第15話 色が薄れる朝
朝の空気は、昨夜の雨をまだ含んでいた。
セルマの村を包んでいた雲は低く、太陽は姿を見せていない。
それでも夜明けは訪れ、家々の戸が静かに開いていく。
ルーミアは、早くに目を覚ましていた。
眠れなかったわけではない。
夢も、見ていない。
ただ、起きた瞬間胸の奥に、何も引っかからない感覚があった。
「……?」
違和感は小さい。
けれど、確かだ。
昨日、色糸魔法を使った。
ほんの短い詠唱。
小さな成功。
その“代償”が今になって、静かに輪郭を持ち始めている。
上着を羽織り、外に出る。
村の色は、まだ残っている。
畑も、家も、人の声も。
だがーーどこかが薄い。
実際に色が失われたわけではない。
視界が曇っているわけでもない。
色を受け取りづらくなっている。
その事実に、ルーミアは気づいてしまった。
「……昨日、使ったからだ」
小さく、そう呟く。
疲れているのとは違う。
体力も、魔力も、問題ない。
ただ、“感じ取る余地”が少し削れている。
色糸魔法は、他人の感情を編み直す。
そのたびに自分の感情が、わずかに、少しずつ磨り減っていく。
それを、頭では理解していた。
でもーーこうして実感するのは、初めてだった。
井戸のそばで、村人が挨拶を交わしている。
声はある。
表情もある。
なのに、その温度が昨日より遠い。
「……おはようございます」
声をかけると、返事は返ってくる。
普通だ。
何も変わっていない。
変わったのはーー自分だけ。
ノエルが背後から近づいてくる。
「起きるの、早いな」
「……うん」
短く答える。
理由を説明する言葉が、すぐには見つからない。
色糸が見える。
けれど、昨日より少し淡い。
焦点を合わせるのに、ほんの一瞬の意識を要する。
「……ノエル」
「どうしたの」
「色が……薄くなった気がする」
ノエルは、周囲を一瞥する。
「村は変わっていない」
「うん……」
否定はしてこない。
「……私の方が」
その言葉を口にしたとき、胸の奥がひやりとした。
これは、休めば戻るものではない。
昨日の雨のように、時間が流せば消える疲労ではない。
使った分だけ、確実に減っている。
昨日の小さな成功。
その代償が、今日の“薄さ”だ。
「……でも」
ルーミアは、前を見る。
街道は、続いている。
次の土地も、きっと待っている。
「……まだ、使える」
声は、はっきりしていた。
削れたのは、すべてではない。
けれどーー
削れ始めたことを、もう誤魔化せない。
ノエルは何も言わない。
ただ、歩き出す。
ルーミアも、それに続く。
色が薄れる朝。
それは、世界の変化ではなく、自分自身の変化だった。
セルマを出てしばらく歩くと、街道は、低い森に差し込んだ。
雨を含んだ土は柔らかく、足音は吸い込まれるように消えていく。鳥の声が、ところどころ途切れながら響いていた。
ルーミアは、周囲を意識的に見渡していた。
色糸は見える。
ただしーー昨日までより、確実に淡い。
糸そのものが薄くなったわけではない。
自分の感覚が、以前ほど鮮明に反応していない。
「……やっぱり」
小さく息を吐く。
昨日、色糸魔法を使った。
ほんの一度。
短い詠唱。
それでもーー確実に、削れている。
「……来るな」
ノエルが足を止めた。
前方の木々の間から、二人の人影が現れる。
一人は若い女性。
もう一人は年配の男性だった。
女性の顔は青白く、歩調も安定していない。
男性が必死に支えている。
「すみません……!」
男性が、こちらに気づいて声を上げた。
「この先の村で……娘が、急に……」
言葉が途切れる。
色糸が、はっきりと見えた。
娘と父親を結ぶ糸は、強く張り詰め、今にも切れそうになっている。
恐怖。
焦燥。
後悔。
ーー編めば、落ち着く。
それは、はっきりと分かる。
色糸魔法を使えば、娘の感情は整い、呼吸も、心拍も、安定するだろう。
確実な結果。
だが、ひたりとルーミアの足が止まる。
胸の奥に、今朝感じた“薄さ”がよみがえる。
昨日の代償。
色を受け取りづらくなった感覚。
ーーここで使えば、また削れる。
それが怖いわけではない。
どれだけ削れるのかが、分からないことが、怖かった。
「……少し、待ってください」
ルーミアは、そう告げる。
娘は、荒い息を繰り返している。
時間はあまりない。
ノエルが短く言う。
「使えば、助かる」
事実だった。
否定も、誇張もない。
「……うん」
ルーミアは頷いた。
分かっている。
だからこそーー選ばなければならない。
深く息を吸い、
胸元のペンダントに触れる。
「──色糸魔法」
詠唱は澄んでいた。
言葉に乱れはない。
だが、色糸を掴む瞬間、朝よりもはっきりとした抵抗を感じる。
ーー重い。
魔力ではない。
感情だ。
他人の感情を引き寄せるたび、自分の中の何かが、薄く、削られていく。
それでも、手は止めない。
色糸は集まり、女性の衣服の裾に、淡く編み込まれる。
呼吸が落ち着く。
震えも収まってきた。
成功だ。
父親は、深く、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます……!」
娘は、まだ朦朧としているが、確かに峠は越えた。
ルーミアはその場に立ったまま、一瞬視線を落とす。
胸の奥が、ひやりとする。
朝よりもさらに一段、遠のいた。
感情が消えたわけではない。
悲しくも、嬉しくもある。
ただ、それらに触れる距離が少し開いた。
「……大丈夫?」
ノエルが静かに尋ねる。
「……うん」
答えは、嘘ではない。
倒れるほどではない。
立っていられる。
歩ける。
でも、今朝感じた“薄さ”が、確実に増している。
それが色糸魔法を使った代償だということを、ルーミアは、はっきりと理解してきていた。
助けた。
成功した。
間違ってはいない。
それでも、何かを失った。
森を抜ける頃には、空が明るくなっていた。
雨雲は流れ、枝葉に残った雫が、陽を受けて静かに落ちていく。
世界は、何事もなかったかのように続いている。
助けた父娘は、何度も礼を言い、村へ戻っていった。
その背中を見送りながら、ルーミアは、自分の手を見つめる。
震えてはいない。
力も入る。
魔力が枯渇した感覚もない。
ーーでも。
「……さっきより、薄い」
言葉にした瞬間、胸の奥が冷えた。
朝に感じた違和感。
それが、はっきりと“増している”。
色糸は見える。
だが、感情の輪郭が、以前ほど自然に浮かび上がらない。
悲しみも不安も、手前に一枚、膜が張られたようだった。
「……使ったからだね」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
ノエルは足を止めた。
「そう」
即答だった。
「色糸魔法は、他人の感情を編み直す。その分、あんた自身の感情が、削れてく」
確認するような言い方ではない。
ずっと前から分かっていたことを、今、言葉にしただけだ。
ルーミアは頷いた。
「……頭では、分かってた」
色糸魔法を使えば、自分の感情が薄れていく。
それは、最初から知っていた“条件”だった。
知っているのと、実感するのは違う。
「……朝は、景色が少し遠く感じただけだった」
歩きながら言葉を繋ぐ。
「でも……今は……人の気持ちも、少し遠い」
嫌悪感はない。
恐怖もない。
ただ、確実な距離が生まれている。
「……これが、積み重なるんだよね」
ノエルは否定しない。
「一度で終わる代償じゃない」
その一言が、以前までの旅をはっきりと区切った。
ルーミアは立ち止まる。
街道の先には、次の町がある。
色を失いかけた土地も、きっと待っている。
「……それでも」
彼女は、前を見る。
「……使うと思う」
その言葉は、決意というほど強くはない。
迷いを含んだ、正直な答えだった。
「助かる人がいるなら……私は、たぶん編む」
ノエルは、しばらく黙っていた。
そして短く言う。
「だからこそ、立ち止まらなきゃいけない日が来る」
それは、予言ではない。
脅しでもない。
「今は、まだ進める」
そう言って、ノエルは歩き出す。
ルーミアも、その背中を追う。
色は、まだ見える。
感情も残っている。
けれど、確実に減り始めている。
それを否定せず、誤魔化さず、受け取ったまま歩く。
“まだ使える”という段階は、終わったのだ。
これから先は、使うたびに、何かを失う旅になる。
その覚悟が、静かに、ルーミアの中に根を下ろしていた。
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