第28.5話 火を使う日(幕間)
町の名前はカナエル。交易路の途中にある、ほどほどに賑やかな町だった。行き交う人々の服装はまちまちで、長旅の商人もいれば、近隣の町から来たらしい者もいる。
宿の数が多く、市場は夕方になっても活気を失わない。旅人が数日滞在しても、不審に思われない空気があった。
「……今日は、ここに泊まろうか」
ノエルがそう言ったとき、ルーミアは一瞬だけ言葉を失った。
「いいの?」
「いいわよ。急ぐ理由もないし」
急ぐ理由。その言葉が、胸の奥で小さく引っかかった。考えてみれば、大きな目的地があるわけではないのに、旅は、いつも急ぐものだった。
誰かが困っているかもしれない。
色が褪せていくかもしれない。
立ち止まることに、理由が必要だった。自然と立ち止まれていたのは、ヴァイスの町以来だろうか。
ルーミアはほんの少し考えてから、首を振った。
「……うん」
市場は、夕暮れの色に染まり始めていた。野菜を並べる声、肉を刻む音、香草の匂い。焼き菓子の甘さが風に乗る。
色糸は見える。人々の感情が、淡く、穏やかな色となって漂っている。でも切迫したものは、どこにもなかった。
「今日は、編まずに済みそうだね。誰も大きくは困ってないし」
ノエルがほっとするように言った。
「あ。これ安心させといて〜とかじゃないよね?」
その言葉にルーミアは、ぷっと小さく吹き出した。
「はは! そうだといいね」
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。理由は分からない。ただこの場では、安心して肩の力が抜いていい気がした。
ノエルは、市場を一通り見渡したあとに切り出した。
「今日は、ちょっと力入れて、二人で料理をしてみない?」
「どうしたの、ノエル。急に」
「息抜きよ、息抜き。羽を伸ばすのも大事よ」
ルーミアは驚き、少し口が開いていたが、やがて、いつもより幼いいたずらっぽい笑顔で言った。
「ノエルって、戦いとかだと化け物じみたように速くて強いのに。ちゃんと女の子でよかった」
「……どういう意味よ」
「ごめんごめん、冗談」
「へぇ。ふ〜ん。……とりあえず食材選ぼっか」
「ごめんってば。目が怖いよ」
「誰のせいよ」
二人で食材を選ぶ。ノエルは慣れた手つきで野菜を持ち上げ、傷みを確かめる。ルーミアはその隣で、ただ並べられた食材の色を眺めていた。
「それ、気になる?」
「……うん。きれい」
ひとつ手にとってみたのは、赤く熟れた果実だった。色糸とは違う、ただの色。この世界で、色が残る果実は、ちょっとした高級品だった。
「じゃあ、それにしましょ」
食材は、ほとんどその場の勢いで決まっていった。
宿に戻ると、女将が裏の厨房を使っていいと言ってくれた。火を起こすと、ぱち、と小さな音がした。魔法じゃない火。人の手で、意識して起こす火。
「包丁、持ったことある?」
ノエルが聞く。
「……ない」
「じゃあ、教える」
ノエルはルーミアの後ろに立ち、そっと手を添えた。距離が、思ったより近い。
「力入れすぎないで、指は、こう」
言われた通りに動かすと、野菜は歪な形に切れた。
「……私、向いてないかも」
「最初は、みんなそうよ」
その声は優しかった。火は静かに燃え、鍋の中で水が温まり始める。
外では、町の話し声が重なっている。今日は何も起きていない。その事実が、今は、ただ穏やかだった。
気づくと鍋の中は、ゆっくりと泡が浮かび始めた。
「……あ」
ルーミアが声を上げ、ノエルも珍しく慌てた声で言う。
「火、もしかして強すぎた?」
「ちょ、ちょっとだけ!」
ノエルは火加減を弱め、鍋をかき混ぜた。香草を入れると、青い匂いがふわりと立つ。
「わ。いい匂い」
「まだよ。ここから味が決まる」
ノエルは塩を指でつまみ、少し考えてから鍋に落とした。
「これくらい?」
「……多そう、じゃない?」
「試してみましょ」
味見をして、二人同時に顔をしかめた。
「……多いね」
「多いわね」
視線が合って、思わず笑う。
水を足して、もう一度かき混ぜる。
今度は焦がさないように、二人で鍋を見張った。
「料理って、難しいね」
「難しいわよ。正解が一つじゃないもの」
「魔法みたい」
ノエルは、少しだけ言葉に詰まった。
「……似てるところは、あるかもね」
失敗して、やり直して。
それでも、全部取り返しがつかないわけじゃない。
やがて、簡素な料理ができあがる。
見た目は不格好で、色合いも地味だ。
それでも、二人で向かい合って座った。
「見た目は……改良の余地あり、ね」
「……味は」
ルーミアが、箸を動かす。
「……微妙」
「正直ね」
「でも……嫌いじゃないかも」
ノエルは、少し驚いた顔をしてから、ゆっくり頷いた。
「それならよかった」
完璧じゃない。でも、失敗を責める人はいない。しばらく二人は無言で食べる。外のざわめきが、遠くに聞こえる。
「……ね、ノエル」
ルーミアが、ぽつりと言った。
「なに?」
「こういう時間、さ」
少し言葉を探してから、続ける。
「何も考えずに楽しめるのって、変な感じ」
「嫌?」
「……ううん」
首を振る。
「なんか……いい。安心する」
その言葉に、ノエルは箸を止めた。
「……そう」
料理は、ゆっくりと無くなっていく。
味は最後まで“まあまあ”だった。
でも、皿が空になる頃には、胸の奥が少しだけ温かい。
「片付け、私やる」
「いいわ。今日は座ってなさい」
ルーミアは一瞬迷ってから、従った。椅子に腰掛け、火の消えたかまどを見つめる。
「……火、消えちゃったね」
「また点ければいいのよ」
ノエルは、当たり前のように言った。その言葉が、なぜだか、ルーミアの胸に残った。
片付けを終える頃には、外はすっかり夜になっていた。厨房の窓から見える町の灯りは、どれも大きな町のように高くはなく、柔らかい。交易路沿いの町らしく、人の出入りはあるが、騒がしさはない。旅人も、町の人も、それぞれの一日を終えようとしている。
「……終わった」
ノエルが手を拭きながら言う。
「ありがとう」
「礼を言われるほどのことじゃないわ」
そう言いながらも、ノエルの声はどこか穏やかだった。
ルーミアは椅子から立ち上がり、窓辺に近づく。
夜風が少しだけ入り込み、昼間の熱を冷ましてくれた。
「……静かだね」
「この町は、夜になるとこうよ」
ノエルも隣に立つ。
「昼は人の声で満ちてるけど、夜はちゃんと休む」
「いい町だね」
「ええ」
沈黙は気まずくなく、埋める必要もない。
ただ、同じ景色を見ているだけだった。
「……明日は、もう旅に戻るんだね」
ルーミアが言う。
「ええ」
ノエルは即答した。そのあと、少しだけ間を置く。
「だから今日は、ちゃんと休むの」
念を押すような言い方だった。
「うん」
ルーミアは小さく笑った。
部屋に戻る途中、廊下の灯りが足元を照らす。
その明かりの中で、ルーミアはふと思った。
今日一日、色糸魔法は使っていない。
誰かを助けたわけでもない。
世界の色は、何一つ変わっていない。
(でも……こういう日も、あっていい)
部屋に戻り、寝台に腰を下ろす。窓の外では、町の灯りが静かに揺れている。
「じゃあ……おやすみ、ノエル」
「おやすみ」
短いやり取りの流れのまま、灯りを落とす。
この日が、決まって特別だとは思わなかった。
後から振り返る理由も、そのときは分からなかった。
ただ温かく、少し不器用で、確かにここにあった時間だった。
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