第18話 それでも見えるもの
その日は、町で小さな騒ぎがあった。
大事には至らない。怒鳴り声も、泣き声もない。
ただ、通りの一角に人が集まっていた。
「……何か、あったのかな」
ルーミアが立ち止まると、ノエルも足を止める。
「行ってみようか」
二人が近づくと、人垣の中心に一人の少年がいた。
年は十歳前後。
抱えている籠の中には、織物用の糸が散らばっている。
どうやら、誤って落としてしまったらしい。
「……ごめんなさい」
少年の声は小さい。
「急がなくていい」
周囲の大人たちは、責めてはいなかった。
誰かが拾い、誰かが籠に戻す。それだけの、よくある光景だ。
なのに、ルーミアの胸がわずかに軋んだ。
色糸が見える。少年から町へと伸びる糸。
細く、淡く、所々が擦り切れている。
「……」
目を逸らそうとしても、視界から消えない。
少年も困っているわけではない。周囲も善意だ。
ただ、このまま放っておかれる感情が、はっきりと見えてしまう。
「……ねえ」
思わず声をかけていた。少年がこちらを見る。
「これ、どこへ運ぶ糸なの?」
「……工房に」
「一人で?」
「うん」
答えは素直だった。
色糸が微かに揺れる。
期待でも不安でもない。
ただ、頼れないという感情。
それはとても静かで、とても見落とされやすい。
「……私が一緒に行こうか」
言った瞬間、胸の奥がひやりとした。
ーー何をしているんだろ。
これは編む話ではない。
魔法を使わなくてもできることだ。
見えてしまったことで、この一歩を踏み出してしまっているだけ。
少年は、少し迷ってから頷いた。
「……ありがとう」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
工房までは、ほんの数分だった。
途中、少年は多くを語らない。ただ、籠を抱え、隣を歩く。
工房に着くと、中から大人が出てきた。
「おお……助かったよ」
それで終わりだ。誰も、特別なことだとは思っていない。
帰り道、ノエルが言う。
「編んでいない」
「……うん」
「魔法も、使っていない」
「……うん」
それなのに胸の奥が、少しだけ重い。
「……見ちゃったから、だよね」
ルーミアの言葉に、ノエルは頷いた。
「そうなのかもね」
短い言葉。
色を失ったままの、立ち尽くす人を一人にしない。
その想いは、魔法を使うかどうかとは、別の場所にある。
「……ここにいても」
ルーミアは通りを見渡す。
「見えてしまう」
色糸は、この町にも確かにある。
切迫していないだけで、消えてはいない。
「ここにいても、私は……」
言葉が途中で止まる。
答えは、まだ出ない。
でも幸せな日常の中でも、ルーミアの原点になっている気持ちや思いは、静かに息をしている。
それからの数日間、ヴァイスは穏やかだった。
何かが壊れることもなく、
何かが劇的に変わることもない。
朝は同じ時刻に目が覚め、
昼は同じ通りを歩き、
夕方には、空の色を眺める。
ーー理想的な日常。
そう呼んでも、差し支えないほどだ。
仕立て屋<フェン>を訪れる回数も、自然と増えていた。
「……こんにちは」
「こんにちは」
挨拶は、少しだけ柔らかくなってきていた。
イーリスは、忙しそうな時もあれば、手を止めて話してくれる時もある。
無理に距離を縮めない。
無理に踏み込まない。
それが心地よかった。
「……この町に来てから、よく眠れるんです」
ぽつりと零した言葉に、イーリスは少し驚いた顔をした。
「それは良かったです」
「削れない、というか……」
言葉を選ぶ。
「安心、できてる感じで」
彼は、深くは聞かなかった。
ただ小さく頷く。
「安心できる場所は大切です」
その一言が、胸の奥にじわりと染み込む。
ーーここにいれば。
そんな考えが何度も浮かぶ。
けれどそれと同時に、通りを歩けば色糸が見えてしまう。
重たいものではない。
今すぐ助けが必要なわけでもない。
ただ、誰にも拾われないまま、そこにある感情。
倉庫の前で立ち尽くす老人。
言葉にしない後悔。
誰にも見せない寂しさ。
市場で値札を付け直す女性。
諦めと、まだ消えていない期待。
「……」
立ち止まり、視線を逸らす。
編まない。
使わない。
そう決めている。
それでも、見えてしまうこと自体は止められない。
宿へ戻る途中、ノエルが言った。
「最近、足を止める回数が増えたね」
「……見えてしまうから」
「編まなくても、それは消えない」
「……うん」
それが、分かってしまったからこそ、胸が重い。
「……それでも、ここにいるのは……」
言葉が続かない。
ノエルは、少しだけ間を置いてから言う。
「幸せだから、でしょう」
否定できなかった。
削れない。痛くならない。
誰かの感情を背負わなくていい。
「……それって、悪いことかな」
「悪くはない」
即答だった。
「でも……あんたがそれを続けられるかは、別」
その言葉が、胸に静かに刺さる。
夜、仕立て屋を出ると、通りの向こうで子どもたちが遊んでいた。
笑い声に追いかけっこ。
その中に一人だけ、輪に入れていない子がいる。
色糸は、羨望、遠慮、声にしない孤独。
「……」
足が一歩、前に出かける。
ーーだめ。
ここで何かをすると、自分が壊れる。
そう分かっていても、胸の奥がきゅっと締まる。
「……今日は、やめよう」
自分に言い聞かせて、踵を返す。
部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。
今日も色糸魔法は使っていない。感情も削れていない。
それなのに、胸が少しだけ疲れている。
「……使わないって、楽なはずなのに」
呟いた声は、静かな部屋に溶けた。
楽だ。確かに。
でも楽であることと耐えられることは、同じじゃない。
このヴァイスの町で、幸せな日常は確かにある。
それでも、見えてしまうものが消えるわけではない。
夕方、ヴァイスの空は薄く曇っていた。夕焼けになりきれない光が、町全体をやさしく包んでいる。
ルーミアは、宿へ戻る途中で足を止めた。
小さな広場の端。古い井戸のそばに、一人の女性が立っている。誰かを待っているわけではない。泣いているわけでもない。ただ、動いていない。
色糸は、強い色ではない。けれど、はっきりと欠けている部分があるように思えた。
後悔。選ばなかった道。言えなかった言葉。
「……」
胸の奥が、静かに締めつけられる。
助けを求めているわけじゃない。
誰かに気づいてほしいとも、口にしていない。
それでもこのまま、何も起きずに終わってしまう感情が、確かにある。
ーー編む。
自然にその考えが浮かぶ。
色糸魔法。
使えば、彼女の心は少し整う。
世界の色も、ほんの少しだけど戻る。
でもその代償は、自分の感情。
「……やめよう」
小さく、そう呟く。
ここでは使わないと決めた。
一歩、距離を取る。
その瞬間、女性が、ふっと顔を上げた。
目が合う。ほんの一瞬。
彼女は何も言わず、小さく会釈をしてその場を離れていった。
それだけだった。
助けなかった。何も、起こさなかった。
それなのに、全身が……ずしりと重い。
「今の」
振り返ったノエルが低く言う。
「編めたよね、きっと」
「……うん」
「でも編まなかった」
「……うん」
どちらも間違いではない。それが、一番苦しかった。
ルーミアは、ゆっくりと息を吐く。
「私……見なかったことにできなかった。編んだ場合のこと考えてた」
ノエルは静かに頷いた。
「それがあんたよ」
その言葉は、肯定でも励ましでもなく、事実だった。
仕立て屋<フェン>の前を通ると、店の灯りがまだ点いている。
迷った末、扉を叩いた。
「……こんばんは」
「こんばんは」
イーリスは、作業台から顔を上げた。
「遅い時間に……」
「……少しだけ」
理由をうまく説明できない。
それでも、ここに来てしまった。
「どうしましたか」
心配する声。
「……何も、してないのに」
言葉が少し詰まる。
「……疲れました」
正直な言葉だった。
イーリスは、何も言わず椅子を勧めた。
「座ってください」
それだけだった。
理由も解決策も求めない。
「この町は静かで……幸せに、なれると思います」
ルーミアは視線を落とし言葉にした瞬間、胸がきゅっと痛む。
「……それでも、見えてしまうんです」
イーリスは何も聞き返さなかった。ただ、静かに待つ。
「誰にも言えない感情とか、置いていかれた気持ちとか……それを、見なかったことにできなくて」
しばらくして、イーリスが口を開く。
「それは、優しさなんだと思います」
その言葉に首を振る。
「……優しさじゃ、ないです。逃げられないだけなんです」
胸が痛む。イーリスは少し考えてから言った。
「それを否定しなくてもいいと、私は思います」
その言葉は、留まる理由にも去る理由にも成り得た。
店を出ると、空はすっかり暗くなっていた。
宿へ戻る道すがら、ルーミアは、はっきりと自覚する。
ーーここにいれば、幸せになれる。
それは嘘じゃない。
でも私は、見てしまう人間だ。
それは、色糸魔法を使うかどうかとは関係がない。
“見えてしまう”こと自体が、もう戻れないことを示してるのかもしれない。
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