第9話 届くはずの翼
港町セレスティア。白壁の倉庫と帆柱が並ぶ、潮風の強い町。魚を干す網が揺れ、波止場には小舟がいくつも繋がれている。
争いは、もう収まっていた。
漁師同士の怒声は消え、代わりに波の音が戻っている。
ルーミアは、桟橋の先に立っていた。胸元の銀鎖が、風に揺れる。
「……今日は、来るかな」
空を見上げる。
ノエルは倉庫の壁に寄りかかり、腕を組んだ。
「最近、遅いわね」
色観からの依頼は、鳥で届く。
白灰色の羽を持つ小型の伝書鳥。
脚には細い筒が括り付けられている。
封蝋には、世界色相観測院の紋章。
最初の頃は、頻繁に来ていた。
町を移るたびに、まるで追いかけてくるように。
だが――。
「……三日、空いてる」
ルーミアは、小さく言った。
その時、遠くに影が見えた。
「来た」
ノエルが、空を指す。
白い鳥が、風を切って降りてくる。
一直線に、ルーミアの前へ。
「おかえり」
ルーミアは腕を差し出す。
鳥は慣れた様子で止まり、脚を差し出した。
小さな筒。
封蝋は、確かに色観のもの。
ルーミアは慎重に開く。
中の紙は――短い。
♦︎♦︎♦︎
観測優先区域への人員集中に伴い、
現地介入依頼は一時縮小する。
軽度褪色は経過観察対象とすること。
――世界色相観測院
♦︎♦︎♦︎
ルーミアは、黙った。
「……何て?」
ノエルが問う。
「軽度は様子見、だって」
潮風が強く吹いた。
軽度。
今日の港は、軽度に分類されるのだろう。
「助けなくていい、とは書いてない」
ルーミアは言う。
「でも、優先じゃない」
ノエルの声は、静かだった。
ルーミアはもう一度、紙を見る。
以前は違った。
至急対応願う
状況悪化予測あり
感情定着阻害進行
そう書かれていた。
今は、違う。
“観測”。
“経過”。
“縮小”。
鳥は、もう一声も鳴かず、翼を広げた。
ルーミアの腕を離れ、空へ戻っていく。
白い点が、やがて見えなくなる。
「……追ってこなくなったね」
ルーミアが、ぽつりと言う。
ノエルは視線を空に残したまま答える。
「忙しいんでしょうよ」
「うん」
それは、責める言い方ではなかった。
ただの事実。
色観は世界規模の組織だ。
褪色は、ここだけではない。
「ねえ、ノエル」
「なに?」
「依頼が来なくなったら」
少し間を置いて、
「私、動いちゃだめ?」
ノエルは、すぐには答えなかった。
潮が満ちる音。
遠くで子どもの笑い声。
「依頼のために編んでるの?」
「ううん」
「なら、答えは出てる」
ルーミアは、紙を折り畳んだ。
「観測優先、か。私は、観測される側じゃないのにね」
ノエルは、小さく笑った。
「なら、あんたは何?」
ルーミアは、港の人々を見た。
色糸が、まだ薄く揺れている。
「……私は、編む人」
それは宣言ではない。
ただの確認。
鳥はもう来ないかもしれない。
来ても、短い。
でも。
色は、目の前にある。
ルーミアは、町へ歩き出した。
依頼が減っていく気配は、確かにそこにあった。
だが同時に、彼女の判断で動く物語が、ここから始まる。
この港町セレスティアの午後は、静かだった。
潮が引き、岩肌が露わになる。
海鳥の鳴き声だけが高く響く。
ルーミアは倉庫裏の木箱に腰を下ろし、先ほどの文書をもう一度開いた。
紙質は上等。
筆跡も整っている。
だが、どこか“冷たい”。
「観測優先区域への人員集中……か」
ノエルは横で腕を組む。
「人手が足りないんでしょうね。世界規模なんでしょ、あそこ」
「うん」
否定はしない。
色観は無能ではない。
巨大で、世界的に信頼されている。
だが――巨大であるがゆえに、遅い。
「ねえ、ノエル」
「なに」
「軽度って、どこまでなんだろ」
港の奥では、さっき仲裁した漁師たちがぎこちなく網を直している。
怒りの糸は薄れたが、完全に定着していない。
再燃する可能性はある。
「今日のあれは、軽度?」
ノエルは少し考える。
「死者が出てない。刃も抜いてない。なら、軽度扱いでしょうね」
「……そっか」
ルーミアは、胸元に触れる。
色糸は見える。
だが、編むほどではない。
判断は、確かに難しい。
「依頼が来なくなったら、どうするの?」
ノエルが逆に問う。
「……来なくなると思う?」
「今日の文面は、そういう流れよ」
ルーミアは黙った。
依頼は追ってくるものだった。
鳥は迷わず彼女を見つけた。
だが今は、優先外。
「観測って、なに」
「見るだけ」
「助けないで?」
「……場合による」
風が強くなり、紙がはためく。
ルーミアはそれを押さえながら、小さく笑った。
「私、観測される側なんだね」
「特異点じゃん、あんた」
ノエルの言い方は軽いが、意味は重い。
色糸を見て、編めるのはルーミアだけ。
研究材料は彼女一人。
「……研究は進んでるのかな」
「進んでる“はず”よ」
“はず”。その言葉が、やけに引っかかる。
ルーミアは紙を丁寧に折り、懐にしまった。
「依頼が減っても、色は減らないよね」
「ええ」
「なら、私は見る」
それは、静かな決意だった。
命令ではない。選択。
遠くで、別の鳥が飛び立つ。
だがそれは、ただの海鳥だ。
依頼の鳥は、もう空にいない。
夜。港町は早く眠る。
波止場の灯りだけが揺れている。
ルーミアは宿の窓を開け、空を見上げた。
星は少ない。
雲が流れている。
「……来ないね」
ぽつりと呟く。
ノエルはベッドに腰かけたまま答える。
「今日二通目を期待するのは欲張りよ」
「うん。でも、前は来てた」
町を移るたび。
時には同じ日に二度。
急報。
追加情報。
危険予測。
まるで、彼女を追うように。
今は違う。
「依頼が減るのは、悪いこと?」
ノエルが問い返す。
「……分かんない」
ルーミアは正直に言う。
「助けなくていいなら、それはいいこと。でも」
「でも?」
「軽度だから後回しって、言われると」
言葉を探す。
「色は、軽くないのに」
ノエルは黙る。
その通りだ。
感情に軽重はない。
あるのは、被害規模だけ。
「もし、依頼が完全に来なくなったら」
ルーミアは続ける。
「私たち、どうなるんだろ」
「どうもならないわ」
ノエルは即答する。
「依頼で旅してるわけじゃない」
「……うん」
「依頼は“理由”の一つだっただけ」
窓から夜風が入り、カーテンを揺らす。
「色観は、世界全体を見る組織よ」
ノエルは淡々と言う。
「あんたは、目の前を見る人」
その差は、決して小さくない。
ルーミアは空を見続ける。
もし今、鳥が飛んできたら。
もし封筒が落ちてきたら。
だが、来ない。
「……ねえ、ノエル」
「なに」
「依頼がなくなっても、私は編んでいい?」
ノエルは少しだけ目を細めた。
「依頼のために編むの?」
「違う」
「なら、答えは決まってる」
ルーミアは、ゆっくりと窓を閉めた。
この夜を境に、依頼は目に見えて減っていく。
鳥は来る。
だが短い。
事務的。観測報告のみ。
やがてーー間が空く。
そして、ある日。
来なくなる。
その予兆は、もう始まっていた。
だがルーミアは、まだ知らない。
依頼が消えたあとに始まる旅のほうが、ずっと重いということを。
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