第30話 酒場にて名も知らぬ誰か
辿り着いた町は、北方の街道沿いの小さな交易町だった。名をローディアという。
街道と街道が交わる場所にあり、荷馬車と旅人が必ず一度は立ち寄る。昼間は倉庫と市場が賑わい、夜になると酒場の灯りだけがやけに目立つ町だった。
「……人、多いね」
ルーミアがそう言うと、ノエルは周囲を見渡してから頷く。
「流れの町。長居する人は少ないけど、情報は集まりやすいの」
それは、今の二人にとってちょうどいい場所だった。宿に荷を預けたあと、二人は酒場へ向かった。目的は食事、それだけのはずだった。
酒場<ブラッド・ホーン>は、外観からして騒がしかった。扉を開けた瞬間、熱と酒の匂いと、混じり合った声が押し寄せる。
「……うわ」
ルーミアが思わず声を漏らす。
「別の場所にする?」
ノエルが言うが、ルーミアは首を振った。
「ううん。大丈夫」
それは強がりではなかった。
この町の空気を、ちゃんと見ておきたかった。
二人は奥の空いた卓に腰を下ろす。
給仕に簡単な料理を頼み、ノエルは自然と周囲に目を配る。
ノエルは眉をひそめる。
酒場の中央、少し離れた席に、一人で飲んでいる男がいた。
輝くような金髪で背は高く、体格はがっしりしている。
服装は旅人だが、くたびれている。
武器は、男の腰の影に、短く重い刃の気配がある。
「ノエル?」
ルーミアが小さく声をかける。
「……あの人」
ルーミアも気づいていた。色糸が見えている。派手ではなく、強くもない。けれど、異様に重厚感がある。後悔、諦め、自己嫌悪。それらが絡まり合い、ほどける気配のない色糸は、周囲の人に比べ異彩を放っている。
「……ずっと飲んでる」
「みたいだね」
ノエルは視線を逸らし、表情を崩さない。
「関わらずにいきましょ」
警戒のための判断だった。
料理が運ばれ、二人は食事を始める。酒場は相変わらず騒がしく、誰もが自分の話に夢中だ。それでも、ルーミアの視線は何度も、あの男へ戻ってしまう。
(……あの色糸)
編めば、どうなるだろう。
「……ルーミア。今日は、せめて観察だけ」
「……うん」
その返事は、少し遅かった。
男は誰とも話さない。酒を飲み、杯を置き、また酒を注ぐ。その姿が妙に、戦場の後に取り残された人間のように見えた。
「……ねえ、ノエル」
「なに?」
「もし……」
言いかけて、ルーミアは言葉を止める。
「……やっぱり、いい」
ノエルはその言葉に思考を巡らせたが、結局は何も言わなかった。
酒場の喧騒の中で、二人は同時に、同じことを考え始めていた。
ーーこの旅の目的地を、アウレリア断層域にするのであれば、たぶん二人だけでは、足りない。
二人とも、直接その危険区域に足を踏み入れたことはない。しかし、知っている情報だけでも警戒するには十分な噂があることは知っていた。
色観の団体調査員たちが、全員断層に飲み込まれ帰ってこなかった。
ほかにも、帰ってきたものの全員褪色進行が早まっていた。
こういった、リスクのある話しか聞いたことがない。
これから向かおうとしている場所は、そういった場所だった。
酒場<ブラッド・ホーン>の喧騒は、時間が経つほど熱を帯びていった。酔いが回り、声が大きくなり、冗談と怒号の境目が曖昧になる。
ルーミアは、箸を置いたまま周囲を見ていた。理由は分からない。ただ、胸の奥がざわついてきた。その直後だった。
「おい、今ぶつかっただろ!」
怒鳴り声が酒場の中央から上がる。客の一人が、別の男の肩にぶつかったらしい。どちらも酒が入っている。
「謝れよ!」
「は? お前が──」
言葉が荒れ、周囲が一瞬静まる。ノエルはすぐに立ち上がった。剣に手をかけるほどではないが、介入する気配ははっきりしている。
「ちょっと。ここでやる話じゃないでしょ」
二人の男がノエルを見る。酔っていても、彼女が面倒な相手だということは分かるらしい。
「……なんだ、女が」
「関係ないだろ」
ノエルは一歩前に出る。
「関係あるわ。酒場を壊されたら困るもの」
その間にも、ルーミアは見ていた。色糸が急激に絡まっているのが見えた。
一瞬、ほんの少しだけ、不安の色糸に触れてみたが、やはりそれでは緩めるには至らなかった。でもノエルが前にいる。止めてくれると、どこかで思っている。
その時。酒場の奥から、芯が通るような男の声が響いた。
「……やめとけ」
さっきの男だ。あの、一人で飲んでいた金髪の男。
誰もが一瞬、そちらを見る。
男は椅子に座ったまま、杯を手にしている。立ち上がらず、怒鳴らず、目線すらさっきと変わらずカウンター側に向けたまま。それなのに、雰囲気というか、視界が吸い寄せられるような何かがあるのを誰もが感じる。
「ここは、そういう場所じゃねえ」
酔っ払いの二人が、顔をしかめる。
「なんだよ、お前」
「どいつもこいつも、水差しやがる」
金髪の男は、ゆっくりと杯を置いた。
「悪いな……俺が、うるせえのが嫌いなだけだ」
その声は、淡々としていた。威圧するでも、説得するでもない。けれど、どこか重みが含まれている。
ノエルは、思わず男を見ていた。
ーー強い。剣も抜かず、割って入るでもなく場を抑えている。
酔っ払いの一人が舌打ちし、視線を逸らす。
「……チッ」
「行くぞ」
二人は吐き捨てるように言い、酒場の外へ出ていった。周囲はそれからも少し騒めいていたが、ゆっくりと元の店の姿に戻っていった。
ノエルは、気づかれないように息を吐いた。
「……助けられたのかもしれないね」
正直な感想だった。そのままノエル一人でも止められただろう。だが、おそらく時間はかかるし、もちろん危険も伴う。
金髪の男は、再び酒を飲み始めていた。まるで、何事もなかったかのように。
ルーミアには、色糸が見えている。さっきより男の色糸は、少しだけ緩んだ。ほんの一瞬、誰かの役に立ったことで絡まりがほどけていた。
「……今の人、強いね」
ルーミアが小さく言う。
この男は、前に出なかった。守る立場にも、助ける立場にも、なろうとせずに。だが今の場では、確かに必要だった。そしてノエルも同じことを考えていた。
男は、こちらを見ない。関わる気もなさそうだ。けれど、二人の中に、同じ感情が芽生えていた。
名前も知らない。理由もまだ明確ではない。
それでも、今みたいな場面で、いてほしい人間。酒場の喧騒の中で、その予感は浮かび上がっていた。
酒場の熱は、先ほどの騒ぎを飲み込んで、また元の喧騒に完全に戻っていた。笑い声が響き、杯が鳴り、誰もがさっきの出来事を忘れたように振る舞っている。忘れられなかったのは、ルーミアとノエルだけだった。
「……助かったね」
ノエルが、ようやくそう言った。
「うん」
ルーミアは頷きながらも、視線は自然と酒場の奥へ向いていた。
金髪の男は、相変わらず一人で飲んでいる。こちらを気にする素振りは一切ない。
「……さっき私、編めたかもしれない」
ルーミアが呟いた言葉に、ノエルの手が一瞬止まる。ルーミアは続けた。
「でも編まなくても、止まった。やったのは少し見て、少し触れてみただけ。ノエルが前に出て……あの人が声をかけて。だから……今回は使わなかった」
それは、言い訳ではなかった。後悔でも、自己弁護でもない。
「……正しい判断だと思う」
ノエルはそう言ったが、その声には微かな迷いが混じっていた。目線を下げ、続ける。
「でもさっきの場面、私一人だったら……悔しいけど多分、もう少し時間がかかった」
ルーミアは黙って聞いている。
「その間に、何か起きてたかもしれない」
ノエルは、自分の拳を見つめる。
「守れたとは思う。でも……必ず守りきれたかって言われると、今回自信ない」
酒場の奥で、金髪の男が杯を置いた。立ち上がり、ふらつきながらも、真っ直ぐ出口へ向かう。
「……行くみたい」
ルーミアが声を落とし気味に言う。
ノエルは、その背中を見つめた。声をかけるべきか。引き止める理由は、まだない。けれどーー
(……ああいう人が、必要になる場面は増える)
その直感は、確信に近かった。ノエルは、気づけば立ち上がっていた。
「……ノエル?」
「ごめん、少しだけ待ってて」
そう言って、男の後を追う。
酒場の外は、冷たい夜風が吹いていた。男は通りの端で立ち止まり、空を見上げている。
「……さっきは、ありがとう」
ノエルが声をかける。男は振り返りもしない。
「礼を言われることは、してねえ」
返しは投げやりともとれる声。
「……それでも、助かった」
男は、ようやくちらりと視線を向けた。
「……酔っぱらいが嫌いなだけだ」
それ以上、会話を広げる気はなさそうだった。
「名前は?」
ノエルが尋ねる。男は一瞬だけ黙り、それから短く答えた。
「……名乗るほどのもんじゃねえよ」
そう言って、背を向ける。
「ひとつだけいいか。」
「なに?」
「あんたのツレ……何者だ?」
その質問に、ノエルの左目の目尻だけが、少しだけ反応する。
(もしかして、魔法に気づいている? 私でも、本人に確認するまでわからなかった。……その一瞬を)
「……普通の女の子よ」
ノエルは平静を装った。
色糸の魔導士という名は、世界的に知られているほうではある。しかし、それがルーミアだとバレないに越したことはない。
いつどこに、魔導士としての価値を悪用しようとする輩がいても、おかしくはないからだ。特に、今いる場所、この王国より北方の地域は、つい近年まで内戦が起きていた場所で、未だ治安がいいとは言えない。
「……そうか」
男は、ノエルの意図を察したのか、元々さほど興味がなかったのか、深くは追求して来なかった。
「それじゃあ」
「……ああ」
男は夜の通りへ消えていく。ノエルは、その背中を見送った。
戻ると、ルーミアが入口で待っていた。
「……話せたの?」
「少しだけね」
ノエルは肩を上げ、少し困ったように両手を広げた。
「名前も、素性も聞けなかった」
ルーミアは、男が消えた方向を見つめる。
「でも……たぶん必要な人、だと思う」
その言葉に、ノエルは否定しなかった。
「……ええ、私もそんな気がする」
二人は並んで夜空を見上げる。まだ確信はない。けれど、確かにこの旅に足りなかったものが、そこに見えた気がした。
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