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第25話 選ばされる場所

 グレイラン=バレー。この谷は、風が音を削る場所だった。


二つの丘に挟まれた細長い地形。

地面は乾き、黒ずんだ岩が剥き出しになっている。


色が薄い。褪せきってはいない。

だが感情が留まらない。

怒りも、悲しみも、ここでは定着する前に摩耗する。


「……嫌な場所ね」

ノエルが呟く。


ルーミアは頷いた。


(ここは……溜まらない)


溜まらないから、溢れ出るような爆発もしないが、代わりに擦れ続ける。


その時だった。


「ーーやめろ!」

「離せ!」


乾いた空気を裂く叫び。ノエルは即座に剣に手をかける。対照的にルーミアは一歩下がる。谷の奥、崩れかけた石橋の近くで、三人の男が青年を囲んでいた。


盗賊。


金を要求し、青年は震えている。助けを求める声はない。ただ、必死に否定しているだけ。


「そこまでだ」


ノエルが前へ出る。剣は抜かない。だがそれでも十分だった。ノエルは一瞬で一人の距離を詰め、腕をひねり、地面に叩きつける。残りは一目散に逃げていった。


あっという間の決着。時代がもう少し前なら、戦姫として恐れられただろう。誰もがそう思えるほどの、圧倒的な速さだった。


助けられた青年すら震えながら礼を言い、去っていく。


ルーミアは色糸を見る。薄い橙。恐怖と安堵が混ざり、まだ揺れている。


(今なら落ち着かせられる)


そう思っていた矢先、


「使っちゃだめ」

ノエルが釘を刺す。


「……分かってる」


ここは、応急処置する場所じゃない。使う場面ではない。

ルーミアも納得していた。


二人はまた歩き出す。


だが、谷の奥に進むほど、音が増えていく。

怒鳴り声や石のぶつかる音。殴打の音。


一つではなく、複数聞こえてくる。

谷が折れ曲がる地点。そこには、先ほどの盗賊の連鎖があった。


奪う者と奪われる者。

だがその境界は崩れている。


奪われた者が、次の瞬間、別の誰かを殴っている。

助けを求める声はない。

あるのは、乾いた焦燥だけ。


ノエルが剣を抜き、最初の男を叩き伏せる。致命傷は与えない。だが次が来る。数が多く、二人は焦燥の波に直面する。


(多い……)


ルーミアは視界を広げた。色糸が荒れ、怒りは薄く焦燥が強い。ここでは怒りが熟さない。だから反省も生まれず、ただ絶え間なく擦れている。


ノエルの太腿に石が当たり、体勢が崩れる。背後から短剣が振り上がる。


「ノエル!」


(間に合わない)


ルーミアは前へ出た。一本の糸が、強く浮かぶ。濁った紫。躊躇の色だ。それに少し触るだけなら。


(今の私にできることーー)


「ーー色糸接触(フィロ・ヴェイル)


編まずに触れる。撚りを、わずかにずらす。すると男の腕が一瞬止まった。その一秒で、ノエルの剣が短剣を弾く。


「……今、何した? 動きが遅かった」

「……迷ったんだよ」


それは嘘ではない。だが、触れた。消耗も今ほぼない。


(編まなくても、動かせる。私にもできることがある)


その事実に、胸が昂る。

だが数は減らない。連鎖は止まらない。


その中で、ルーミアは気づいた。中心にいる男。直接殴らない。だが煽り、焦燥を増幅している。


(あの人だ)


全体を編むのは違う。でも一点なら。


(ーー色糸接触(フィロ・ヴェイル)


再び触れる。焦燥の撚りを緩める。男の声が一拍遅れる。連鎖が鈍った。


ノエルが間合いを詰め、二人を叩き伏せる。だが次の瞬間、三方向から同時に迫る影。ノエルの足がもつれた。足が限界に近い。


(まだ足りない)


触れるだけでは、足りない。胸元が熱を帯びる。


(ここで編めば、止まる)


でもそれは、この谷を無視した選択。短剣が振り上がる。


その瞬間。


「ーーやめなさい!」


谷の奥から、別の声。武器はない。だが、芯がある。一瞬、流れが止まる。


「ちっ、巡回か」


巡回というより、一個の兵団の行進のようだった。

鍛えられ、武装した集団が向かってくる。


中でも、先ほどの声の主であろう、集団の先頭に立つその男は一段と大きかった。


ルーミアは男の糸を見る。濃い橙。恐怖を飲み込み、踏み出した色。


(……この人が止めてくれたのか)


ルーミアは、触れなかった。ただ、見届けた。



盗賊は去り、谷に残ったのは、荒い呼吸と風の音だけだった。完全に静まったわけではない。遠くではまだ小競り合いが続いている。だが、さきほどの連鎖は崩れていた。


ノエルはその場に座り込む。肩から血が滲んでいる。太腿も確実に腫れている。


「手当てしなきゃ……立てる?」

ルーミアが支える。


「立てるわよ。このくらい」


強がりだと分かる。それでもノエルは立ち上がる。そして、じっと見る。


「……さっき何回か、編んではいないわね。……触った?」

「……二回」


「編んだの?」

「ううん」


はっきり否定する。


「流れをずらしただけ。初めてやる賭けだったけど」



ノエルは一度だけ息を吐く。怒らない。止めない。


「消耗は?」

「……ほとんどない」


正確には、ゼロではない。胸の奥に、ほんの薄い擦れ。だが削れるほどではない。ノエルはそれを見抜いている顔だった。


「それも、積み重なったらどうなると思う?」


ルーミアは答えない。分からない。でも何度も編むよりはいい。


「今日さ」

ノエルが言う。

「私、あんたを殴るか迷った」


ルーミアの心臓が跳ねる。


「え……本気で?」

「本気」


即答だった。


「魔法を使わせないために、気絶させるかどうか」


物騒な言葉に静かな声。脅しではないようだ。


「でも」


ノエルは視線を逸らさない。


「今日は殴らなくて済んだ」


その意味は重い。


「私もなんとか、したかったから」


ルーミアの胸が揺れる。


「後ろで見てるだけじゃ、ノエルも危ないって思っちゃった」


ノエルは目を閉じ、呟く。


「全部抱え込まなかっただけ、今回はマシね」


その言葉が、少しだけ救いになる。谷の奥から、先ほどの男が歩いてくる。武器や鎧が派手に音を鳴らしているが、戦意はない。


「……すまなかったな」

深く頭を下げる。


「この谷はな、何度もこうなる」

男は乾いた岩肌を見渡す。


「怒りが育たん。焦燥だけが残る」


ルーミアは糸を見る。恐怖を飲み込んだ橙。


「どうして止めたの?」

問いに、男は少しだけ考える。


「何度も見てきたからだ。止めても結果は大したものは残らん。だが、何もせんよりはマシだ」


言葉だけは、残る時がある。その一言が、胸に残る。


巡回の男は去っていった。


ノエルが歩き出す。足取りは重い。


「……選ばされたわね」


「うん」


「編むか、触るか、何もしないか」


ルーミアは小さく笑う。


「触るって選択肢、前はなかった」


それは事実だ。以前なら、編むか、見送るか。今日は違った。


「でも」


ノエルは低く言う。


「今日のやり方が、いつも通じるとは限らない」

「分かってる」


特にここ、グレイラン=バレーは特殊だ。感情が沈殿しない。だから編むのは危険。だが、次の場所は?もっと重く、もっと絡まり、編まなければ死ぬ場所だったら?


ルーミアは立ち止まる。


(選ばされ続けたら……?)


触れるだけでは足りない日が来る。編めば削れる。編まなければ、誰かが壊れる。そのどちらもが、確実に現実になる。


ノエルが振り返る。


「怖い?」

「……うん」


正直に答える。


「でも」

ルーミアは前を見る。


「今日は、後ろじゃなかった」


夕日が谷を赤く染め、影が長く伸びる。この場所は終わっていない。おそらく明日も誰かが奪い、誰かが殴る。けれど今日、一つだけ変わったことがある。


ルーミアは、誰かに選ばされたのではなく、自分で一歩、前に出た。



 グレイラン=バレーを抜ける頃、ルーミアは胸の奥の小さな擦れ、疲労感を、はっきりと自覚していた。ほんの僅か。だが、確実に存在する。


(これは……)


触れた代償なのだろう。削れたわけではない。でも、消えない。選ばされ続ければ、きっと増えていく。


風が吹き、ルーミアは前を向く。


(いつまで、触れるだけでいられる?)


その問いが、静かに、次へ繋がっていった。

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