第17話 ほどけた日常
ヴァイスで過ごす三日目の朝は、これまでで一番自然だった。
目覚めた瞬間、「ここはどこだろう」とは考えない。
窓の外の通りを見て、ああ、と納得する。
それだけで一日が始まる。
「……慣れたね」
ルーミアが言うと、ノエルは小さく鼻を鳴らした。
「人は、環境に順応する」
それは、褒め言葉でも皮肉でもなかった。
朝食を済ませ、町を歩く。
通りを歩く人たちは、もう二人を旅人扱いしない。
すれ違いざまに、軽く会釈を交わす程度だ。
「おはよう」
「ええ、おはよう」
それだけのやり取りが、小さな安心を落としていく。
ーーこういうの、久しぶりだ。
ルーミアは、無意識に息を深く吸っていた。
色糸は見えている。
けれど、編まなければならないほど切迫したものは、今はない。
それが、ありがたいと思えてしまう。
通りの角を曲がると、仕立て屋<フェン>の前で、イーリスが布を干していた。
「……おはようございます」
声をかけると、彼は顔を上げて、少し驚いたように目を瞬かせた。
「おはよう。もう散歩ですか」
「……はい。特に用事もなく」
そう答えると、イーリスは少しだけ笑った。
「この町は、用事がなくても歩けます」
その言葉に小さく頷く。
彼の言葉は、いつも“急がせない”。
それが、今のルーミアにはとても心地よかった。
「外套、調子はどうですか」
「……とても。直してもらって良かったです」
「それは良かった」
そう言って、布を整える。
その仕草を見ていると、時間の流れが少しだけ緩やかになる。
「……今日は、町の北側まで行ってみようかと」
イーリスが何気なく言った。
「古い倉庫があって、景色がいいんです」
誘いというより、共有に近い口調。
「……いいですね」
答えがすぐに出たことに、自分でも驚いた。
「ノエルは……」
「私は別行動するわ」
即答だった。
「……いいの?」
「あんたが、休む時間」
その言葉に、胸が少しだけきゅっとなる。
休む。
それは、色糸魔法を使わないという意味だけではない。
感情を、誰かと共有すること。
町の北側へ向かう道は、人通りが少ない。
並んで歩く距離が、自然と近くなる。
「……旅、大変ですね」
イーリスがぽつりと言った。
「……はい」
「それでも続けてる」
「……はい」
理由はまだ言語化できない。
でもここでは、理由を説明しなくてもいい。
「……ここにいる間は」
イーリスは前を見ながら言った。
「何も、考えなくていいと思います」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ーー何も考えなくていい。
それは、色糸の魔導士である自分にとって、ほとんど許されてこなかった感覚だ。
倉庫跡に辿り着くと、町が一望できた。
低い建物。
静かな通り。
変わらない景色。
「……綺麗」
「派手じゃありませんが」
「……でも、落ち着きます」
その言葉に、イーリスは小さく頷いた。
色糸が見える。
彼と、この町を結ぶ糸。
穏やかで無理がない。
それを見て、胸の奥が少しだけ疼く。
心臓がこれまでにはなかった動きをした。
ーーここにいれば。
この景色の中で、
この人の隣で、
年を重ねる未来があるのかもしれない。
その考えが初めて、はっきりと浮かんだ。
町の北側から戻る頃には、陽はすでに傾いていた。
昼と夕方の境目。
一日の中で、一番色がやわらぐ時間だ。
「……案内、ありがとうございました」
「いえ。私も久しぶりに、あそこまで歩きました」
イーリスはそう言って、少し照れたように笑った。
それだけのことなのに、胸の奥がふわりと軽くなる。
ーーこういう感覚、いつぶりだろう。
宿へ戻る途中、ノエルと合流した。
「どうだった」
「……静かで、綺麗だった」
それ以上、言葉が出てこない。
ノエルは何も追及しなかった。
「それなら良かった」
それだけ言って、少し前を歩く。
その背中に不思議な安心を覚える。
夕食は、宿の女将が出してくれた簡素な煮込みだった。
派手な味付けはない。
でも、身体にすっと染みる。
「……おいしい」
そう口にした瞬間、女将が少し驚いた顔をした。
「そうかい?それなら良かったよ」
そのやり取りが、なぜだか胸に残る。
ーー私、ちゃんとここにいる。
食後、ルーミアは一人で外に出た。
夜の町は、昼よりも静かだ。
通りの灯りが、ぽつぽつと灯り、影が長く伸びる。
仕立て屋の前を通ると、店はもう閉まっていた。
けれど、窓の奥には灯りがあり、誰かが動いている気配がある。
ーーまだ、仕事してるんだ。
そのことを、自然に思っている自分に気づいてしまう。
色糸が見える。
イーリスと、町を結ぶ糸。
そして
ーー私と、彼を結ぶ糸。
それはまだ細い。
でも、確かにそこにあって、少しずつ、絡み始めている。
「……危ない、な」
小さく呟く。
惹かれている。
それを否定できなくなっている。
部屋に戻ると、ノエルが窓際に立っていた。
「顔、少し柔らかくなったね」
「……そう?」
「ここに来てから一番だ」
その言葉に、胸が少しだけ痛む。
「……これでいいのかな」
思わず本音がこぼれる。
「編まなくて。誰も助けなくて」
ノエルは、少し考えてから答えた。
「何もしないのも、選択」
「……でも」
「それが正しいかどうかは、今は決めなくていい」
その声音は、突き放すものではなかった。
「私は……あんたが、ちゃんと迷ってるのが嬉しい」
その言葉に、ルーミアは驚いて目を見開く。
「……どうして?」
「前は、迷う前に編んでいた」
確かにそうだ。
色糸を見て、迷う前に手を伸ばしていた。
「今は……立ち止まってる」
ノエルは静かに続ける。
「それは、弱さじゃない」
「……」
「自分の人生を、考え始めた証だ」
その言葉が、胸の奥にゆっくりと沈む。
ベッドに横になると、今日一日の出来事が順に浮かんでくる。
景色。
笑顔。
並んで歩いた時間。
そして、色糸魔法を一度も使わなかった事実。
削れていない。
それだけで少し安心する自分がいる。
ーーこのまま、ここにいたら。
その考えがまた浮かぶ。今度は、否定せずに。
翌日は、朝から小さな雨が降っていた。強くはない。傘がなくても歩ける程度の、町を濡らすためだけの雨だ。
「……今日は、外はやめておこうか」
宿の女将がそう言って、朝食を少し長めに出してくれた。
ルーミアは、湯気の立つ椀を両手で包む。
「……はい」
温かい。それだけで、胸の奥が落ち着く。
ここでは、返事が短くても許される。
食後、特に予定はなかった。旅をしていた頃なら、次へ進む理由を探していた時間だ。けれど今は、理由を探さなくても、一日が始まってしまう。
「……仕立て屋、開いてるかな」
無意識に、そう口にしていた。
ノエルが、ちらりとこちらを見る。
「行きたいなら、行ってきなよ」
「……うん」
返事が少し早い。
雨の中を歩くと、通りはいつもより静かだった。
仕立て屋<フェン>の扉は、開いている。
中から、布を叩く音が聞こえた。
「……こんにちは」
声をかけると、イーリスが顔を上げる。
「今日は雨ですね」
「……はい」
それだけの会話。なのに、なぜか安心する。
「……この町、雨の日は余計に静かで」
「ええ」
彼は、窓の外を見やる。
「嫌いじゃないです」
その言葉が胸に残る。
ーー私も。
でも、その“私も”を、口には出さなかった。
棚に並んだ服を眺めていると、一着のワンピースが目に留まった。
淡い色。
派手ではない。
けれど、丁寧に作られている。
「……それ」
イーリスが気づいて、言う。
「町の人用に作ったんですが……サイズが合わなくて」
「……着る人、想像しながら?」
「ええ」
そう答えてから少しだけ言葉を濁す。
「……似合いそうな、人を」
その一瞬、視線が合った。
ほんの一瞬。
それだけで、胸の奥がきゅっとする。
ーーもっていかれた。
はっきり、そう思う。
これは、“楽”な感情だ。
削れない。
痛くならない。
だからこそ惹かれてしまう。
「……試してみますか」
イーリスが冗談めかして言った。
「……いえ」
すぐに首を振る。
「似合ったら……その、困るので」
思ったより素直な言葉が出た。
イーリスは、一瞬きょとんとしてから小さく笑った。
「それは……困りますね」
その笑顔を見て、胸が少しだけ苦しくなる。
ーーもし、似合ったら。
ーーもし、ここで暮らすなら。
雨音が二人の間を埋める。
沈黙は、居心地が悪くなかった。
「……ルーミアさん」
イーリスが静かに言う。
「ここにいる間は……無理に、何かにならなくていいと思います」
その言葉に、心臓が少し跳ねた。
「……何かに、ならなくていい?」
「ええ」
「旅人でも、町の人でも」
「……誰かを救う人でも」
その最後の言葉が、胸に、深く触れてくる。
「……ここでは、ただ、ここにいていい」
それは、今のルーミアが一番欲しかった言葉だった。
店を出る頃には、雨が止んでいた。
空気が澄み、通りに光が戻る。
宿へ向かう途中、ノエルが言った。
「随分、長かったね」
「……うん」
否定しない。
「……楽しかった?」
少しだけ、間を置いてから答える。
「……うん」
はっきり、そう言えた。
色糸は、相変わらず見えている。
けれど今は、それを理由に動かなくていいと思えている。
「……ここで」
夜、部屋で一人になった時、その考えが、はっきりと形になる。
「ここで、生きるのも……あり、なのかもしれない」
それは、逃げではなかった。
現実的で、温かくて、確かな選択肢だった。
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