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第13話 小さな成功

 街道は再び、人の通りが少なくなっていた。


ミレアを離れてから二日。

川沿いの湿った空気は薄れ、代わりに乾いた風が吹き始めている。


遠くに見えるのは、小高い丘と、その裾に寄り添うように建つ集落が見えていた。


集落エルドーー。


大きくはない。

けれど、完全に閉じてもいない。


家々の壁には色が残り、畑には作物も育っている。

人の気配も、はっきりと感じられた。



「……ここ、以前通った時より進んでない」


ルーミアが言うと、ノエルは周囲を見渡してから答える。


「止まってはいないけど、踏みとどまってるって感じだね」



集落に入ると、すぐに理由が分かった。


中央の広場に、一人の青年が立っている。


木箱の前に布を広げ、その上に小さな刺繍を並べていた。


人々が足を止める。

だが、誰も声をかけない。


近づくにつれて、ルーミアの視界に色糸が浮かび上がった。


青年から周囲の人々へ。


細い。

けれど、完全には切れていない。


「……あの人」


「気づいた?」


ノエルは、特に驚いた様子もなく言った。


「ここでは、ああやって場を保ってるみたい」


刺繍は拙い。

技巧的とは言えない。


それでも、色がある。


派手ではないが、確かに、意図して選ばれた色だった。



ルーミアは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


青年に声をかけたのは、集落の年配の男性だった。


「今日は、これで終わりか」


「ええ。あまり欲張っても疲れますから」


青年はそう言って、控えめに笑う。


そのやりとりを見て、ルーミアは確信する。

ーーここは、少しだけ整えればいい。


すべてを戻す必要はない。

壊れてもいない。


ほんの少し、揺れを抑える程度で。


「……ノエル」


「分かってる」


ノエルは止めなかった。

ルーミアは一歩、前に出る。


深く息を吸い、胸元のペンダントに触れた。



「……色糸魔法(クロマ・ウィーブ)


声は落ち着いている。

迷いはあるが、恐れはなかった。



色糸が静かに集まる。


青年と集落の人々の間。

刺繍布の余白に、細く、淡い糸が編み込まれていく。


派手な変化はない。

色が爆ぜることもない。


けれど糸が少しだが緩んだ。


「……お」


誰かが小さく声を漏らす。


青年の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


「……今日は、ここまでにしておきます」


その言葉に人々が頷いた。


無理に引き止める者はいない。

無理に期待する者もいない。


色糸は強くはならなかった。


それでも、切れなかった。



ルーミアは静かに息を吐く。


胸の奥に、わずかな疲労が残る。


けれど重くはない。


「……成功、だね」


自分でも驚くほど素直な言葉だった。


ノエルは短く頷く。


「ええ。小さいけど、確かにね」



小さな成功。


世界は変わらない。

劇的な救いもない。


それでもこの場所は、今日一日を越えられる。


その事実が、ルーミアの胸に、確かな手応えとして残っていた。


集落エルドに、夜が下りてきた。


広場の焚き火は小さく、人々は必要以上に集まらない。それでも、火の周りには誰かがいて、互いに距離を保ちながら、同じ方向を向いていた。



昼間の出来事が、波紋のように静かに広がっているのを、ルーミアは感じていた。


刺繍をしていた青年ーー

名を、アシェルというらしい。


その青年が、焚き火のそばに腰を下ろす。

彼の前には、昼に広げていた布が畳まれている。



「……さっきは、ありがとうございました」


唐突な礼だった。


「いえ……私、少し……手を添えただけで……」


言いながら、ルーミアは自分の言葉を噛みしめる。


手を添えただけ。


それは嘘ではない。

だが、すべてでもない。


アシェルは穏やかに言った。


「その少しのおかげで、今日は……ここまででいいって、思えました」


その言葉に、胸の奥が少しだけざわつく。


ここまででいい。

それは、救いにも諦めにもなる言葉だった。



「いつもは……もっとやらなきゃって思ってたところがありまして」


彼は、焚き火を見つめながら続ける。


「色が薄くなる度に、自分が止まったせいだって……」


「……」


「でも今日は……無理に進まなくても、大丈夫な気がしたんです」


ルーミアは、返す言葉を探す。


色糸魔法が、彼にそう思わせたのだとしたら、それは良いことなのだろうか。


「それは……」


肯定も否定もできず、ただの沈黙が流れる。


その間に、周囲の人々が、ちらちらとこちらを見ているのに気づく。


期待ではないけれど、遠慮がちにもそれに近い視線。


あの魔法で、この場所は今日を越えられた。


「……明日も、ああいうこと……できますか」


誰かが、控えめに尋ねた。


言葉は柔らかい。

押しつけでも、要求でもない。


それが余計に重かった。



ルーミアは、胸元に手を当てる。


まだ、疲れてはいない。

言葉もはっきりしている。


できる。そう答えることは簡単だった。


昼の感触が確かに残っている。


小さな成功。

ちょうどいい距離。

それ以上は、踏み込まなかったからこそ得られた結果。


「毎日は……分かりません」


正直にそう言った。


人々は、驚いたように瞬きをする。


拒絶ではない。

けれど、期待を切ってしまう言葉。


アシェルは、少しだけ考えてから頷いた。


「……そうですよね」


その理解の早さに、胸の奥がさらに揺れる。


分かってもらえたことへの安堵と、

分かってしまったことへの怖さ。


「でも……今日は十分です」


その一言で、場の空気が落ち着いた。

それ以上、誰も踏み込むことはなかった。


焚き火がぱちりと音を立てる。


小さな成功は確かにここにあった。


だが同時に、それが続けられないものだという感覚も、はっきりと輪郭を持ち始めていた。


ノエルが、少し離れた場所からルーミアを見る。


何も言わない。

評価もしない。


ただ、選んだことだけを見届けている視線だった。


ルーミアは、静かに息を吐く。


小さな成功は、確かに救いになる。


けれどそれは重さを伴う。

続けるほどに、選ぶたびに、その重さは増していく。


翌朝、エルドの空気は前日とほとんど変わらなかった。


焚き火の跡は片づけられ、人々はそれぞれの仕事に戻っている。

誰も急いでいない。


それが、昨日の成功の結果だと、ルーミアには分かっていた。


「……落ち着いてる」


無意識に、そう口にする。


ノエルは荷をまとめながら答えた。


「無理をしなかった結果だな」


その言葉は、肯定でも否定でもない。

事実の確認に近かった。



広場を通りかかると、アシェルが布を広げていた。


昨日と同じ場所。

同じ刺繍。


だが、今日は人が集まっていない。


それを見て、胸の奥が少しだけ軽くなる。


「……今日は、何もしないんですね」


声をかけると、アシェルは顔を上げて微笑んだ。


「ええ。昨日で、十分ですから」


その言葉に、ルーミアはほっとする。


これ以上のものを求められていない。

それが、何よりもありがたかった。


「もし毎日できたら……って、思いませんでした?」


少し迷ってから、尋ねた。


リオは特に考える間もなく言う。


「それはまあ、思いましたよ。でも……できるって分かった瞬間に、怖くなりました」


その言葉に、ルーミアは息を呑む。


「期待されるのも期待するのも……少しずつ重くなる」


刺繍布に視線を落としながら、彼は続ける。


「昨日は、“できた”で終われた。それがどこかこう……ちょうどよかったんです」



その感覚は、あまりにも、ルーミア自身の胸の内と重なっていた。


小さな成功。

確かに、救いになる。


けれど、続けることを前提にした瞬間、それは責任に変わる。



「……私も」


気づけば口にしていた。


「昨日のこと……嬉しかったです」


アシェルは、驚いたように彼女を見る。


「でも……続けて、って言われたら、少し怖かった」


怖いのは、失敗ではない。

成功が、次を呼んでしまうこと。


「……だから」


ルーミアは、静かに続ける。


「昨日で、よかったんです」


アシェルは深く頷いた。


「ええ。本当に」


その会話に、余計な言葉はなかった。


色糸も揺れていない。

編む必要は、どこにもない。


エルドを発つ準備をしながら、

ルーミアは、胸元のペンダントに触れる。



昨日、確かに魔法は成功した。

疲労も、ほとんど残っていない。


でも何かが、確実に削れている感覚があった。


体力ではない。

魔力でもない。


判断する力だ。


成功するかどうかだけではない。

成功したあとに、何が起きるかを考え続けること。


その積み重ねが、少しずつ重くなる。



「……小さな成功って、楽じゃないね」


歩き出しながらルーミアが言う。


ノエルは、少しだけ口角を上げた。


「大きな失敗より、厄介なこともある」

「……うん」


否定できなかった。



集落を振り返る。


エルドは、昨日と同じ姿でそこにある。

色も、人も、急には変わらない。


すべてを救わなくていい。

毎日、編まなくていい。


けれど編めると分かった以上、選ばずにいることは、もうできない。


その事実が、ルーミアの胸に静かに残る。


小さな成功は、確かに意味があった。


同時に、それが“限りあるもの”だということも、はっきりと示していた。


成功を、積み重ねるためではなく。

失敗を、恐れるためでもなく。


ただ、選び続けるために旅をする。


この旅はその重みを、確実に抱え始めていた。

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