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第28話 遅れてくるもの

 ラグナリアを抜けてから、三日が過ぎていた。空は高く、風は乾いている。何も起きていない。盗賊もいないし、叫び声もない。助けを求める色も、視界には映らない。


「……静かだね」


ルーミアが呟くと、前を歩くノエルが短く答える。


「揉め事がないのは、いいことよ」


その通りだ。編む理由は、どこにもない。それなのに胸の奥に、未だに薄いざらつきが残っている。


(私は……)


視界を横切る色糸を、無意識に追う。

通りすがりの農夫。橙と茶が穏やかに混ざる、健康な色だ。何も壊れていないし、何も削れていない。


それなのに、自分の内側だけが、ギシギシと古びたロープのように軋む。道端で、荷車の車輪が外れているのが見えた。若い商人が一人、焦った顔でしゃがみ込んでいる。


「……あ」


足が止まる。焦りの橙と小さな苛立ち。


「大丈夫そう?」

ノエルが低く問う。


商人は慌てて立ち上がり、笑った。

「すみません、お気になさらず。すぐ直ります。留め具が緩んだだけで」


声は震えていない。糸も切れていない。


(編まなくていい)


判断は、迷いなく下りた。ルーミアは膝をつき、車輪を押さえる。


「ここ、押さえてるから」


二人で留め具を締め直し、数分で終わる。商人は深く頭を下げた。


「本当に助かりました」


色糸は、自然に落ち着いていく。削れも歪んでもいない。


編まなくても、終わらせれることはある。


「……」


「どうしたの?」

ノエルの視線が鋭い。


「なんでもない」


歩き出して見た世界は、以前、変わらない。



 その日の夕方、名も無い小さな村を通った。井戸の前で、子どもたちが揉めている。


「先に使ってた!」

「違う!」


押し合い。水桶が傾く。ノエルが一歩前に出る。


「待って」


ルーミアが制する。色糸を見てみると、怒りは浅い。衝動が少し強いだけ。触れなくていい。一歩近づき、低く言う。


「順番にしよう」


それだけ促すと、子どもたちは顔を見合わせ、片方が鼻を鳴らして退く。もう片方も、桶から手を離す。


これで終わり。魔法は使っていない。なのに、世界の彩度が、半歩だけ落ちた。いつの代償かもわからないが、今度ははっきり認識してしまった。色が遠く、心臓の音が近く聞こえてくる。


(……何だろう?)


深く息を吸うと、戻る。ちゃんと戻る。糸も見えるし、景色もいつものに戻った。


「顔色悪い」

ノエルが言う。


「疲れてるだけだよ」


嘘ではない。その言葉は、反射的に隠すように、口をついて出た。



夜、焚き火の前で座る。炎が揺れ、その縁が一瞬だけ曖昧になる。


ラグナリアで、編まなかった。

グレイラン=バレーでは、編まずに弾くだけだった。

今日も、編まなかった。


それでも胸の奥のどこかが、静かに擦れている。

まだ、痛みと呼ぶほどではない。


考えうる限りでも、おそらく色糸接触(フィロ・ヴェイル)の代償。


直接編むよりは軽度だが、それでも何かが、遅れて追いついてきている気配だけが、確かにあった。



 翌朝、空はよく晴れていた。何事もなかったかのような青。風も穏やかで、旅路を阻むものはない。それでも、ルーミアは目覚めた瞬間に違和感を覚えた。


色が薄いわけではなく、遠くなってきている、という感じだった。見えないわけではない。色糸は、ちゃんと視界にある。けれど、焦点が合うまでに一拍遅れる。


「……」


ゆっくりと身を起こし、胸元に触れ体調も確かめるが、熱はない。



 朝の村を抜ける途中、小さな騒ぎに出くわした。家畜が柵を破って逃げ出し、老夫婦が慌てて追いかけている。


「右!」


ノエルが走る。


ルーミアも反射的に動く。逃げる山羊の糸を見る。焦りと恐怖。触れなくていい。回り込んで道を塞ぐために、ゆっくりと腕を広げる。


「大丈夫だよ」


声を落とすと、山羊は立ち止まり、鼻を鳴らした。その瞬間、ノエルが横から抱える。


「……よっし、捕まえた」


老夫婦が何度も礼を言う。


「助かりました、本当に」


色糸は、自然に落ち着く。削れていない。歪んでいない。正しい選択だった。そのはずなのに、視界がぐらりと揺れた。地面が一瞬だけ遠くなる。


「ルーミア?」

ノエルの声が近い。


「座って」

逆らえなかった。


木陰に腰を下ろす。呼吸を整える。色糸が、揺れる。周囲の色が、薄い。まるで、水で洗われた後の布のように、わずかに色素が抜けている。


「……魔法、使ったの?」


「使ってない」


「本当に?」


頷く。嘘ではない。グレイラン=バレー以降、使った覚えもない。


「編まなかっただけ」


ぽつりと零れた言葉に、ノエルの眉が動く。


「……何が来てるの」


問いは静かだった。ルーミアは、目を閉じる。ラグナリア。白い花。湖面。茶屋で聞いた声。


“優しい子だったのに”。


編まなかった。止めなかった。壊れる未来を、見送った。その選択は、正しかったはずだ。あの時点では、もう戻らなかった。それでも今もまだ、ルーミアの中に楔のように残っている。


「……遅れてきてる」


自分の声まで、やけに遠く感じる。


「何が?」


「分からない。でも……」


胸に手を当てる。そこにあるはずの色が、ほんのわずか、薄い。削れたわけではない。奪われたわけでもない。ただ。編まなかった選択が、時間差で、自分の中に沈殿している。


「……後悔?」


ノエルの問い。ルーミアは、首を横に振る。


「違う」


後悔ではない。あれは、救えなかった未来。最初から、限界を越えていた。


「私は……編むかどうかを選べる立場にいる」


ノエルは黙って聞いている。


「でも、選ばなかったときのことも、私の中に残る」


それは罪悪感とは少し違い、選択の痕跡や傷跡。削れなかった色が、内側で摩耗している。


今日も編まなかった。正しいし、間違っていない。でも選択したことは消えない。ノエルはしばらく言葉を考えて言った。


「だから、相談しろって言ったの」


ルーミアは、薄く笑う。


「うん。まあそうなるよね」


「一人で抱えたら、辛いでしょ。ただでさえ、背負い込みすぎるんだから」


「……分かってる」


痕跡は、誰にも気づかれないまま、

ルーミアの色の中心を、少しずつ淡くしていた。

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