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カザンディビ31歳、夏。~毒か薬か~

「初めて見る顔ですね」


 小さな驚きを孕んで祖父が見つめる先は、東国の“王子”。()はひと頃の不真面目な態度から一転、助手仲間と陽気に語り合ったり、教育係から命じられた写本に精を出したり、時おり心ここに在らずといったふうに惚けることもありつつも、少しずつ医務局に馴染んできた。


「助手として入局したのですが、つい先日まで余り熱心ではありませんでしたので、ご記憶に無いのでしょう」


 貧民街の病人が感染性の病気ではなく毒麦によるものである可能性が高いという報せがあり、治療薬の調合を知る、表向きは唯一の存在であったこの老人は、()()()()快く引き受けた事になっている。が、実際のところは、症例の少ない毒麦病の患者が大量発生したのをサンプル集めの好機とみたのだろうと、容易に想像がついた。

 とはいえ。毒麦の薬は想像以上の効き目があり、多数の命が救われ、毒麦を持ち込んだ人間についての多くの証言も集まったのは事実。功労者に違いない彼を無碍に扱うわけにもいかず、また、局員の職務放棄という負い目もあってこれ以上の失態を避けたい医務局長の下心も加わり、祖父は医務局への自由な出入りを許されている。


「ああ、カザンディビさんは“助手”と呼ぶのですね、“被験者(サブジェクト)”ではなく」


「――――――!!!」


 お茶を飲む手つきも声も変わらず穏やかなまま。けれど、被験者を見つめる眼差しは爛々と輝き生気に溢れ、弾む心を抑えがたいといわんばかりの笑顔が浮かぶ。傍からはきっと、孫の成長を喜ぶ祖父、程度に見えているだろう。彼が浮かべるのは善心からの発露であるかのように、それほどに邪心のない笑みなのだ。



 前侍医局長、スュトラッチ元侯爵。



 患者に対して最期まで真摯に向き合い、決して諦めない、伝説の名医。



 けれど、それは表向きの顔でしかない。彼の趣味は消えゆく命を救うことではなく、病や薬物が人間に及ぼす作用を観察すること。だから、死に至るその瞬間まで治療を諦めず、寧ろ嬉々として弱った体に新たな薬を盛っては経過を見守る。だからこそ、知識も技術も他の誰よりも豊富なのだ。


「記録は、きちんと取ってありますね?」


「は、はい」


「保管場所は?」


「ここではメモを取る程度で、あとは邸の自室に」


「宜しい」


 それから祖父は他の医務局員に指導しつつ“王子”の様子を窺い、その穏やかで人好きする笑顔と声音で皆の信頼を勝ち取り、少しずつ少しずつ、被験者に近づいていった。人心を掌握するその巧みな手腕は伝説の名医に相応しいもので、幼き頃に起きたあの事件さえなければもっと早くからこの人に教えを請うことが出来たのだと、悔やまれた。それほど祖父は被験者に対して、熱心だった。



 それはまるで、彼が息子に向けるものと同じくらいに。



 *****


「なるほど。これがその経過ですか」


 王都邸の、嫡男の為の部屋。黒々と光る重厚な机は上から2番の抽斗が譲り受けた時には既に二重底に加工してあった。そこに仕舞った経過観察の記録をなぞる程に、祖父の眼が童子のように輝いていく。


「はい。1日の摂取上限量をこのように定め、少量ずつ複数回にわたり投与しています」


「ふむ、実に興味深い。特にこの、表層人格が好転したとする効果が」


 顔を合わせれば「もっと高尚な役割を与えろ」「下賤な連中を遠ざけろ」「弟からの連絡はないのか」などと不平不満を露わにしていた人間が、『天の審判』を服用させた後は、陽気で口数も多くなり、見下していた他の助手とも積極的に話し掛けるようになった。写本の作業を命じれば、一日中座って書き続けることも苦ではないようで、出来栄えはともかく、邪魔をすることはもうすっかり無くなった。


「疲労も感じにくくなるようで、組織にとって好ましい人間を作り上げることも可能かと」


 疲れ知らずで集中して働き続けられる人材。それは文官でも武官でも望ましいが、こと、軍人ならば。不眠不休で戦う人間を、欲しない国など、あるだろうか。


「ええ、素晴らしい成果です。しかし」


 そう言うと、祖父はにこりと笑んだ。


「これ以上は、貴方は手を引いた方が良さそうです」


「何故です?!これは、この薬は未だ嘗て無いもので」

「だからですよ」


 感情に任せた大声にも動じることなく、祖父はやはり笑みを浮かべたままで。


「自身の感情や力が制御ができぬと、言っていましたね」


 祖父の言葉に、心臓がギュッと縮んだ。

 そうだ。陽気になったのは事実だが、のべつ幕無しに喋り倒したり、写本の仕事も文字にならぬ文字を書き続けることが、あった。先だっては競馬場で未婚のご令嬢をただ払い除ける積もりだったのが勢い余ってしまい、傷を負わせたとも言っていた。


「お解りでしょうが。毒も少量ならば薬となり、薬も過ぎれば毒となります」


「けれど!」


 尚も食い下がると、祖父は、観察記録を再び二重底の下に収め、抽斗を仕舞った。


「私は一度も、研究を止めろとは、言っていませんよ」



 ―完全に制御が効かなくなる前に、この薬を他の誰かに渡せばいい。



 ―治療の名目ならば、誰にも気を遣うことなく、より深い研究もできる。



 それはあまりにも人道に外れた、あまりにも魅力的すぎる提案だった。


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