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第26話 私が編む理由

 谷を抜けたあとの空は、妙に澄んでいた。グレイラン=バレーの乾いた風が嘘のように、次の土地は水気を含んだ匂いがした。


低い森に囲まれた小さな集落。

大きな町ではない。交易路からも少し外れている。


静かで穏やかで、どこか息が詰まる。


「……平和そうな集落ね」

ノエルが言う。


「うん」


ルーミアは、集落を見渡した。


子どもが走っている。

畑で人が働いている。

井戸端で笑い声もある。


争いはない。怒鳴り声もない。

助けを求める声もない。


それなのに、なぜか胸の奥がざわついた。


(なんだか、静かすぎる)


色糸は見える。淡い色が、ゆるやかに揺れている。けれど、どれも浅い。深く沈むこともなく、感情が表面だけをなぞっているような――そんな違和感。


「どうする?」


ノエルが問いかける。その声は、谷のときより柔らかい。けれど、完全には緩んでいない。


「……少し、見させて」


ルーミアは答えた。編むとは言わない。助けるとも言わない。



 集落の中央には、小さな広場があった。そこに、ひとりの少年が座り込んでいる。


十歳前後。両手を握りしめ、うつむいたまま動かない。近くには、同じ年頃の子どもたちがいる。


だが誰も、その少年に声をかけない。


無視しているわけではない。

気づいていないわけでもない。

ただ――触れない。


声をかけていない。助けを求めてもいない。その姿に吸い寄せられるように、ルーミアはゆっくり近づいた。


「どうしたの?」


少年は、びくりと肩を震わせる。


「……なんでもない」

即答だった。


その言葉の奥で、色が揺れる。濁った青。押し込めた悲しみ。


「本当に?」

「……」


沈黙。少年の指先が白くなるほど、強く握られている。


(言えないんだ)


助けを求めたり、悲しいと叫んだら、何かが壊れると思っている。


「……ほっといて」


小さな声。拒絶ではなく、お願いに近い。ルーミアは、その言葉を聞きながら、胸の奥にモヤがかかるのを感じた。


(私は……)


編めば、この子はきっと泣ける。少しは軽くなるはず。でもそれは、この集落の静けさを壊すことかもしれない。ここはグレイラン=バレーじゃない。衝動の連鎖もなく、ただゆるやかに押し込められているだけ。


「ルーミア」


背後から、ノエルの声。止める気配ではなかった。

ルーミアは、少年の前にしゃがみ込む。


「ねえ、泣いてもいいんだよ」


その一言に、少年は顔を上げなかったが、色糸が強く震えた。だが――こぼれない。


「……泣いたら、迷惑になっちゃう」


静かにもがくような、掠れた声だった。助けを求めず、迷惑もかけない。そのある意味での正しさが、静かに少年を削っている。


その姿に、ルーミアの中に疑問が浮かぶ。


(私は……止めてあげれる立場なのかな)


編むことで善だから? 正義だから? どっちもきっと違う……。ただ見てしまった。見えてしまっただけなのだ。この子の色を。胸元のペンダントは、動くことはなかった。


そうしてる間にも、少年の色は今も震えている。


(私は、どうしたらいい?)


問いは、もうルーミアの中にある。

前に出るか。静けさを守るか。ルーミアは、ゆっくり息を吸い、少年の前で目を閉じた。


編めば軽くなる。泣けて、楽になる。けれどそれは本当に、この子のためになるのだろうか。


しばらくの沈黙で、ルーミアは答えを出した。


(違う)


胸の奥で出た答え。それは、「私が耐えられないだけ」ということだった。この少年の震え、この押し込められた色、それを見てしまったまま立ち去る自分を、きっと自分が許せない。


善だからじゃない。正義でもない。私は、見なかったことにできない。


「……泣いても、迷惑になる」


少年は、もう一度小さく言った。その言葉は、誰に教えられたのか分からないけれど、この集落の空気と同じ匂いがした。ルーミアは、そっと問い返す。


「誰に?」


少年は答えなかったが色糸が揺れる。家族や周囲。直接そう教わったわけではない。ただ、そういう集落の空気の中で覚えたもの。


泣かないほうがいい。困らせないほうがいい。

どこにでもありそうな遠慮が、この少年の一歩を阻害しているように思う。


ルーミアは、静かに言った。


「泣いたら困る人がいるなら、その人も、少し弱ってるんだよ」


少年の肩が震える。


「それならやっぱり……」

「私はね」


そこで、初めて、ルーミアは自分のことを口にした。


「泣いてる人を見るのが、苦手」


少年が、ゆっくり顔を上げる。涙はまだ落ちていない。だが、溜まっている。


「放っておくと……胸が、痛くなるから。だから、編みたくなる」


少年は、意味が分からないという顔をする。当然だ。色糸魔法のことを言っているわけじゃない。もっと単純なこと。


「私は、私が耐えられないから、助けてあげたい」


ノエルが息を呑んだのが分かった。ルーミアは少年の目を見る。


「それでも、いい?」


少年の唇が震える。迷惑になる、と言われてきた。我慢するのが正しいと、覚えてきた。それが今この場では開放される。


「……泣いても、いいの?」


その問いは、小さく、か細く、零れ落ちた。ルーミアは頷く。


「うん」


そして、胸元に手を当てる。


(これは善意じゃない。私の単なるわがまま、自己救済だ)


「ーー色糸接触(フィロ・ヴェイル)


そっと触れる。編み込まず、作り替えない。押し込められた悲しみの糸を、ほんの少しほどくだけでいい。縛られていた撚りを、緩めるだけ。


少年の色が震え、次の瞬間、ぽろりと涙が落ちた。

それは、大きな発散ではなく、静かな解放だった。


嗚咽も叫びもない。ただ、ぽろぽろと涙がこぼれる。

少年は、自分でも驚いたように目を見開く。


「……あれ」


「うん。……頑張ってきた、いい涙だよ」


ルーミアは笑った。


少年は、何度も涙を拭う。周囲の子どもたちが、不安そうにこちらを見るが、誰も怒鳴らないし、誰も止めない。


少しのざわめきが起きるが、それだけで。


やがて、少年は深く息を吸った。


「おねえちゃん……ありがとう」


その声は軽かった。色は、まだ完全に整っているわけではない。けれど、押し込められてはいない。


「どういたしまして」


ルーミアは笑顔のまま立ち上がった。胸の奥に微かな擦れと、ほんの少し、ただ確実に削れがあるが、不思議と納得のいく満足感に近いものがあった。


「消耗は?」

ノエルが、見るからに心配そうな顔で問いかける。


「……少しだけ」

「そっか。後悔は?」


ルーミアは、少年を見る。涙の跡を残しながらも、友達の輪に戻っていく背中。


「……ない」


それは嘘じゃなかった。



 集落を離れ、森の道を歩きながら、ノエルが口を開く。


「さっきの」

「うん」


「私が耐えられないから助ける、ってやつ」


ルーミアは、少しだけ苦笑する。


「自分勝手で、格好悪いでしょ」

「ええ」


ノエルに即答されてしまう。


「でも、嘘じゃない」


「……それでいいの?」


「分からないけど……でも、正しいからだとか、役割だから編むって思い込むよりは、少しマシな気がした」


ノエルと会うまでの旅路でも、会った後の旅路でもそうだった。正しさは、時に人の心を削ってしまう。


「私は、救って英雄になりたいわけじゃない」


ルーミアは、前を向いたまま続ける。


「見てしまった色を、無かったことにできないだけ」


ノエルは、ふっと息を吐く。


「正直ね」


「うん」


「自分が壊れないための、魔法」


その言葉は、責める響きを持っていなかった。ただ、自身への確認。


「……でも、それでも削れていくわよ。今日みたいなのが、積み重なったら」


ノエルは事実を提示した。


ルーミアは一度立ち止まる。森の向こうに、次の町の影が見える。


ゆっくりと振り返りながら、ルーミアは言った。


「だから、止めて」


ノエルの目が、わずかに揺れる。


「私が、私のためだと言い訳にして、壊れそうになったら」


「……いいのね?」


「うん」


その答えに、迷いはなかった。



善でも正義でもない。ただ、自分の痛みに耐えられないから、編む。ルーミアの胸の奥に、ひとつの答えが、静かに根を下ろした。


同時にそれは、いつか自分を追い詰める刃にもなり得る可能性を示すことを、誰も考えつかないまま。

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