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第33話 依存と衝動

 段塔街シェルグラードは、上へと伸びる町だった。


急斜面に沿って白灰色の石造りの家々が積み重なり、細い石階段が幾重にも折れ曲がっている。


中心部には、生活用水や飲水としても使われる水源から、どの層にも行き渡るように円筒状に伸びた井戸がある。


下層は交易と宿場の喧騒。

中層は職人と家族の生活音。

最上段には古い鐘楼と祈祷堂。


見上げれば、必ず“上”がある。そして、この町に流れているのは――上へ行け、という無言の圧力だった。


「……落ち着かない町ね」

階段を上りながら、ノエルが呟く。


「みんな、同じ方向を見てる」


確かに、誰もが常に少しだけ焦っているようだった。商人はより上の区画へ店を移したがり、若い職人は上層の工房に雇われることを夢見る。


色糸も、それを映していた。細く張り詰めた焦燥。置いていかれる恐怖。嫉妬と競争心。


(……多い)


一つ一つは小さい。けれど、常に擦れている。


「今日は休むわよ」

ノエルがきっぱりと言う。

「昨日までに十分動いた。高低差のある町を動き回るのは思った以上に消耗するからね」


「賛成だな」

レオンも珍しく即答する。

「階段で足取られて滑り転げるのは御免だ」


「……うん」

ルーミアは素直に頷いた。


胸の鼓動も落ち着いている。視界も澄んでいる。だからこそ、今動きたい衝動に駆られる。


町の雰囲気に流されているのかもしれない。そのことはルーミアも理解していた。それでもどこか落ち着かない気持ちは拭えなかった。


石段の途中、口論が起きる。荷を抱えた少年が、上層から下りてきた男に肩をぶつけられたらしい。


「前見て歩けよ!」


怒鳴り声は鋭くなく、ただ苛立っているだけ。周囲もすぐに止めに入るだろう。


ノエルは一瞥するだけで、足を止めなかった。


「放っておけば収まるわ」


判断は正しい。ルーミアも、同じように視線を逸らす。


(……そうだよね)


大事じゃない。


でも結果的には、少年の色糸が、ほんの少しだけ歪んでいる。自分を責める灰と、悔しさの紫が細く絡まる。


(整えてあげたい)


指先が、じわりと熱を帯びた。


「ちょっと、飲水がないか見てくる」


ルーミアは階段の踊り場を指さす。


「たしか上に井戸があった」


ノエルは足を止めたが、疑わなかった。


「遠くには行かないでよ」

「うん」


レオンの視線が一瞬だけ鋭くなる。それでも、何も言わない。


ルーミアは二人と距離を取り、石階段を半階層分だけ上がる。踊り場の陰は風が強く、人目も少ない。


下ではまだ言い合いが続いているが、姿は見えない。


(……この辺りなら)


小さく息を吸う。


「……色糸接触(フィロ・ヴェイル)


少年と男の糸に触れ、撚りをずらす。少年の肩が安堵で落ち、男の声が平静で弱まる。そして周囲の大人が入り込み、自然に収束していった。


(……できた)


胸の奥が、ふっと軽くなる。ルーミアは自身に変化がないか確かめたが、今回は深くは触れていないし、削れてもいない。それでいて、どこか温かかった。


ルーミアはすぐに井戸の水で少しだけ手を濡らし、階段を下りて、二人の横に戻る。


「水、あった?」

ノエルが何気なく問う。


「うん。冷たかった」

自然に答える。嘘ではない。触れただけだ。ほんの少し。


石段をさらに上がると、今度は中層の工房前で若い職人が道具を蹴飛ばしていた。


「また下層の不始末だ! これじゃいつまで経っても上に行けねえ!」


周囲の視線が集まり、焦燥が膨らむ。ノエルが歩みを止めかける。


「……どうする?」

「様子見かな」


ルーミアは即座に言った。そして、ほんの半歩、階段の脇へずれる。二人の視界の外。壁際に背を向ける。


「……色糸接触(フィロ・ヴェイル)


軽く。ほんの軽く。撚りを整える。職人の呼吸が整い、拳が緩む。


「……悪い。カッとなっちまった」


小さく呟く。別の大人が肩を叩き、場が収まる。


(……また)


胸の奥が温かくなる。今度は、少しだけ強い。


救えた。そして、なぜだか身体が少し、楽になった。


今までなら、色糸魔法を使えば使うほど、代償としての疲労感や感覚の鈍りがあった。だが、今は寧ろ、どこか心地良さすら感じる。


依存じゃない。必要なことをしてるだけ。でも、もう一度この感覚を確かめたくなる自分がいる。


「収まったわね。行こうか」


ノエルが言う。


ルーミアは頷き、歩き出す。足取りは乱れていない。けれど胸の奥で、別の声が囁く。


(今なら、まだ削れてない。編めるうちに)


その焦りは、まだ小さい。だが確実に、芽を出していた。


 段塔街シェルグラードの夕刻は、石段の影を長く引き延ばす。上層へ続く階段は橙に染まり、人々は尚、忙しなく行き交っている。自律的に成功を目指す町は、日が傾いても落ち着かない。


「今日はここまでにしましょう」


ノエルが振り返らずに言った。


「これ以上うろつくと、余計なことに巻き込まれそう」


「賛成だな」


レオンも短く同意する。ルーミアもそれを聞き、頷いた。


「うん」


声は自然だ。足取りも安定している。


昼から数えて、三回。どれも深刻ではない。触れただけ。撚りをずらしただけ。でも削れていない。代償も感じていない。


(気の所為じゃない)


自分にそう言い聞かせる。石段を上る途中、視界の端が一瞬だけ白く揺れた。


「……?」


立ち止まるほどではない。段差を踏み外すほどでもない。


「どうした」


レオンが振り向く。


「ちょっと目に光が入っただけ」


すぐに答える。嘘ではない。けれど、温かさが消えたあとに残る、妙な渇きがあった。


(……もう一回、確認しなきゃ)


その衝動が、静かに浮かび上がる。石段の下で、若い男と年配の商人が口論を始めた。


「返せって言ってるだろ!」

「順番だと言っている!」


これもきっと大事にはならない。周囲が止めるだろう。


ノエルが様子を見るために視線を向けたその隙に、ルーミアは階段の陰へ、滑り隠れた。


二人の背中は、こちらを見ていない。


(……今日はこれで最後)


確かめるだけ。ただ必要なことをしているだけだと、証明するために。


「……色糸接触(フィロ・ヴェイル)


詠唱と同様、囁くように糸に触れる。男の怒りが鈍り、商人の声が下がる。周囲が割り込み、また収束する。


(……いい感じだ)


その瞬間、胸の奥が温かくなる。安堵と達成感。そして安心感がある。


(……やっぱり)


救えた瞬間に、ルーミア自身も少しだけ救われている。そんな気分だった。


「ルーミア?」


ノエルの声が近くなり、慌てて振り向く。


「なに?」


「今、何かした?」


鋭い。けれど、確信を持って責める声ではない。


「してないよ、何も」


即答する。鼓動は速いが、乱れてはいない。


レオンがじっと見ている。


「顔色、微妙だぞ」


「階段多いから疲れたのかも」


ルーミアは軽く笑う。


二人は完全には納得していない。それでも、これ以上は追及しない。止める理由が、まだ表に出ていないからだ。



 宿へ戻る途中、また小さな揉め事が起きる。兄弟らしき二人が、上層の空き部屋を巡って言い争っている。


(放っておける)


そう判断する。そう判断して、足を止めない。でも。視界の端で色糸が揺れる。焦燥感、劣等感、恐怖感。


(触れば、静まる)


胸の奥が、じわりと疼く。

今はやめるべきだと分かっている。

分かっているのに、確かめたくなる。


階段の角を曲がる瞬間、二人の背中が死角になる。そのほんの数秒。


「……色糸接触(フィロ・ヴェイル)


ルーミアは流れるように指先で撚りをずらしていた。兄弟の声が弱まり、周囲が割って入る。すぐに足を戻す。


「何か言った?」

ノエルが振り向く。


「何も」


平然と返す。胸が強く脈打つ。今度は、はっきり分かった。


――私、止まれなかった。


止められていないからではない。

止められても、たぶん、同じことをした。


(……やめられない?)


その疑問が、静かに形を持つようになる。


宿の前。石段の下で、また小さな口論が始まる。今度こそ、振り向かない。振り向かないのに、指先が震える。触れたい。整えたい。温かさを、もう一度。


「行くわよ」


ノエルが扉を押す。


「うん」


ルーミアは振り向かないまま、宿へ入った。


でも胸の奥では、次に触れられる色を、すでに探している。おそらく完全に止められなくなったわけではない。まだ、誰も止めていない。ただ――止められても、きっと私は止まらない。


その確信だけが、静かに芽を伸ばしていた。

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