辻褄が合ってしまう。
「違う……」
否定する。今は気が滅入っていて、駄目な考えになっているだけ。そう自身に言い聞かせた。けれど、あの瞬間、確かに満たされていたことも否定はできない。
魔法を使い、少女が笑ったとき。男が落ち着きを取り戻したとき。
自分が楽になったのをルーミアは感じていた。
そう思うと、次はまた別の要因で吐き気が込み上げてきた。
(……嫌だ。気持ち悪い)
自分に酔う。そんなことができるような人間じゃない。
たまたま授かった魔法が、たまたま世界に通ずる魔法だっただけ。目に見えて、人に役に立ちやすい魔法だっただけ。思い上がりだ。
そもそも、救いたい気持ちに感化され、この魔法が発現したときですら、誰も救えなかった。周りの人も、大切な人でさえも。
ルーミアは必死に自身に言い聞かせる。
けれど、浮かんだ問いは消えてはくれなかった。
ーー私は今、救うことで自分自身を支えているのではないか。
元々、自己救済である自覚はあった。しかし、依存してしまうのは違う。ルーミアはその晩、白色だった地面の上で、顔を上げることができなかった。
空がわずかに白み始める頃、ようやく吐き気は引いた。ゆっくりと部屋に戻り、ノエルとレオンが寝静まったままなのを確認し、横になる。
眠れない。喉の痛みとともに、疑問だけが残った。
朝のベルカリアは、昨日と変わらず明るかった。白い壁は陽を返し、干された柑橘の皮が軒先で揺れている。市場には穏やかなざわめきが満ち、深刻な影はどこにもない。
そう思っていた矢先、広場の端で老人がよろめいた。
「おい、大丈夫か」
「水を持ってこい」
周囲が慌てる。倒れたのは貧血だろう。
大きく命に関わる様子はない。
放っておいても、誰かが支える。
そう分かる程度の揺らぎだった。
それでも、ルーミアの胸は跳ねた。
(確かめたい)
昨夜の疑問が、まだ喉に引っかかっている。
ーー救えた瞬間に、酔っているのではないか。
それが違うと証明できるなら、また触れればいい。指先が、自然に持ち上がった。
「――色糸接触」
軽く撚りを整える。何事もなく魔法は作用し、老人の呼吸が落ち着いていく。
「……ああ、すまん」
安堵の笑み。その瞬間、胸の奥がまた温かく満たされる。同時に、胃の奥が冷たくなる。
(あぁ。やっぱり)
救えたことが嬉しい。力になれて嬉しい。その事実が、怖くなる。
「……何か試してる?」
ノエルの声は小さいが、鋭かった。
「何も」
ルーミアは笑ってみせる。顔は平静を保てる。けれど内側では、温度と寒気が同時にせり上がっていた。
昼過ぎ、倉庫の陰で少女が過呼吸を起こしかけていた。軽い衝突と軽い失敗。周囲が気づけば、落ち着く程度。
ルーミアはまた触れてしまう。
若者が拳を振り上げかけたときも、撚りをずらす。周囲が割って入り、事は収まる。
どれも深刻ではない。
どれも放っておいても、大事にはならなかった。
ルーミアは三度、触れた。
夕暮れ、宿の食堂でレオンがぽつりと言った。
「今日は三回だな」
パンを裂く手が止まる。
「なにが?」
「使いすぎてないか?」
皮肉はない。ただの確認。
通りの老人。倉庫の少女。荷車の若者。いずれも事案としては軽かった。代償を伴う魔法を使う頻度としては多い。
「放っておいても、十分他に解決策はあった」
ノエルが静かに続ける。
「……分かってるよ」
本当に分かっている。分かっているのに、手が自然に動いてしまう。
また吐き気が来ることは、裏口へ出る前、むしろ宿に戻る前から予感していた。そのためにルーミアは、予め水を多く飲んでおく。食べ物も、喉を通る限り胃に入れて備えた。
夜、また畳にしゃがみ込み、喉の奥からこみ上げるものを吐き出す。
結局水だけでは済まなかった。酸味が強く、喉が裂けるように痛み、涙が滲む。
(削れてない)
今日、重い糸は編んでいない。代償ならば軽いはずだ。それなのに身体が拒絶している。
井戸水に映る自分の目は、焦点が曖昧だ。
――救えた瞬間に、酔っているのでは?
否定するほど、その輪郭が形を帯びてくる。
救うことで自分を保っている。いずれ訪れるかもしれない心の空白が怖い。魔法を使っていないと、不安になる。触れなければ、不安になる。
だから、確かめるように触れてしまう。
整え、満たされ、そして吐く。その連鎖が続く。
「……やめたい」
小さく口から漏れ出る。ルーミアは、ほんの少しだけ色糸魔法が使えない場合の自分を想像した。生活をするために仕事をしていく毎日。何事もない日常。
けれど、無理に魔法を使わない生活を選択した未来は、一度ヴァイスの町で見たはずだ。何もできない自分を、直視できないことはわかっている。
吐き気とともに頭痛がする。こめかみが、とくん、とくん、と波打つ。
自問自答を繰り返し、思考を巡らせていたことで、背後で足音が鳴るまで気づかなかった。
「……どうした」
ずっしりとした男の声、レオンだった。ルーミアは反射的に背を向ける。
「水、飲みに」
焼けた喉から出る音は、ひどく掠れていた。石畳に残る痕を、レオンは見て一瞬眉間にシワが寄る。だが、追及しなかった。短い沈黙のあと、彼が言った。
「明日、道を変える」
「……なんで」
「海路へ回る。昼間仕入れた情報だ。断層域が目的地なら少し遠くなるが、陸路だと紛争地帯を通らなければならない可能性が出てきた。それなら、海路の方が安全だろう」
昼間、ルーミアはそんな情報は聞いていない。情報収集にまで意識はしていなかった。単純に聞き逃しの可能性もある。
だが、これはおそらく嘘だ。止めるため、休息をとるための優しい嘘。
胸の奥が締めつけられる。どこか安心と悔しさが同時に滲む。
私は、止められたかったのか。
それとも、止められない自分でいたいのか。
答えは出ない。ただ、身体が限界を告げているのは確かだ。
翌朝、ベルカリアを発つ。白い壁が遠ざかり、柑橘の香りが薄れていく。振り返らないまま、胸の奥では、次に触れられる色を探している自分がいる。
それを自覚していることが、何よりも恐ろしかった。
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