第29話 止める嘘と止められる人
ここ、モルガス街道は、山間を縫うように延びる昔からの交易路だった。古くからよく雨が降る雨天領域で、剥き出しになった岩肌の斜面を削ったように道が通り、雨が降るたびに水が流れ込む。
今日の空は重く、細い雨が絶え間なく落ちていた。岩肌を伝う水が、街道をぬかるませる。豪雨でもなく霧雨でもないその雨は、ゆっくりと体温を奪っていく。
「……こういう降り方は、ちょっとね」
ノエルが言う。止まない雨と仄暗さが、陰鬱な気持ちを想起させてくる。
「うん、好きじゃない」
ルーミアは短く答えた。
雨粒に打たれ、色が滲み、感情の糸が散りやすい。怒りも不安も、定着せず濁っていた。
前方から聞こえるのは怒号ではなく、擦れ合う声。道が開けた先で、荷車が斜めに倒れ、十数人が揉み合っていた。商人と農民。濡れた荷が地面に散らばった。
「値を下げろ!」
「無理だ!」
「嘘つけ!」
押し合いが激しくなる。足場は悪く、誰かが転び、別の誰かが踏みつける。
「止める」
ノエルが前に出る。だが人数が多い。間に入っても、横から押される。
「どけ!」
一人が刃物に手をかける。
(すぐに、迅速に)
今回は迷わない。
「……色糸接触」
声は小さめに、最も荒れている怒りの糸に触れる。ほんの少しだけ震えが鈍る。
「……っ」
刃物に手をかけた男の動きが、わずかに遅れた。ノエルがその隙を逃さない。
「やめなさい!」
肩を押し戻し、群衆がよろめく。それでもルーミアは続ける。恐怖に膨らむ糸を撫で、混線し始めた集団の糸を、ほんの一拍弾く。足は止まったが、完全な沈静ではない。でも、衝突している勢いは落ちた。
ノエルは視線だけで確認する。群衆が引き始めた頃、ルーミアの呼吸が、ほんのわずかに乱れたことも見逃さなかった。
「……」
胸の奥が、空になる。雨音が遠くなり、視界が白む。
「ルーミア、大丈夫?」
「……うん」
返答が、半拍遅れる。それを、ノエルは少しの違和感として感じ取る。群衆は解散していく。完全な解決ではないが、血は流れていない。
ノエルは小声で言う。
「また消耗してる」
問いではない。ルーミアは否定しない。
「少しだけ」
嘘でも正確でもないが、言葉を曖昧にする。糸に触れるだけだとしても、何かは削れる。
雨の中、二人は再び歩き出す。ぬかるんだ道に濁った色、そしてこの先に、もっと重い衝突が待っている気配。守れる距離は縮まった。だが、消耗は確かにある。
雨は、止まない。先程の揉み合いから離れ、二人はぬかるんだ道を進んでいた。
「……呼吸、浅いわよ」
ノエルが言う。
「平気」
しかし声は少し乾いていた。
色糸接触は編まない。それでも触れるたび、指先から感情が擦り減る感覚がある。
色糸魔法の代償の軽減を見越して生み出した。だが、あくまで軽減でしかなく、無くなることはなかった。
前方の奥、そこに人影が見えた。最初はただの旅人に見え、気にしていなかった。ただ近づくにつれ、違和感がはっきりする。立ち止まったまま、動かない。荷も持っていなくて傘も差さず、雨に打たれ続けている。
「……様子がおかしい」
ノエルが歩幅を落とす。男は中年ほど。衣服はまともだが、目の焦点が合っていない。
「大丈夫ですか?」
ルーミアが声をかけるが反応がない。目だけがゆっくり動く。その視界に映る色糸は、ほとんどない。
(薄い……)
怒り、悲しみ、恐怖まで。どれも削れて細い灰色だけが揺れている。
「……定着不能者か?」
ノエルが低く言う。
(……なんでここに。もしかして……断層域が近いのか?)
男の唇がわずかに動く。
「……落ちていく」
「何が?」
「……色」
掠れた声。
次の瞬間、男は突然走り出した。向かう先は崖側。
「待ちなさい!」
ノエルが追う。ぬかるみで足を取られる。
男の動きは速くない。だが、ネジが外れたかのように死への恐れがない。まっすぐ崖縁へ向かっている。
(まずい。これじゃ、間に合わない)
ルーミアは、走りながら視界を開く。糸は、ほとんどなく、掴めるほども残っていない。
「……色糸接触」
男の胸元のかすかな残滓に触れ、揺らした。ほんのわずか、恐怖の色が浮かぶ。足が止まったが……今までより効果が薄い。
ノエルが体当たりするように抱き留めた。三人が泥に倒れ込む。
雨が強くなった。男は暴れず、ただ虚ろな目で空を見ていた。
「……戻って」
ノエルが叫ぶ。それにようやく男の唇が反応し、震え出した。
「……怖い」
やっとの言葉。ようやく人らしい恐怖の言葉。それは小さく残っていた色から生まれた感情だった。ルーミアは、ほっと息を吐く。しかし同時に、胸の奥がすうっと冷え、視界の端が、また白んでいく。
「……っ」
膝が揺れる。ノエルが反射的に支える。
「ルーミア」
声が近い。
「今日、何回触れた?」
問いではない。確認。
「咄嗟なのが多くて……三回」
「多いよ」
ノエルは即断する。
「今日は、これ以上使わない」
「でも」
「だめ。使わない」
雨音が二人を包む。男は静かに座り込んでいる。完全には戻っていない。だが、崖へ向かう衝動は消えている。
ノエルが呟く。
「これ、断層域が近い可能性がある」
ルーミアは頷く。
「私も……その可能性は考えた」
(被害は、すごい……でも)
(編めば……戻せるかもしれない)
「……ノエル。私、少し遅くなってる」
今の自身現状を飲み込み、正直に伝える。判断ではなく反応が。糸に触れるたび、思考の立ち上がりが鈍っていく。
「このままだと、守れる距離まで足りなくなっちゃう」
雨が強まる。崖下から崩れる音がした。小さな地鳴り。ノエルが顔を上げる。
「……また来るわ」
男を安全な道へ送り出し、二人は再び歩き出す。
雨が落ち、色の薄い風景の中でルーミアは気づいている。色糸接触は便利だ。でも、少しずつだけど削れてる。
雨は止まず、弱まるどころか、さらに粒を太くした。街道はぬかるみ、足を取られる。崖下から響いていた地鳴りは、やがてはっきりとした振動へ変わっていった。
「……揺れてる」
ルーミアが呟く。
足裏に断続的な震え。地面の奥で、何かが軋んでいる。
前方は、緩やかに下り坂になっている。その先に、小さな集落が見えた。数軒の石造りの家と、崩れかけた納屋。交易路の中継地点だったのだろう。
だが、様子がおかしい。叫び声に怒号、泣き声で戦々恐々としている。
「……多いわね」
ノエルが低く言う。
集落の中央で、数人が揉み合っている。荷を奪おうとする者、止めようとする者、ただ立ち尽くす者。雨が感情を洗い流すどころか、逆に荒立てている。
ルーミアはほぼ反射的に視界を開いた。色糸はある。だが、予想した通り、他の町や集落と比べて、定着していない。薄く、浮き、散りやすい。
(やっぱりこれは……断層域近隣みたいな傾向……)
「水をよこせ!」
「うちはもう残ってない!」
「嘘だ!」
争いは連鎖している。一人の怒りが、別の不安を刺激し、さらに別の恐怖へ広がる。
「ノエル」
「ええ、分かってる」
この規模では、物理的に止めるのは不可能だ。双剣で割って入っても、別方向で火種が生まれる。一人の男が、石を持ち上げ、別の男の頭へ振り下ろそうとしていた。
「……!」
ノエルが駆ける。だが距離がある。ルーミアも一歩遅れて踏み出す。
通常詠唱なら止められる。でも――。
編んだ糸が弱くて散っている。きっと中途半端な結果で、見合わない代償だけが残ってしまう。ルーミアは必死に手を伸ばした。
「……色糸接触〈フィロ・ヴェイル〉」
石を振り上げた男の怒りの糸へ触れ、弾く。怒号が一瞬弱まり、腕が止まる。
「何だ……?」
男が目を瞬かせる。ノエルがその隙に滑り込み、石を奪い、地面へ叩き落とした。
「落ち着きなさい!」
強い声で制止する。しかし別の場所で、連鎖的にまた衝突が起きていく。ルーミアは視線を走らせ、群衆の中央、複数の糸が絡み合っている部分に注目した。
(……絡めて、一気に)
一瞬だけ、まとめて揺らす。
「ーー色糸接触」
複数の感情へ触れていく。一つ一つより重たいが、断然早い。足が止まり、怒号が途切れ、沈黙が生まれる。その間に、ノエルが声を張り上げた。
「水は分配する!順番を決めろ!」
混乱が、少しずつ整ってきた。だが――。
「……っ」
ルーミアの視界が揺れた。色が抜け、音が遠のく。胸の奥が空洞になる感覚。
(多い……)
触れすぎた。指先が冷たくなり、膝が沈む。それに気づいたノエルが振り向く。
「ルーミア!」
「……平気だよ」
即答しようとしたが、それすら半拍遅れる。それを、ノエルは見逃さない。
「もう休んで」
「でも」
「休みなさい!」
地鳴りが、はっきりと響いた。集落の外れで、地面に細い亀裂が走り、雨水が吸い込まれていく。そこでは目に見えて色が消えていっていた。非情な景色に、ルーミアは息を呑む。
争いは一旦落ち着かせることができたが、根本は消えていない。感情は削れ、薄まり、また摩耗していく。
この世界に褪色する現象がある限り、その場だけの色糸接触だけでは、止め続けられない。
「ここから先は、危険よ」
「……分かってる」
ノエルの目は真剣だ。
「推測でしかないけど、おそらく、断層が本格的に動いてる」
ルーミアは、遠くを見る。灰色の空の下に霞む地平。そのさらに遥か向こうにあると言われている場所。
「アウレリア断層域。世界で最初に、色が崩れた場所。」
ノエルは問う。
「……行くの?」
ルーミアは、ほんの一瞬だけ迷う。
色観からも聞かされたことがある。
この世界の褪色が始まった場所。
どういう訳か、調査隊の目撃箇所が疎らであり、不確定区域として認定され、地図として記せない。
報告にあった各地点を結び、存在すると推測されている大まかな領域の呼称。
ゆえに断層《《域》》。
身体は重く、判断は遅い。触れるたびに削れている。際限なく削られるのであれば、根元を経つしかない。
アウレリア断層域。
もしかしたらそこに、褪せていく世界に干渉できる手がかりがあるかもしれない。何かが好転するかもしれない。
「……行く」
危険区域で、賭けでしかないことはルーミアもわかっていた。それでも、希望を乗せる価値がそこにあると信じて。
ノエルは、短く息を吐いて応える。
「……じゃあ、道を変えて次の町から人を探さなきゃね」
「仲間を増やす、ってこと? 条件と理由は」
「まずは戦えること」
「……うん」
「それと」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「あなたを“止められる”人。それは多い方がいい。せめて私以外にもう一人」
ルーミアは、少し驚いた顔をした。
「止められるなら、私はノエルがいい……他にそんな人、いるのかな」
「いるわよ。世の中、案外広いもの」
「……そっか」
ルーミアは、前を向いた。
「なら、探そう」
その言葉には、迷いがなかった。
集落を後にし、二人は雨の中を進む。
背後で、人々の声が小さくなっていく。
触れるたびに分かる。一瞬の色糸魔法でさえ、代償は積み上がっている。
その中で二人は、この旅の最終目的地を決めた。
世界に挑む、覚悟と共に。
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