第8話 選ばれなかった色
ヴァルダを離れてから、二日は雨だった。
空から落ちる水は色を持たず、地面に触れても、景色を変えない。
街道沿いの村々は、雨に濡れてもなお、乾いたままの顔をしていた。
「……この辺り、静かすぎる」
ノエルが、歩調を落として言った。
人はいる。
家も、畑も、道もある。
だが、感情の動きが見えない。
怒りも、祈りも、浮き上がる前に沈められたような空気。
ルーミアは、何も言わずに周囲を見る。
糸はある。
だが、どれも細く、短い。
まるでーー
最初から伸びることを諦めているかのように。
村の外れに小さな祠があった。
風雨に晒され、屋根は傾き、供え物は置かれていない。
それでも、祠の前には人がいた。
老婆だ。
背中を丸め、地面に座り込み、動かない。
「……生きてるわね」
ノエルが低く言う。
近づくと、老婆は顔を上げた。
目は澄んでいる。
だが、そこに期待はない。
「……色糸の子かい」
問いではない。
確認だった。
ルーミアは頷く。
名は名乗らない。
老婆の背後から伸びる糸は、ほとんど無色だった。
完全に消えてはいない。
だが、色と呼ぶには、あまりにも薄い。
「……編めるなら、編んでおくれ」
声は穏やかだった。
「もう、長くないんだ」
その言葉に糸は反応しなかった。
ノエルが一歩前に出る。
「……それは、編んでどうにかなる類の話じゃない」
老婆は静かに笑った。
「分かっとるよ」
視線を祠に向ける。
「でもね……このまま死ぬと、何も選ばなかったままになる」
ルーミアの胸が疼く。
選ばない、という選択。
それは、以前自分がしたこと。
「……何を、選びたいんですか」
言葉は自然に出た。
老婆は、少し考えてから答える。
「色を」
不思議な答えだった。
「戻らなくていい。強くなくていい。……選んだ色で、死にたい」
その瞬間、糸が揺れた。
色がーー生まれかけている。
ノエルがルーミアを見る。
その視線には、はっきりとした警戒があった。
「……これは」
「ええ」
ノエルは静かに言う。
「編めば、確実に“効く”」
そして、少しだけ声を落とす。
「でも……今のあんたが触れたら、何が削れるか分からない」
ルーミアは老婆を見る。
生まれかけの色。
選ばれようとしている感情。
それは怒りでも、祈りでもない。
意志だ。
「……」
喉の奥に、詠唱の言葉が静かに浮かぶ。
色糸魔法。
前は止められた。
編まずに、世界が動いた。
だが今回は、編まなければ何も動かない。
選ばれないまま色は消える。
ルーミアは、初めてはっきりと自覚した。
ーー編まないことも、
ーー誰かの“選択”を奪う。
その事実が、胸の奥で重く鳴る。
「……ノエル」
静かに言う。
「今回は……止めないでください」
それは、拒否ではない。
懇願でもない。
覚悟の共有だった。
ノエルは、長く息を吐いた。
剣の柄に触れ、それから手を離す。
「……そばにいる」
それだけを言った。
老婆は目を閉じた。
「……頼むよ」
雨音が祠を打つ。
色を持たない世界で、選ばれなかった色が選ばれようとしている。
ルーミアは、一歩前に出た。
雨音が、一定の間隔で祠を叩いていた。
強くもなく、弱くもない。
まるで、時間を刻むためだけに降っているような雨。
老婆は、目を閉じたまま動かない。
逃げる気も、すがる気もない。
ただ、待っている。
ーー選ばれるのを。
ルーミアは、祠の前に立った。
視界の端で、ノエルが息を詰めるのが分かる。
剣には触れない。
だが、いつでも動ける距離にいる。
「……」
喉が、ひどく乾いていた。
これまで何度も詠唱してきた。
迷いながら、拒まれながら、削れながら。
それでも今回は、違う。
救うためではない。
戻すためでもない。
選ばせるためだ。
ルーミアは、深く息を吸った。
「──色糸魔法」
言葉が落ちた瞬間、空間がほんの少し静かに歪んだ。
強い反発はない。
引きずられる感覚もない。
代わりに、胸の奥が空いていく。
音もなく、何かが抜け落ちる。
老婆の背後で、糸がはっきりと姿を現した。
淡い色。
赤でも、青でも、黄でもない。
例えるなら、朝焼けの前の空の色。
まだ名を持たない色。
「……きれいだね」
老婆が、目を閉じたまま言った。
見えているはずはない。
だが、分かっている声だった。
ルーミアは布を広げる。
糸は抵抗していない。
むしろ、自ら進んで布に触れようとする。
一針、入れる。
その瞬間ルーミアの中で、何かがーー剥がれた。
痛みは、ない。
だが、確実に重みが消えた。
「……っ」
ノエルが思わず声を漏らす。
「……今の……」
異変に、彼女だけが気づいた。
ルーミアの表情が、変わらない。
苦しんでいない。
倒れもしない。
それが、一番怖い。
二針目。
三針目。
糸は、布に定着していく。
色は濃くならない。
代わりに、意味を持ち始める。
「……私はね」
老婆が、静かに語り始めた。
「昔、絵を描いていたんだよ」
ノエルが息を呑む。
ルーミアは手を止めない。
「色を選ぶのが、好きだった。赤か、青か、それとも別の色か……迷う時間が、一番楽しかった」
声に、悔いはない。
「戦争が始まって、そんなことは無意味になった」
糸が、わずかに揺れる。
「生きるか、死ぬか。選択肢は、それだけになった」
四針目。
五針目。
ルーミアの胸の奥が、さらに軽くなる。
ーー軽すぎる。
「だからね」
老婆は微笑んだ。
「最後にもう一度だけ、色を選びたかった」
その言葉と同時に、糸が、布に完全に馴染んだ。
完成だ。
その瞬間、雨音が遠くなる。
ルーミアの視界が、少しだけぼやけた。
世界が遠ざかるのではない。
自分が、こちら側から薄くなる。
「……ルーミア」
ノエルが名を呼ぶ。
返事をしようとして言葉が出ない。
代わりに胸の奥を探る。
恐怖。
後悔。
達成感。
ーーどれもない。
空白ではない。
だが、感情の層が一枚、剥がれている。
「……大丈夫?」
ノエルの声が震えている。
ルーミアは、少し考えてから頷いた。
「……はい」
嘘ではない。
倒れていない。
意識もある。
動ける。
それでもーー何を失ったのかが、分からない。
……きっと大丈夫。いつものこと。
老婆がゆっくりと目を開けた。
「……ありがとう」
その一言に、糸はもう反応しない。
選択は終わった。
老婆は、穏やかな顔で祠にもたれかかる。
眠るように。
ノエルは、ルーミアの肩を掴む。
強くはない。
だが、離さない。
「……これ以上は、今日はやらないで」
命令ではない。
懇願に近い声だった。
ルーミアは、ゆっくりと頷いた。
抵抗はなかった。
雨は、まだ降っている。
色を持たない雨が、選ばれた色の上を、静かに流していく。
雨は、いつの間にか弱まっていた。
祠の屋根を打つ音は途切れ途切れになり、やがて、空気の中に湿り気だけが残る。
老婆は、祠にもたれたまま動かない。
眠っているように見える。
呼吸も、かすかだ。
だが、その背後にあった糸は、もう揺れていなかった。
色は、布の中にある。
完全にそこへ移った。
「……終わったんだね」
ノエルが低く言う。
確認でも、評価でもない。
ただの事実確認。
ルーミアは頷いた。
編み終えた布を、そっと畳む。
その手つきは丁寧だった。
だがーーそこに感慨はない。
胸の奥を探る。
達成感。
後悔。
安堵。
どれもなにか違う。
「……私」
言いかけて止まる。
言葉を探す。
だが、探している感覚そのものが薄い。
「……何か……」
何かを、失った。
それは確かだ。
でも、それが何なのかーー
分からないことが、分からない。
「……言葉にしなくていい」
ノエルが言った。
優しい声ではない。
だが、逃がす声でもない。
「今は、無理よ」
ルーミアは、ゆっくりと息を吐いた。
無理、という言葉が理解として入ってくる。
「……はい」
それだけ答えた。
老婆が小さく身じろぎした。
ノエルがすぐに駆け寄り、様子を見る。
「……生きてる」
短く、確かな声。
老婆は目を開けない。
だが、表情は穏やかだった。
選択を終えた人間の顔だ。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉でもない声が、微かに漏れる。
それきり、老婆は眠りに戻った。
きっともう何も求めていない。
二人は、祠を離れた。
振り返らない。
そこにあるのは、救いでも悲劇でもない。
完了だ。
街道に戻ると、雲の切れ間から薄い光が差していた。
色が戻ったわけではない。
だが、時間が進んだことは分かる。
「……これ以上、続けられる?」
ノエルが歩きながら聞く。
責める調子ではない。
だが、逃げ場もない問いだった。
ルーミアは、少し考えた。
考える、という行為自体が、以前よりも遅い。
「……続けられます」
即答ではなかった。
「でも……」
言葉が、続く。
「……前より……分からないことが、増えました」
ノエルは歩みを止めなかった。
「それが普通よ」
視線を変えないまま、静かな声。
「何かを選ぶっていうのは、そういうことよ」
「きっと」
しばらく、沈黙が続く。
風が、濡れた地面を撫でる音だけがある。
「……ノエル」
「なに?」
「……もし」
言葉を選ぶ。
「……私が……もう、何も感じなくなったら……」
ノエルは足を止めた。
振り返り、ルーミアを見る。
その目は、逸らさない。逸らしちゃ、いけない。
「……その時は」
一拍、間を置く。
「私が止める……止めるから。」
それは約束ではない。
覚悟でもない。
境界線を引く言葉だった。
ルーミアは、その言葉を聞いて、初めて胸の奥がわずかに動いた。
安心ではない。
喜びでもない。
だがーー拒絶ではなかった。
「……はい」
その言葉に、今できる限りの気持ちを乗せた。
二人は、また歩き出す。
選ばれなかった色は、確かに存在した。
そして、選ばれた色はもう戻らない。
ルーミアは、布の感触を思い出す。
そこに編まれた色は、誰のものでもない。
それでも、確かに“選ばれた”証だ。
それを胸に、彼女は進む。
分からないまま。薄くなったまま。それでも、まだ、歩いている。
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