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第10話 海の色が残るうちに

 港町セレスティアから半日の距離。

海沿いの道を進むと、潮風の匂いが少しだけ鋭くなる。


白波が砕ける音が近づき、やがて褐色のレンガ造りの家々が並ぶ町が見えてきた。


岬町グレイシア。


崖の先端に広がる、小さな海沿いの町だった。


潮に削られた外壁はどれも角が丸く、窓枠には白い塩の粉が薄くこびりついている。


干された洗濯物が風に揺れ、軒先の風鈴が乾いた音を立てていた。


「……静かだね」


ルーミアが呟く。


「観光地じゃないわね。生活の町」


ノエルは周囲を見渡しながら歩幅を合わせた。


警戒はしているが、緊張はしていない。

盗賊の気配も、荒んだ怒号もない。

ただ、穏やかな生活の匂いがある。



市場は小さい。漁から戻ったばかりの魚が並び、子供たちが走り回っている。

老婆が貝殻を紐で繋ぎ、土産物に仕立てていた。


その中に、一人の女性がいた。


褐色のレンガ壁を背に、白い布を干している。


薄い水色のワンピースに、日焼け止め代わりの肩掛け布。髪はゆるく束ねられ、潮風に揺れている。


その足元で、男の子がしゃがみ込み、砂に指で円を描いていた。


「ルカ、そこ踏まないの」


女性が笑う。

声は柔らかい。ちゃんと母親の声だ。


男の子は振り返り、両手を広げる。


「おかあさん、見て! 船!」


砂に描いた歪な線を指さす。

女性はしゃがみ込み、目線を合わせる。


「上手ね」


本当にそう思っている顔だった。


ルーミアは、足を止めた。


色糸が、見える。


女性の胸元から伸びる淡い橙色。

子供へと繋がる、愛情の温かい線。

少し細いが、確かに定着している。


(……きれい)


ほんの少しだけ薄い。だが、欠けてはいない。


「知り合い?」


ノエルが小声で問う。


「ううん」


ルーミアは首を振る。


「……でも、少しだけ」


「少しだけ?」


「薄い人がいる」


ノエルは女性を見た。


外見は普通だ。

笑い、叱り、子供の髪を直す。

どこにも異常はない。


「気にするほど?」


「……今のところはまだ、違います」


ルーミアは小さく言った。


まだ、違う。


糸は定着している。

浮いていない。擦れていない。


ただ、風が強いだけ。


「宿を取るわよ」


ノエルが歩き出す。


ルーミアはもう一度だけ、町の人からエレナと呼ばれているその女性を見た。


エレナはルカの額についた砂を指で払っている。


優しく。


自然に。


その仕草に嘘はない。


(……大丈夫)


そう思った。


海は青く、空も青い。


グレイシアは、穏やかだった。



夜、宿の窓から海を見たときも、町の灯りは暖色に揺れていた。


怒号も争いもない。

色糸は、どれもゆっくりと沈み、静かに定着している。



ルーミアは胸元に手を当てた。


疼きはない。


ただ、ほんの少しだけ、引っかかる。


(明日、もう一度見る)


それだけ決めて、目を閉じた。


まだ、この町は普通だった。


まだ。


海の色は、ちゃんと残っていた。


 翌朝、岬町グレイシアは昨日と変わらず穏やかだった。


潮の匂い。

漁に出る舟の軋む音。

干された網の隙間を抜ける光。


褐色のレンガは朝日に温められ、町全体が淡い橙色に染まっている。


「……昨日と同じだね」


ルーミアが小さく言う。


「当たり前でしょ。一晩で町は変わらない」


ノエルは淡々と答えるが、視線は周囲を丁寧に拾っていた。



市場に向かうと、昨日見かけた女性――エレナがいた。


今日は籠を抱えている。

隣には、ルカ。手を繋いで歩いている。


普通の光景。


昨日より少し、近くで見る。


ルーミアの視界に、色糸が浮かぶ。


――薄い。


昨日より、確実に。


エレナから伸びる橙色の糸が、風に擦れている。表面が毛羽立ち、所々が白くかすれている。


(え……削れてる)


まだ切れてはいない。

だが、定着が浅い。


「ルカ、走らないの」


エレナは、昨日と同じように笑う。


声も、顔も、仕草も、変わらない。


けれど。


ルーミアは、足を止めた。


エレナの背後に、もう一本の糸があるはずだった。


昨日は、確かに見えた。


子供へ向かう糸とは別に、町へ繋がる糸。

生活への糸。家へ戻る糸。


それが、今日は見えない。


「……ノエル」


「なに」


「少し、変」


ノエルはエレナを見る。


外見に異常はない。だが、ルカが手を引いたとき、エレナの反応が一瞬遅れた。


昨日と同じ場面なのに。


「おかあさん?」


ルカが顔を覗き込む。


エレナは、少しだけ首を傾げた。


「……え?」


声が、ほんの少しの間を挟む。


「魚、どれ買うの?」


ルカが指差す。


エレナはその方向を見る。

視線が、魚を通り越す。


「……ああ、そうね」


言葉は返る。


だが、選ぶまでに時間がかかる。


(……定着してない)


感情が、足場を持てていない。


ルーミアは、無意識に一歩前へ出た。


色糸に触れれば、まだ間に合うかもしれない。

軽く撚り直せば、深度を戻せる。


でも。


(……原因が分からない)


昨日まで普通だった。

なぜ、急に。


「ルーミア」


ノエルの低い声。


「今は、触らない」


ルーミアは唇を噛む。


市場の喧騒は続いている。

誰も気づかない。

エレナの遅れは、疲れにしか見えない。


ルカが魚を抱え、笑う。


「おかあさん、帰ろ!」


エレナは頷く。


「……うん」


手を繋ぐ。


その瞬間。

橙色の糸が、ふっと淡くなった。


消えたわけではない。

ただ、色が抜けた。


(……違う)


これは、薄いのではない。


定着していない、という表現が正しいように思えた。


糸が、沈まない。


地面に根を持たず、風に揺れている。


「ノエル」


ルーミアの声が、僅かに震える。


「これ……」


ノエルは、ルーミアの顔を見た。

その表情だけで、事態の重さを察する。


「……どの段階」


「まだ、切れてない」


「でも?」


「……戻らないかもしれない」


その言葉は、ほとんど吐息だった。


エレナは、ルカの手を引いて家の方へ歩いていく。


足取りは普通だ。


背筋も伸びている。


だが、糸は――


沈まない。


(ーーっ!)


ルーミアは、反射的に追いかけていた。


手遅れになる前に……。その気持ちで、すれ違いざま、相手に聞こえない程の声で静かに唱える。


(……色糸魔法(クロマ・ウィーブ)


即座に淡くなった色糸を編む。


編んだ、はずだった。


「……っ」


異変を感じ、ルーミアは振り向く。

以前変わらない、色糸の姿がそこにあった。


(定着……していない……)


定着不能者(ディスアンカー)……)


その言葉が、頭をよぎる。


完全に定着を失った者の呼称。


まだ、完全に至っているわけではない。

でも向かっている。


海は青い。


空も青い。


町も昨日と変わらない。


ただ一人。


ほんの少しだけ、何かがずれている。

そのずれが、致命的なものになる。


ルーミアは、目を離せなかった。


 夕方、グレイシアの空は金色に染まっていた。


海面が揺れ、褐色のレンガ壁に柔らかな光が落ちる。子どもたちの笑い声が、潮風に混じって流れていく。


昨日と同じ、穏やかな時間。


ルーミアは、エレナの家の前に立っていた。白い漆喰の壁に、青い扉。窓辺には干した洗濯物。何一つ、異常はない。


「……見届けるの?」


ノエルが静かに問う。


「……うん」


扉が開く。


エレナが、鍋を抱えて外へ出てきた。

隣家の老夫婦に、煮込みを分けるのだろう。

昨日と同じ、優しい笑顔。


だが、色糸がもうほとんど見えない。


橙色は、薄い膜のように漂っているだけだ。

地面に根を持たず、胸元でふわりと揺れている。


(……浅い)


ルーミアは、喉が乾くのを感じた。


「ありがとう、エレナさん」


隣家の老婆が言う。


「いつも助かるわ」


エレナは、微笑んだ。


「……ええ」


返事は、少し遅れる。


「おかあさん!」


家の中から、ルカが飛び出してくる。

転びかけ、エレナのスカートを掴む。


「危ないわよ」


昨日と同じ台詞。


同じ声。

同じ動き。


けれど、ルカが顔を見上げたとき、エレナの瞳がより空虚だった。


焦点が合っていない。


「……おかあさん?」


ルカの声が、不安に揺れる。


エレナは、瞬きを一つして、視線を合わせた。


「どうしたの?」


何事もなかったように言う。


色糸が沈まない。

沈まず漂う。

漂って薄れていく。


ルーミアは、編む


「……今なら」


指先が震えてしまう。


今なら、触れて撚り直せば。きっと、少しは深くなるかもしれない。


(でも……原因が分からない)



ただ日常の中で、静かに削れていく。


「ルーミア」


ノエルの声は低い。


止めるためではない。

覚悟を問う声だ。


「……まだ」


ルーミアは、指を下ろす。


「まだ、切れてない」


ルカが、エレナの手を強く引いた。


「おかあさん、ねえ!」


エレナは、引かれた腕を見る。

視線が、自分の手元に移る。


「……」




「……あなた、誰?」


ルカの顔から、血の気が引く。


「……え?」


エレナは、困ったように首を傾げる。


「……ごめんなさい。知ってる気がするけど」


その声に、悪意はない。


混乱もしているわけじゃない。


ルカの小さな手が、震える。


「おかあさんだよ……」


エレナは、じっと見つめる。


何も掴めない顔で。


「……ごめんなさい」


その一言で、色糸が音もなく消えた。


切れたのではなく、消えてしまったのだ。


ルーミアの視界から完全に。


橙色は、もうない。

そこにあるのは、白い、何も定着していない空間。


「……っ」


ルーミアの喉から、息が漏れる。


周囲の大人たちは、遅れて異変に気づく。


「エレナ?」


「どうしたんだ?」


「大丈夫かい?」


エレナは、穏やかに笑う。


「大丈夫です」


本当に、穏やかに。


「ただ、少し……思い出せなくて」


その声は、落ち着いている。


泣かない。

取り乱さない。

助けも求めない。


ルカが、声を上げる。


「やだ……やだよ……」


その小さな泣き声が、夕焼けに溶ける。


エレナは、困った顔で周囲を見る。


「……この子は?」


誰かが息を呑む。


誰かが口を押さえる。


誰も、何もできない。


ルーミアの足が、動かない。


(……間に合わなかった)


編む以前の問題だった。


もう、定着する場所がない。


糸がない。


触れるものが、ない。


エレナは、ただ立っている。


自分の家の前で。

自分の子の前で。


他人のように。


海は青い。


夕日は赤い。


レンガは温かい。


世界は、何も変わっていない。

ただ一人の色の違いを除いて。


「人に忘れられるってのは、一番怖いです……」


ルーミアは、呟く。そしてゆっくりと目を閉じた。


(……これが)


定着不能者(ディスアンカー)なんだ……)


感情が消されていく。

感情が結びついていたものも静かに消していく。


誰が何かをしたわけでもない。


静かな残酷さは、叫びもなく、ただそこにあった。


そして、誰にも救えなかった。

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