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第27話 使いすぎた未来

 湖畔の町ラグナリアは、水の音が絶えない町だった。風が吹けば、水面が揺れる。誰かが桶を満たせば、水が跳ねる。岸辺に並ぶ家々は、どれも湖を背にして立っている。


静かだが、凪いではいない。そんな町だった。


「……水、きれいだね」

ルーミアが呟くと、ノエルは湖を一瞥した。


「流れがあるのね。水が腐らない」

その表現は妙にしっくりきた。


ラグナリアの空気も澄んでいる。重たい褪色の気配もなく、叫びも争いもない。


「……あ」


通りの先で、小さな人だかりができていた。ざわついてはいるが焦りはなく、怒鳴り声も聞こえてこない。


「また、スイレン様が」


誰かがそう言った。二人が人垣の外側に立つと、中心にいたのは、白い外套を纏った淡水色の髪の若い女性だった。


年は、ルーミアより少し上。長い髪を後ろで束ね、湖色の瞳をしている。その前には、顔色が悪く座り込んでいる中年の男がいた。


「大丈夫です」

彼女は、柔らかく微笑んだ。


「少しだけ、整えますね」


整える。その言葉に、ルーミアの呼吸が一瞬だけ止まる。


スイレンが、そっと両手を重ねると、淡い光が空気を撫でた。色糸は見えない。ルーミアには、何も集まっていないように見えた。けれど、男の呼吸は落ち着き、数秒後、ゆっくりと立ち上がった。


「……あれ?」


周囲から安堵の声が漏れる。


「やっぱり、スイレン様はすごい」

「また助けてもらったな」


誇らしげな視線が、彼女へ向けられる。スイレンは、照れくさそうに笑った。


「私にできることは、これくらいですから」


その言い方に、ためらいや迷いはない。それは確かに何かの魔法だった。ルーミアの指先が、無意識に震えた。


「……ノエル」

小さく呼ぶ。


「分かってる」

ノエルは、スイレンから視線を外さないまま答えた。


「何も、見えてない」


そう。色糸が見えない。あの男から町へ伸びる糸は、確かにある。少し乱れているが、切れてはいない。けれど、スイレンの魔法は、その糸に触れずに、何かを押さえ込んでいるようだった。


「……あなた、旅人ですよね?」


不意に声をかけられた。振り向くと、スイレンが立っていた。距離が近い。湖色の瞳が、まっすぐこちらを見る。


「ええ」

ルーミアは頷く。


「色が……見える人?」


一瞬、心臓が跳ねた。


「噂で聞きました」

スイレンは、穏やかに続ける。


「世界に一人だけ、色糸魔法を使う魔導士がいるって。もしや、あなた様ではないでしょうか」


その言葉に、周囲が少しざわつく。ルーミアは否定も肯定もしない。沈黙を選ぶ。それを見て、スイレンは微笑んだ。


「安心してください」

その笑みは、自信に満ちている。


「私も、救える力がありますから」


はっきりとした声音で、揺れがない。


「みんな、少しずつ元気になってます」


振り返ると、先ほどの男が普通に歩いている。確かに、表面上は整っている。


「……あなたも、一緒にがんばりましょう」


まるで、同じ志を持つ仲間に向ける言葉のように。その瞳は、善意だけでできている。


ルーミアは何も言えなかった。


色糸が見える。男の糸は、先ほどより少しだけ薄くなっている。削れたというより、削り取られたようだった。その先に、うっすらと別の色が絡んでいる。スイレンの色だ。それは、歪な形で結びついていた。


「……」


胸の奥が冷たくなる。スイレンはおそらく気づいていない。彼女に色糸は見えていない。色糸魔法のようで、非なる魔法。


「今日は、これで終わりにします」

スイレンは町人にそう告げた。


「無理は、よくありませんから」

そう言って笑う。


その笑顔は本物だ。嘘をついているわけでも、悪感情からくるものでもなく、純真無垢な善意なのだろう。



 ラグナリアの湖は、静かに揺れている。水面に白い花がひとつ浮いていた。ルーミアは、その花から目を逸らせなかった。色はまだ濃い。けれど。その中心が、一部欠けている。


(……たぶんもう、この人も既に)


直感が告げていた。スイレン自身の色糸は、もう乾ききっていた。それでも彼女は、誇らしげに笑っている。


「また明日も、見回りますね」


その言葉に、町人たちは安心したように頷いた。誰も疑っていない。誰も責めていない。


ラグナリアは静かだ。穏やかで、澄んでいて、そして、どこか危うさを保っている。ルーミアの指先が痙攣する。


まだ何も起きていない。

けれど、この町はもう、使いすぎた先の未来に向かっている。



 ラグナリアの午後は、湖面の光が町に反射して、やわらかく揺れていた。市場通りを歩くと、人々は穏やかな顔をしている。昨日と特に変わりはない。


「スイレン様!」


子どもがハツラツとした声で駆け寄る。その声に、通りの空気が少しだけ明るくなる。白い外套を翻し、スイレンは誇らしげに振り向いた。


「どうしました?」


「母さんが……また、息が苦しいって。でもなんとかしてくれるよね?」


一瞬だけ周囲がざわつく。けれど、焦りはない。


“スイレン様がいるから”。


その前提が、町を支えている。


「大丈夫ですよ」

彼女は即座に答えた。


「少し整えれば、お母さんはすぐ楽になります」


迷いがない。ルーミアの喉に生唾が通り抜ける。


「……ノエル」


「分かってる。あんたの顔見たら察した。……でも一応聞く。私たちにできることは?」


「……悔しいけど、思いつかない」


スイレンは家の中へ入っていく。二人も少し距離を保って中へ入った。


寝台に横たわる女性。呼吸は荒い。


胸元から町へ伸びる色糸が見える。弱ってはいるが、切れてはいない。本来なら休ませれば戻る色かもしれない。


「……いきますね」


スイレンが両手を重ねると淡い光が発せられた。見えない何かが、女性を包んでいく。


ルーミアの視界では、女性の色糸が、ぎゅっと縮む。


強引に整えられるかのようだった。そしてそこへ別の糸が伸びる。それはスイレンの胸元からだった。色は純白に近いが、中心に黒い亀裂が走っている。


「……っ」


ルーミアは思わず息を呑み、いざ割って入ろうと決意した頃にはもう遅かった。女性の呼吸は落ち着き、頬に血色が戻る。


「……あれ……?」


周囲から安堵の声。


「やっぱり、すごい」

「本当にまた救ってくださった」


スイレンは上品さを失わないが、誇らしげに笑った。


「まだ未熟なんですが」


そう言いかけて、すぐに首を振る。

「……いえ」


少しだけ胸を張る。

「私も、ちゃんと救えます」


その瞳は、真っ直ぐだった。


ルーミアを見る。

「あなたも、きっと救ってきた方だ」


同じ力を持つ者としての視線。

「褪色が進む今の世の中で、それを救えるって嬉しいですね」


胸の奥が強く痛む。


スイレンには見えていない。そして、おそらく彼女の魔法は未完成だ。色糸魔法を使えるのは世界でただ一人、ルーミアだけ。色観が認知できていなかった可能性も考えたが、実際に魔法を見てルーミアは確信した。


(この魔法は言うなれば、色糸魔法の模倣品……)


しかもスイレン自身の色糸まで、今のでさらに削れてしまい、中心部が欠けている。今まで数々の色糸を見てきた経験上、これはもう戻らない。


「……スイレンさん」

ルーミアは、声をかけた。


「少し休んだほうがいいです」

それが、精一杯だった。


スイレンは笑う。


「大丈夫ですよ」

即答だった。


スイレンの魔法は、自分の色を余分なものとして削っている。スイレン自身も気づかないまま。


「この町、前より明るくなったって言われるんです」


嬉しそうに続ける。


「だから……一緒に、守りませんか」


その言葉は、仲間としての誘いだった。


ルーミアの指先が震える。


(……ごめんなさい。もう)


出会った時点で、彼女の色はピークを越えていた。既に削られすぎていた。戻らないところまで。今から編んでも、整えても、彼女の核は、もう戻らないだろう。


「……私は」


ルーミアは、ゆっくりと答えた。


「見守ることしか、できません」


スイレンは首を傾げる。


「どうして?」


純粋な疑問。悪意も、対抗心もない。


「あなたは……慎重派なんですね」


そして優しく続ける。

「でも、大丈夫ですよ」


胸に手を当てる。ルーミアの視界で、彼女の色糸が軋んでいる。



夜。湖畔は静まり返っている。遠くで水が揺れる音だけが聞こえる。ルーミアは、ひとりで岸辺に立っていた。白い花が浮かんでいる。昼間より少し、これも色が薄い。


「……間に合わない」


小さく呟くと背後で足音がした。振り向くと、スイレンだった。


「私も眠れなくて」


笑っていた。けれどその顔色は、昼より悪い。


「今日も、なんとかうまくいきました。明日も私は町を回ります」


その声が、少しだけかすれる。


「この町、好きなんです。ずっと守っていたいなぁ、なんて思うんです」


湖を見るその横顔は、本当に綺麗だった。善意だけでできた眩しいほどの横顔。


ルーミアは何も言えなかった。事実を言えば、壊す。言わなくても、壊れる。


スイレンは白い花を拾い上げた。


「きれい」


水滴が彼女の指先を伝う。その雫が、夜の光を映した。


その夜の光を背景に、ルーミアには見えてしまった。彼女の色糸の中心が、静かに、ひび割れるのを。音は何もなく、町と一緒で静寂でしかなかった。


「それでは……おやすみなさい」


スイレンは微笑み、町へ戻っていった。背筋は整い、まっすぐに。


明日彼女は、まだ笑うだろう。町も、まだ安心するだろう。


少しでも長く。



 翌朝、ラグナリアは変わらず穏やかだった。湖面は静かに光を返し、洗濯物が風に揺れている。昨日と同じ整った朝。通りを歩くと、人々が笑っている。


「スイレン様、少し無理したらしいよ」

「若いんだから、すぐ戻るさ」

「昨日も二人助けたって。さすがだよ」


明るい声。心配はあるが、深刻ではない。


ルーミアは足を止めた。工房の前で、スイレンが椅子に座っている。顔色は白い。けれど笑っていた。


「おはようございます」


こちらに気づき、手を振る。その動作は、昨日よりほんの少し遅い。


「……大丈夫ですか?」

ルーミアが近づく。


「少し、使いすぎちゃったようです」


目だけが困ったように軽く笑う。


「でも、休めば戻りますから」


周囲の大人が頷く。


「無理しすぎだよ、ほんと」

「スイレン様は加減を知らないからな」


叱るでもなく、咎めるでもない。誇らしげな空気すらある。


「町が明るくなったのは、あの子のおかげだ」


その言葉に、ルーミアは耐えがたいような胸の痛みがあった。スイレンは、また誇らしそうに言う。


「大丈夫です」


胸に手を当てる。


「ちゃんと私、守れてますから」


ルーミアの視界で、スイレンの色糸は、もうほとんど光を持っていなかった。細く、透明に近く、中心が空洞になっている。それでも、まだ切れてはいない。町ももちろん、それには気づけない。


「私たち、今日発ちます。……できることが、ないので」


ルーミアは静かに告げた。

スイレンは少し驚いた顔をしたが、すぐに笑う。


「そうですか。またどこかで会いましょう。色糸の魔導士、ルーミア・エイルさん」


「知っていたんですね」


澄んでいる瞳だった。


「実は私、噂を聞き、あなたに憧れてたんです。だからいっぱい魔法の練習をしました。次に会う時は、私もっと上手くなってますからね」


上手く。その言葉が余計にルーミアの内に鋭く刺さる。けれど、もう言葉が見つからない。


「……無理、しないでくださいね」


それだけが精一杯だった。スイレンは、いたずらっぽく笑う。


「大丈夫ですよ」


昨日と同じ言葉。でも声は、わずかに掠れていた。



 町の端まで歩く。湖が、朝の光を受けて揺れている。白い花が、いくつか浮いていた。


「……行くんだね」


ノエルが言う。


「……うん」


足は重い。でも、戻らない。戻っても触れることができるものが残っていない。ラグナリアの住人のほとんどに、スイレンの色糸が混じり、絡まっている。



二日後、橋を過ぎた街道沿いにある、水辺の小さな茶屋で噂を聞いた。


「あの子、本当に優しい子だったのに」


ルーミアは、静かに湯呑みを置いた。



水辺には、ここにもひとつ白い花が浮いている。やがて、微かに残った花びらは、朝日を映したまま静かに揺れ、沈んでいった。


湖が光を返してくる。何事もなかったかのように。

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