第19話 普通の未来を見に行く
翌朝、ルーミアは少し遅く目を覚ました。
目を閉じたまま、自分がどこにいるのかを確認する。
ヴァイス。仕立て屋のある町。止まってもいい場所。
そこまで考えて、ゆっくりと目を開けた。
「……よく、眠れた」
声に出してから、小さく驚く。
最近は、眠りが浅い日が多かった。
色糸を使わなくても、夢の中で感情を探してしまう。
それが昨夜は、なかった。
胸の奥に、じんわりとした温度が残っている。
「……感謝、しなきゃだな」
そう呟きながら、身支度を整える。
宿の階段を下りると、ノエルが朝食をとっていた。
「……おはよう」
「おはよう」
少し豪快な頬のノエルと、視線が合う。
「顔、随分、穏やか」
否定しなかった。
「……昨日、仕立て屋に……」
「ん、行ったな」
それ以上、ノエルは言わない。
責めない。急かさない。
それが今はありがたかった。
外に出ると、空は澄んでいた。
雨上がりの朝特有の、少し冷たい空気。
「……今日は……」
自然と足が、仕立て屋の方へ向かう。
目的は、はっきりしていない。
ただ、会いたいという感情が、もう否定できなくなっていた。
扉を開けると、布の匂いが迎えてくれる。
「……おはようございます」
「おはよう」
イーリスは、作業台から顔を上げた。
その瞬間、胸の奥が少しだけ跳ねる。
ーーこういうのも、なんか久しぶりだな。
「今日は早いですね」
「……はい。目が覚めてしまって」
理由は言わない。
彼も、深くは聞いてこない。
「……今日は、時間ありますか」
言葉が先に出た。
イーリスは、一瞬だけ目を瞬かせてから頷く。
「ええ。そうですね、昼までは」
その答えに、胸がほっとする。
「……あの」
少しだけ、“特別な言い方”になる。
「……町の外、少し歩きませんか」
言ってから息を詰める。断られてもおかしくない。
けれど、イーリスは迷わなかった。
「いいですね。そうだな……北の丘なら、風も気持ちいい」
それだけで、今日一日が少し特別になる。
町を出る道は、静かだった。
二人で並んで歩く距離が、昨日より少し近い。
会話は途切れがちだ。でも、沈黙が苦しくない。
「……この町」
イーリスが、ぽつりと言う。
「あなたが来てから、少しだけ……空気が変わりました」
心臓が、トクンと小さく鳴る。
「……いい方に、ですか」
「ええ」
「派手じゃないけど……こう、落ち着いた、というか」
それは、色糸魔法の話ではない。
“ここにいる”という事実が、生んだ変化。
「……私、何もしてないのに」
「それでも人は……安心するんだと思います」
その言葉が、ルーミアの中に静かに残る。
丘に着くと、町全体が見渡せた。
低い建物。
ゆっくり動く人影。
涼やかな風。
「……ここで、暮らすのも……」
イーリスが言葉を濁す。
続きは言わなかった。
でも──
十分だった。
ルーミアの中で形を持った。
ここで、普通に生きる未来。
朝目を覚まし、仕事を手伝い、夕方同じ景色を見る。
色糸魔法を使わずに。削れないまま。
「……見ておきたい」
気づけば、そう口にしていた。
「……え?」
「……その未来」
自分でも、驚くほど落ち着いた声。
「……ちゃんと見てから、選びたいんです」
イーリスは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷く。
「それは、いい考えだと思います」
否定しない。押しつけない。
それが何よりも、心に響いた。
色糸が見える。
彼と自分を結ぶ糸は、まだ細い。
でも確かに、以前より成長し、“未来”を含んでいる。
丘を下りたあと、二人は町へ戻らず、そのまま外れの道を歩いた。
「この先に、小さな市場があるんです」
イーリスが言う。
「町の人しか来ない、本当に小さなところですけど」
「……行ってみたいです」
返事は、考えるより先に出た。
石畳ではない、踏み固められた土の道。
靴裏に伝わる感触が、どこか柔らかい。
「旅の途中だと、こういう場所、通り過ぎてしまいますよね」
イーリスの言葉に、小さく頷く。
「……目的地があると……寄り道できなくて」
それは旅の話であり、人生の話でもあった。
市場は本当に小さかった。
露店が数軒。野菜と布、簡単な焼き菓子。
「……静かですね」
「ええ。でも、私は好きです」
イーリスは、自然に隣に並ぶ。
距離は、昨日よりもなんだか近い。
「……甘い匂い」
ルーミアが言うと、彼が一つの店を指差した。
「焼きリンゴです。この町の、ちょっとした名物で」
「……食べてみたい」
そう言った瞬間、自分が“旅人”ではなく、“町の人”としてここにいる気がした。
イーリスは、何も言わずに代金を払い、紙に包まれた焼きリンゴを差し出した。
「……ありがとうございます」
受け取る指先が、一瞬だけ触れる。
それだけで、耳がふっと温かくなる。
一口かじると、思ったよりも甘かった。
「……おいしい」
「でしょう」
その笑顔に、つられて笑ってしまう。
ーー笑ってる。
自覚した瞬間、胸が少しだけ、きゅっとする。
ーーああ。やっぱり私は。
色糸が見える。
町とイーリスを結ぶ糸。
町と自分を結ぶ糸。
どれも、今は穏やかだ。
「……こういう時間が、続いたら」
ふと、イーリスが言う。
「……続いたら?」
「あ、……いえ」
言いかけて、止める。
その仕草が、逆に想像を膨らませる。
ーー続いたら。
朝、起きて。
仕事をして。
一緒に食事をして。
同じ町に帰る。
色糸魔法は、使わない。感情は、削れない。
「あの……ルーミアさん」
イーリスが、少しだけ真面目な声になる。
「っ……」
体が勝手に反射して、おかしな反応をしてしまう。
──耳が熱い。
「ここにいる間……無理に答えを出さなくていいと思います」
その言葉は、温かさに包まれていた。
ーーああ、なんて、優しい人なんだろう。
同時に、逃げ道でもある言葉だった。
「……はい」
そう答えながら、胸の奥で何かが揺れる。
無理に決めなくていい。
それは今の自分にとって、とても甘い言葉だ。
市場を出る頃には、昼が近づいていた。
町へ戻る道すがら、風が吹く。
布の端が揺れ、イーリスがそれを押さえる。
「……この町で」
ルーミアは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「……普通に生きる、って……」
「ええ」
「……思っていたより……悪くないです」
正直な言葉だった。
イーリスは、少しだけ目を細める。
「……そう思ってもらえたなら、嬉しいです」
その“嬉しい”が、胸にまっすぐ届く。
色糸が、ほんのわずかに張る。
でもまだ、決定的なものではない。
「……今日は」
町が見えてきたところで、ルーミアが言う。
「……ありがとう、ございました」
「こちらこそ」
別れ際、二人は、ほんの一瞬立ち止まる。
手を伸ばせば、触れられる距離。
でも、どちらも動かない。
それが今の関係だった。
宿へ戻る途中、胸の奥に、はっきりとした感情がある。
これがきっと、幸せなんだろう。
それは疑いようのない事実。
宿に戻ると、廊下の奥でノエルが窓を開けていた。
夕方の光が、部屋に長く差し込んでいる。
「おかえり」
「……うん」
声が少しだけ弾んでいるのを、自分でも自覚していた。
ノエルは、それを指摘しない。
代わりに椅子を引いて座った。
「どうだった」
問いは短い。でも、答えは簡単ではなかった。
「……楽しかった」
まずは、それ。嘘ではない。
「……ちゃんと、幸せになれる未来が……想像できた」
言葉にすると胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ノエルは、少しだけ目を伏せた。
「……そう」
否定はない。遮りもしてこない。
「……ここに残る、って……」
続けようとして、言葉が止まる。
その続きを言い淀んだこと自体が、もう答えだった。
「……怖い?」
ノエルの問いは、優しかった。
「……ううん」
首を振る。
「……安心、しすぎて……」
その言葉に、ノエルはわずかに眉を動かす。
「安心、しすぎる?」
「……ここにいれば……編まなくていいし、削れない。誰かの人生に、踏み込まなくていい」
一つ一つ、言葉にしていく。その度に、瞼の奥と頬に熱を帯び、言葉とともに静かに流れ落ちていく。
「……でも」
声が、少しだけ震える。
「……それを選ぶと……」
何かが、胸の奥で、強く主張し始める。
ーー見てしまう。
あの少年。井戸のそばの女性。輪に入れなかった子ども。
「……私」
ルーミアは、はっきりと口にした。
「……見なかったことにできない。……色糸魔法を使うかどうかじゃない。見えてしまった時点で……私は、もう……」
ノエルは、静かに頷いた。
「戻れない」
代わりに、言ってくれた。
「……それが、あんたの決意なんだね」
胸が少しだけ痛む。
でも、否定したくはなかった。
「ここで、幸せになることは……逃げじゃない」
ノエルは、はっきりと言う。
「正しい選択でもある」
その言葉に救われる。
でも同時に、別の感情も、はっきりする。
「……それでも」
ルーミアは、深く息を吸った。
「……私は……色を失ったまま、立ち尽くす人を、一人にしたくない」
それは、使命感ではなかった。正義感でもない。自分がそういう人間だと知ってしまった、という事実だった。
窓の外で、夕日が沈み始める。町が、柔らかな色に包まれる。
ーーここで、生きる未来。
それは確かに温かい。
でもその未来には、『見てしまう自分』がいない。
「……だから」
小さく、でもはっきりと。
「……もう少しだけ……旅を、続けたい」
ノエルは、何も言わずに立ち上がった。
そして、ルーミアの頭に、そっと手を置く。
「……いいんだよ」
その一言で、胸の奥が、すっと定まる。
「よく……決めたね」
夜、一人になった部屋で、ルーミアはベッドに腰掛けた。
今日一日を思い返す。
笑ったこと。甘かった時間。確かに感じた幸福。
「……ちゃんと見た」
それが、何よりも大切だった。
ーーだから、選べた。
色糸は今も見えている。
それは、祝福でも呪いでもない。
自分が生きる場所を照らしてしまう光。
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