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第12話 残った温度

 カランを離れて半日ほど歩いたところで、街道は川沿いに折れ、低い森へと入った。


水音が近い。流れは穏やかで、岸辺には小さな集落が寄り添うように並んでいる。


石と木で組まれた家々は古いが、手入れは行き届いていた。



「……ここは、まだ大丈夫そうだね」


ルーミアは周囲を見渡しながら言った。昨日までの迷いは残っているが、言葉を選ぶ余裕はあった。


「色も、人も、まだ繋がってる」


ノエルが頷く。



この集落ミレアは、街道から少し外れているせいか、褪色の進行が緩やかな場所だった。


井戸の周りでは子どもが走り回り、家の前では大人たちが作業をしている。

声があり、笑い声もある。



それでも、ルーミアの目には見えた。


人と人の間に、細くなりかけた色糸が、確かに存在している。


切れてはいない。

けれど、少し冷えている。


「……ここ、編む必要はなさそう」


ルーミアがそう言うと、ノエルは驚いたように一瞬だけ彼女を見る。


「判断が早いね」


「うん……昨日のことがあったから」


それ以上、説明はしなかった。

説明しなくても、ノエルは察したようだった。


集落に入ると、年配の男性が声をかけてくる。


「旅の方か。今日は泊まっていくといい」


警戒は薄い。

理由を探る必要もなさそうだった。


宿と呼べるほど大きな建物ではないが、客用の部屋はきちんと整えられている。


荷を下ろしたあと、ルーミアは外へ出た。



川辺で、洗濯をしている女性がいる。

濡れた布を絞る手つきは慣れていて、その動きに、どこか安心感があった。


布ーー。

父の仕事を思い出す。


干されている布は、鮮やかとは言えない。

それでも、完全に褪せてはいなかった。


「……この色」


無意識に、指先が動きそうになる。


色糸は見える。

ごく細く、淡いが、確かに。


ーー編むと、もっと良くなるかもしれない。


その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥に、昨日の感触がよみがえる。


編んだ結果、整わなかった空気。

閉じてしまった可能性。


ルーミアは、手を止めた。


「……今は、いい」


誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


洗濯をしていた女性が、ふと顔を上げた。


「旅の人?」


「はい」


「この辺りは、静かでしょう」


微笑みながら言う。

その表情に、色糸の乱れはない。


「昔は、もっと賑やかだったけどね。今は……まあ、これでいいと思ってるよ」


「……不安は、ないんですか」


ルーミアは、自然とそう尋ねていた。


女性は少し考え、肩をすくめる。


「あるよ。でも、全部を取り戻そうとすると疲れるから」


その言葉に、ルーミアは小さく息を吸った。



色糸魔法を使わずに、こういう言葉が出てくる場所もある。


温度が残っている。

完全な希望ではない。

それでも、生きていけるだけの熱。


「……そう、ですよね」


ルーミアは、微笑んだ。


胸の奥で、何かが少しだけ和らいだ気がした。



編まなかった。

でも、何も失われていない。



この感覚を、まだ名前にはできない。


けれど確かに、残った温度として、彼女の中に留まり始めていた。


ミレアでの滞在は、思いのほか穏やかだった。


特別な出来事はない。

それでも、時間は確かに前へ進んでいる。


朝、川霧が薄く立ちこめる中で目を覚ます。

昼には簡素な食事を分け合う。

夕方になると、集落の人々は各々の家に戻っていく。


その流れの中に、ルーミアとノエルも自然に溶け込んでいた。



「これ、運ぶの手伝ってもらえる?」


声をかけてきたのは、川辺で洗濯をしていたあの女性だった。


籠の中には、濡れた布が詰め込まれている。

重そうだが無理な量ではない。


「はい」


ルーミアは即座に応じ、布を受け取った。


手に伝わる感触は冷たい。

けれど、絞られた布の繊維はしっかりしている。


「旅の人に頼むのも変だけどね」


女性はそう言って、少しだけ笑った。


「でもこの村、今は人手が少なくて」


「……皆、出ていったんですか」


「出ていった人もいるし、戻って来なかった人もいる」


言い方は淡々としていた。

悲嘆も、諦めも、強くはない。


「それでも、残った人でやってるよ。無理に引き止めても、色々と上手くいかないから」


色々と、という言葉に、ルーミアは小さく反応した。



視界の端で、女性と村人たちを繋ぐ色糸が揺れている。


細い。

だが、切れてはいない。


編めば、確かに少しは強くなるだろう。



だが、ここで繋がりを強めることが、本当に必要なのか。



ルーミアは、布を干す手を止めなかった。

糸に触れず、目の前の作業に集中する。


「……ありがとう」


布を受け取った女性は、素直に礼を言った。


それだけだった。

それ以上の期待も要求もない。


胸の奥が静かに温まる。

魔法を使わなくても、誰かの役に立てる。


その事実が、思っていた以上に心を軽くした。


昼過ぎ、集落の中央で小さな騒ぎが起きた。


子ども同士の言い争いだ。

些細なことーー

投げた石が当たった、先に使っていた、そんな理由。


泣き声が響き、大人たちが集まっていた。


色糸が乱れる。


赤に近い色が、一瞬強くなる。

怒りと焦り。


このまま放っておけば、こじれる可能性はあった。



ーー編む?


ルーミアは一歩踏み出しかけて、止まる。


代わりに、ノエルが前へ出た。


「順番を決めろ」


短い言葉だった。


「石を投げた方は謝れ。当てられた方は、謝ったら受け取れ」


大人たちが、はっとする。

子どもたちは不満そうだったが、やがて渋々従った。


涙は止まり騒ぎも収まる。


色糸は自然と落ち着いた。



ルーミアは、その様子を見つめていた。


「……今の、編まなくてよかった」


思わず、そう口に出す。


ノエルは、こちらを見ずに答える。


「必要なときもある。だけど、今じゃなかった」


その言葉に、不思議と納得がいった。


判断できた。

使わない、という選択を。


それだけで、胸の奥に小さな自信が芽生える。


夕方、川辺に座り、流れる水を眺める。

陽が傾き、水面が淡く染まる。


色はある。

薄いが、確かに。


「……全部を、戻さなくても」


言葉が、自然と零れた。


「生きていける場所も、あるんだね」


ノエルは、少しだけ考えてから答える。


「ええ。だからこそ、失われていく場所も目立つ」


その現実は消えない。



ルーミアは、胸元のペンダントに触れる。


色糸魔法を使わなかった一日。

それでも、何も失っていない。


むしろ、何かが確かに残っている。


それが何なのか、まだ言葉にはできない。


けれど、この温度を覚えていたいと、強く思った。


 ミレアを発つ朝は、静かだった。


川霧は前日よりも薄く、家々の輪郭がはっきりと見える。

集落は目覚めつつあったが、慌ただしさはない。


ルーミアは川辺に立ち、水面を眺めていた。


流れは変わらない。

昨日も、今日も、同じ速さで、同じ方向へ。



「……ここ、好きだな」


ぽつりと漏れた言葉に、自分で少し驚く。


ノエルは、荷をまとめながら振り返った。


「理由は?」


「……分からない。でも……安心する」


それは、嘘のない感覚だった。


何も劇的なことは起きていない。

救われた人も、大きく変わった関係もない。


それでも胸の奥には、確かな温度が残っている。



集落の女性が、見送りに来た。


「もう行くの?」


「はい」


「そう……」


短い沈黙のあと、彼女は微笑んだ。


「また来なさい、とは言わないよ。旅の人は、旅をしてる顔の方がいい」


その言葉に、ルーミアは小さく目を見開く。

「……分かります?」


「分かるさ。ずっとここにいる人の顔じゃない。でも、無理してる顔でもない」


その評価は嬉しいようで、少しだけ寂しかった。


「……ありがとうございます」


色糸は見えなかった。

けれど何かが、確かに繋がった気がした。


集落を離れ、街道へ戻る。


背後にあるミレアは、変わらないままそこにある。

色も、人も、ゆっくりと進行しながら。


「……残ったね」

歩き出してからルーミアが言った。


「何のこと?」


「温度」


ノエルは一瞬だけ考え、頷く。

「残る場所もある。だけど、それを保ち続けることはできない」



ルーミアは分かっていた。

ここに留まれば、やがてこの集落も色を失っていく。


人が減り、関係が薄れ、今日感じた温度も、少しずつ冷えていく。


それは避けられない流れだ。


「……それでも」


ルーミアは前を見たまま言う。


「何もできないわけじゃないって、分かった」


色糸魔法を使わなくても。

世界を変えなくても。


残るものは、確かにある。


ノエルは、歩幅を合わせる。


「だから、次に進める」


それは、励ましではなかった。

事実の確認だった。



ルーミアは、胸元のペンダントに触れる。


今日は、詠唱していない。

色糸にも、触れていない。


それでも、この一日は無駄ではなかった。


むしろーー

使わなかったからこそ、残った感覚がある。


「……まだ、答えは出ないけど」


「それでいい」


ノエルは即答した。

「答えが出たら、旅は終わる」


その言葉に、ルーミアは小さく笑った。


終わらせたくない。

この感覚も、迷いも、全部含めて。



街道は、先へ続いている。


色はまだ残っている。

薄くなりつつも、確かに。


ルーミアは歩きながら、その色を心に刻んだ。


すべてを救えなくても、温度は残る。

その事実を抱えて、この旅は、静かに次へと進んでいく。

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