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第20話 残る噂

 朝のヴァイスは、いつもより少しだけ騒がしかった。

通りを歩く人の数が増え、声も、いつもより近い。


「……今日は、賑やかだね」


ルーミアが言うと、ノエルは周囲を見回してから答えた。


「噂が立つと、町は動く」

「……噂?」


「あんたたちのよ」


一瞬、言葉の意味が理解できなかった。



「……私たち?」

「正確には、あんたの、かな」


胸の奥が、ひくりと揺れる。


「……何の噂?」


ノエルは、少しだけ言いづらそうに視線を逸らした。


「仕立て屋の男と、よく一緒にいる」


「……」


「旅人が、この町に腰を落ちるらしい、とかいう話」


ルーミアは、思わず足を止めた。



腰を落ちる……?


……腰を据えることか。



ノエルの誤った表現もあり、その言葉が頭の中で、何度も反響する。


「いやでも……そんなつもりは……」


言いかけて、止まる。


ーー本当に?

と、自分自身に問い返してしまったからだ。


否定しきれない。それが、今の正直な気持ちだった。



通りの向こうで、宿の女将がこちらに気づき、軽く手を振ってきた。


「おはよう、今日はいい天気だね」


「……おはようございます」


挨拶を交わすだけ。


けれど、視線の中に、わずかな“含み”を感じてしまう。


ーー知られている。


悪意ではない。好奇心でもない。

ただ、“この町の話題”として。


「居心地、悪い?」

ノエルが低い声で尋ねる。


「……ううん」

首を振る。


「……不思議」

「……?」


「……嫌じゃない」


むしろ胸の奥が、ほんの少しだけ温かい。


ーーここに、居場所がある。

そう感じてしまう自分が、確かにいる。




仕立て屋<フェン>の前まで来ると、扉はすでに開いていた。

イーリスが、布を抱えて外に出てくるところだった。


「……おはようございます」


声をかけると、彼は少し驚いた顔をしてから、柔らかく笑った。


「おはよう」


その一瞬で、指先まで落ち着いてしまう。


「……今日は、人が多いですね」

「ええ。珍しいです」


短い会話。


でも周囲の視線が、確かに集まっているのが分かる。



「……噂、聞きました?」

思い切って聞いてみる。


イーリスは、少しだけ困ったように眉を下げた。

「……ええ、まあ……」


否定しない。


「……迷惑、ですよね」


その言葉に、彼は首を振った。


「いいえ」


即答だった。


「……正直に言うと」


少しだけ間を置いてから、続ける。


「……悪い気は、しません」


その言葉が、胸にまっすぐ落ちる。


「……私も」


思わず、そう答えてしまう。

言ってから、心臓が少し早くなる。


イーリスは、何も言わなかった。

でも、視線が逸れない。


「……ルーミアさん」


静かな声。


「この町は……」


「誰かが残るかもしれないというだけで……少し、希望を持っています」


その言葉が、重く響く。


希望。自分がこの町に残ることで、誰かの気持ちが前を向いてしまう。


「……私は……まだ、決めていません」


「ええ……それで大丈夫です」


その返答が、ありがたかった。


決断を急かさない。


でも逃げ道も用意しない。



 昼前、店を離れる時、イーリスが声をかけてきた。


「……今日の夕方、時間はありますか」


胸が、小さく跳ねる。


「……あります」


「少し、話したいことが……」


その言葉の続きを、あえて聞かなかった。


ーー分かってしまうから。



店を出て、通りを歩きながら、胸の奥がざわつく。


色糸が見える。


町と、自分。イーリスと、自分。


その糸はもう、留まる可能性をはっきりと帯びている。


昼を過ぎる頃には、噂は町全体に行き渡っていた。


誰かが囁き、誰かが微笑み、誰かが期待する。どれも悪意はない。だからこそ、ルーミアの胸は、少しずつ重くなっていった。


通りを歩くと、知った顔が増えている。


「こんにちは」

「……こんにちは」


挨拶の温度が、昨日までとは、わずかに違う。


「この町、気に入ってるんだって?ありがとな」


そんな言葉を、何度も投げかけられる。


「……はい。静かで……」


そう答えるたび、胸の奥で、何かが形を持つ。



ーー残る前提の言葉。

誰も決断を迫ってはいない。

でも、前提として置かれている。


それが、こんなにも重たいとは思っていなかった。



仕立て屋<フェン>に立ち寄ると、イーリスは忙しそうだった。


注文が少し増えている。


「……町が、浮ついてる」


思わず、そんな言葉が出る。


「……ええ」


イーリスは苦笑する。


「珍しいことです」


「……困って、いませんか」


「正直に言うと……」


少し考えてから、答えた。


「……少し、嬉しい」


その言葉に、また、胸が丸みを帯びてくれない。


自分がこの町にいるだけで、誰かの仕事が増え、誰かの気持ちが前を向く。


「……それって」


言いかけて、止める。

それ以上踏み込むと、戻れなくなる気がした。


店を出ると、外は昼の光に満ちている。


通りの端で、あの井戸のそばの女性を見かけた。


目が合う。


彼女は、一瞬だけ驚いた顔をしてから、小さく微笑んだ。


ーーあの時、助けなかった人。


それでも彼女は、少しだけ前を向いている。


「……」


色糸が見える。

完全に整ってはいない。


でも、待つことを選んだ色に、少しだけ変わっている。


それを見て、胸が揺れる。


ーー私が、ここにいるから?


編んでいない。助けていない。

それでも、何かが変わってしまう。


「……やめて」


小さく、自分に言い聞かせる。


自分を理由にしてはいけない。

誰かを理由にしてもいけない。



宿へ戻ると、ノエルが本を閉じた。


「町の空気、変わったね」

「……うん」


「……嫌?」


少し考えてから、答える。


「……嫌じゃ、ない。……でも、逃げ場は減ってる」


ノエルは静かに頷く。


「居場所ができると、選択肢は減っていく」


その言葉が胸に落ちる。


「……旅は」


ノエルは、窓の外を見る。


「いつでも、逃げ場がある」


「……ここは?」


「ここは、選ぶ場所」


選ぶ。その言葉が重く感じた。


夕方が近づくにつれ、ざわめきは強くなっていった。


イーリスが「話したい」と言った時間が、近づいている。


何を、言われるんだろう。

何を、答えるんだろう。


色糸が、静かに揺れる。


今まで見てきたどの糸よりも、皮肉にも、穏やかで強い。


「……私」


部屋で一人になった時、小さく呟く。


「……ここに、残ったら……」


その先を言葉にできない。


幸せになる未来が、はっきりと見える。

見えてしまっている。


だからこそ、怖い。


夕暮れ時のヴァイスは、一日の中でいちばん色がやわらぐ。


昼のざわめきが引き、夜の静けさにはまだ早い。その境目の時間に、ルーミアは仕立て屋<フェン>の前に立っていた。


扉の向こうから、布を畳む音が聞こえる。深く息を吸ってから扉を叩いた。


「……どうぞ」


イーリスの声。


中に入ると、店内はいつもより整っていた。作業台の上には、布も糸も置かれていない。


「……今日は、早仕舞いなんですね」


「ええ」


イーリスは、少し照れたように笑う。


「……大切なお話が、あったので」


それ以上、前置きはなかった。



二人は向かい合って座る。距離は、手を伸ばせば触れられるほど。


でも、触れない。その距離が、今の二人を正確に表していた。


「……噂、聞いていますか」


ルーミアが先に切り出す。


「……ええ」


「……私が、ここに残るかもしれない、って……」


言葉が、少しだけ震える。


イーリスは、視線を逸らさずに答えた。


「……聞いています」



否定もしない。肯定もしない。静かな口調で返してくれる。


「……正直に言うと」


少し間を置いてから、彼は続けた。


「……私は、そうだったらいいな、と思っています」


その言葉は、とても静かだった。


だからこそ、胸に深く刺さる。


「……あなたがこの町にいると」


「町が、前を向くんです」


それは期待だった。


でも、重たい期待ではない。



「……そして」


イーリスはほんの一瞬、言葉を探す。


「私も……」



その一言で、すべてが伝わってしまう。



「……ルーミアさん」


名前を呼ばれる。


「……あなたが、好きです」



飾りのない言葉。


大きな約束も、未来の話もない。


ただ、今の気持ちだけ。



胸の奥が、きゅっと縮む。


ーー嬉しい。


はっきり、そう思った。



「……ありがとう、ございます」


声が少しだけ掠れる。


「……でも」



続きがすぐには出てこない。


イーリスは待ってくれる。急かさない。



「……私」


ルーミアは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……ここにいれば、……きっと幸せになれるって……思います」


それは本心だった。



「……だから……軽いお返事は、できません」


イーリスは小さく頷いた。


「……それで、十分です」


「……今は……答えを出せません」


ルーミアは、自分の胸に手を当てる。拒絶ではない。逃げでもない。選ばない、という選択。


「……でも」


視線を上げて、まっすぐに言う。


「……あなたと過ごした時間は……本当に……本当に、大切でした」


その言葉に、イーリスの表情が少しだけ緩む。


「……それなら……私は、待ちます」


彼は、穏やかに言った。その一言が、胸に強く響く。


ーー待たせてしまう。

その事実が、嬉しくもあり、苦しくもある。


店を出ると、外はすっかり夜になっていた。

空には星が一つ、静かに瞬いている。



 宿への帰り道、ノエルが待っていた。


「……終わったか」

「……うん」


それ以上、多くは語らない。


でも言わなくても、おそらく伝わっている。


「……答えは、出さなかった」

「それでいいのよ」


ノエルの声は、揺れていなかった。



部屋に戻り、ベッドに腰掛ける。胸の奥が、温かくて、少し痛い。


ーーここに残れば、きっと幸せになれる。


それは、もう疑いようのない事実だ。


でも色糸は、今も見えている。


町の中に。人の中に。そしてその一本一本が、自分を呼んでいる。


「……だからもう少しだけ……旅を続ける」


それは、誰かに言わなくてもいい、自分だけの答えだった。

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