第21話 歩き出す朝
朝のヴァイスは、いつもと変わらない音で満ちていた。
通りを掃く箒の音。遠くで開く扉。低く交わされる挨拶。
それなのに今朝は、一つ一つの音が、やけに胸に残る。
「……起きてる?」
ノエルが、控えめに声をかけてきた。
「……うん」
ベッドから起き上がり、窓の外を見る。
町は、相変わらず穏やかだ。
何も壊れていない。
何も失われていない。
それが、少しだけ苦しい。
「……出る、準備……」
言いかけて、言葉を止める。
「……今日だよね」
ノエルは頷いた。
「あんたが、そう決めたんだよ」
責める調子ではない。ただ、事実を確認する声。
「……うん」
昨日、答えは出さなかった。
でも選ばないという選択は、すでに選んでしまった。
荷物は多くない。外套、最低限の衣類、色糸魔導士としての証。それらを、一つずつ手に取る。
「……ここに来た時より……軽い、はずなのに……」
ぽつりと、零れる。
ノエルは、少しだけ視線を落とした。
「人は、選んだものの重さを、後から知る」
その言葉に、胸がきゅっと締まる。
宿の女将に鍵を返す。
「……もう、行っちゃうのかい」
「……はい」
女将は、少しだけ残念そうに笑った。
「静かで、いい子だった」
その一言が、胸に残る。
ーーいい子。
それは、ここに残る理由にも、去る理由にも、なった言葉。
外に出ると、朝の光が町を照らしていた。
仕立て屋〈フェン〉の前を、自然と見てしまう。
扉は、まだ閉まっている。
「……会っていく?」
ノエルが、低く尋ねる。
少しだけ、迷う。
会えば、足が止まる。
会わなければ、後悔が残る。
「……少しだけ」
そう答えた自分の声は、思ったよりも落ち着いていた。
扉を叩く。
しばらくして、中から足音。
「……はい」
イーリスが扉を開けた。
一瞬驚いた顔をしてから、すぐに柔らかく微笑む。
「……おはようございます」
「……おはよう」
それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……今日は……」
言葉を探す。
「……町を、出ます」
イーリスは、すぐには答えなかった。
けれどーー
驚きもしなかった。
「……そうですか」
その声は、穏やかだった。
「……少しだけ……」
ルーミアは、視線を落とす。
「……お礼を、言いたくて」
イーリスは何も言わずに、店の中へ招き入れた。
作業台の上には、昨日と同じ布。
変わらない風景。
「……この町で……」
ルーミアは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「……初めて、“ここにいてもいい”って……思えました」
それは、飾らない本音だった。
イーリスは静かに頷く。
「……それを、伝えてもらえただけで……」
少しだけ、言葉が詰まる。
「……私は、十分です」
「ありがとう」
その一言が、胸に深く沈み込む。
ーーだからこそ、行かなきゃいけない。
外に出ると、朝の光が一段と強くなっていた。
町の端へ向かう道。
振り返らないように、歩く。
でも、色糸は見えてしまう。
この町と自分を結ぶ糸。
穏やかで、
温かくて、
決して消えない色。
ーーさようなら
声に出さず、胸の中で呟いた。
町の端へ向かう道は、朝の光を真正面から受けていた。
舗装されていない土の道。
馬車が通った跡がそのまま残っている。
「……もう、ここを越えたら……」
ルーミアが言いかけると、ノエルは歩調を緩めた。
「町の外だね」
「……うん」
その一言で、胸の奥がきゅっと縮む。
ヴァイスはもう、背中側にあった。
振り返れば、すぐそこに戻れる距離。
それが、一番つらい。
道の脇で、一人の老人が立ち止まっていた。
荷車の片輪が外れている。
大事ではない。
力仕事が少し必要なだけだ。
「……あ」
ルーミアの足が止まる。
色糸が見える。
困惑。
諦め。
誰にも頼らない癖。
ーー編むほどじゃない。
魔法を使う必要は、ない。
「……手伝いましょうか」
声をかけると、老人は驚いたように顔を上げた。
「……いいのかい」
「……はい」
ノエルが黙って荷車の反対側に回る。
二人で力を合わせると、輪はすぐに戻った。
「……助かったよ」
老人は、何度も頭を下げる。
「この町の人は……親切だな」
その言葉に胸が、少しだけ痛む。
ーー私も、この町の人だった。
「……気をつけて」
それだけ言って、立ち去る。
魔法は使っていない。
色糸も編んでいない。
それなのにーー
胸の奥が、ざわつく。
「……今の」
ノエルが言う。
「編まなかったな」
「……うん」
「それでも、立ち止まった」
「……うん」
どちらも、自分の選択だった。
町を出る道に、小さな橋がある。
その手前で足音が聞こえた。
「……ルーミアさん」
振り返ると、イーリスが立っていた。
息が少し上がっている。
「……すみません……間に合って……」
言葉が、それ以上続かない。
ノエルは、一歩下がった。
何も言わず、距離を作る。
「……来てくれたんですね」
「……ええ」
イーリスは、橋の手前で足を止めた。
それ以上近づかない。
「……何も、言うつもりは……なかったんです」
そう前置きしてから、続ける。
「……でも……顔を見ずに……終わるのは……」
言葉が途中で切れる。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「……ありがとう」
ルーミアは、はっきりと言った。
「……ここで……“普通の未来”を……ちゃんと見せてくれて」
それは、告白でも、別れの言葉でもない。
でもーー
本心だった。
イーリスは、ゆっくりと息を吐く。
「……それなら」
少しだけ、笑う。
「……私は、それで……救われます」
その言葉に、胸が強く揺れる。
ーー救われる。
自分が誰かを救った。
色糸魔法を、使わなくても。
「……行ってください」
イーリスは、はっきりと言った。
「……あなたは……歩く人です」
その言葉は、背中を押すためのものだった。
橋を渡る。
木の板が、きしりと鳴る。
振り返らない。
振り返ったら、戻ってしまう。
それを、自分が一番よく知っていた。
橋を渡りきった時、胸の奥が静かに痛んだ。
色糸が一本、ゆっくりと伸びる。
町と、自分。
切れない。
でも、離れていく。
橋を渡りきると、道はゆるやかに上り始めた。
振り返らなければ、ヴァイスはすぐに見えなくなる。
それが、この町らしい別れ方だった。
「……」
ルーミアは、無意識に歩調を落としていた。
足は前に進んでいるのに、胸の奥が、まだ町の中に置き去りになっている。
「……痛い?」
ノエルが、隣を歩きながら言った。
問いは短い。
答えを急かさない。
「……うん」
正直に、そう答えた。
「……でも……」
少し間を置く。
「……ちゃんと、見てきた痛さだと思う」
それは、言い訳ではなかった。
ノエルはそれ以上、何も言わない。
ただ、歩調を合わせる。
丘を越えると、完全に町が見えなくなった。
視界にあるのは、続く街道と遠くの空だけ。
「……私」
ルーミアは、自分でも驚くほど、落ち着いた声で言った。
「……もし、あの町に……色糸魔法がなかったら……」
「……残ってた、と思う?」
「……うん」
即答だった。
「……幸せに、なれたと思う」
その言葉は後悔ではない。
選ばなかった未来を、ちゃんと肯定している。
「……それでも」
続ける。
「……私は……見えてしまう」
「……色を失った人を……そのままにはできない」
ノエルは、小さく頷いた。
「それを受け入れた」
「……うん」
受け入れた。
諦めではない。
覚悟とも、少し違う。
自分が、そういう人間だと知ってしまっただけ。
「……でも」
ルーミアは、少しだけ微笑んだ。
「……もう……“普通の幸せ”がどんなものか……知らないままじゃ、なくなった」
その言葉にノエルは足を止める。
「それは、大きい」
「……うん」
ヴァイスで得たものは、失ったものより確かに多い。
ーー幸せになれたかもしれない、という記憶。
それは、これから削れていく感情の中で、確実にルーミアを支える。
少し歩いた先で、街道の分かれ道に出た。
道標には次の町の名前。
まだ見ぬ土地。
まだ見ぬ色。
「……また、見えてしまうね」
ルーミアが言うと、ノエルは小さく笑った。
「今度は、覚悟した上で、だね」
「……うん」
胸の奥に静かな熱が灯る。
それは使命感ではない。
正義でも義務でもない。
自分で選んだ道を歩くための熱。
ルーミアは外套の留め具を整えた。
ペンダントが、胸元で小さく揺れる。
色糸魔導士としての証。
「……行こう」
自分からそう言った。
ノエルは一歩前に出る。
「次は、どんな町だろうね」
「……きっと……また、編めないものが……たくさんある」
それでも、足は止まらない。
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