フルン26歳、夏。~噂の人物〜
「聖人は已病を治すのではなく、未病を治す。」
優れた医者は発症した病気を治すのではなく、発病前の病気を治す。のだと、古い書にある。
「上医は国を医し、中医は人を医し、下医は病を医す。」
最も優れた医者は国全体を癒やし、優れた医者は人を身体的・精神的など総合的に癒やし、一般の医者は病気のみを治す。のだとも、古い書にある。
それが真なら、医者とは、代々続く医家であるスュトラッチの人間とは、先んじて病の起こることを知って適切に対処できる神懸かった存在でいなければならないと思っていた。けれど成長するに連れて、偉大なるスュトラッチ家にも、この世の何処にも、優れた医者など居ないと絶望し、逃げるように家を出た。
それが今になって。
聖人は、上医は、ちゃんと現れて、多くの人々に知られぬままに世界を救っているのだ。
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「あ、これです。この“T”みたいなのは“下”の字で、その下の棒みたいなのが“し”なので、えっと…、“胎毒下し”ですね」
帽子を深く被ったヘルゲート様と、モブキャップと眼鏡で顔を隠したマドレーヌと、それからぼくと。乾いた音がする古い本をカサカサ捲って覗き込む。
「あぁ、ほんとうだ。以降の版では文字が消えているから、写本の際に書き漏らしたかしたんだろうね」
「そうみたいですね。ええと、胎毒の説明は…、このページですね」
「ああ、これならすぐに王国語に直せそうだよ。はい」
「これは…。ううん、これまで胎毒というと“母体由来の致死毒”と推測されて来ましたが、どうも、この書に拠れば、少し意味合いが異なるようです」
王立植物園で発見した「フキ」という毒草について、家に伝わる古い書物を確認したいと兄に文を出せば、その数刻後に返事とともに迎えの馬車も寄越して来た。これまで長く兄弟として生きてまったく知らなかったが、兄カザンディビは随分とせっかちで過保護な性格であったらしい。
「どれどれ。おお、なるほど。これを見るに、生後間もない赤子の皮膚疾患や嘔吐症などを総じて胎毒と呼ぶように、読めますね。ふむ」
「文字と判別出来なかったにしろ、思い込みによって元の文意と大きく改変するなんて研究者を名乗る資格はないね。命を持って償うべきだ」
「気持ちはわかるけど落ち着いてねー。ずっとずっと昔のご先祖さまだと思うのー」
スュトラッチ家の王都邸の、厳重に管理された図書室。ここに、父以外の血縁者が揃っている事実が、いまいち実感として湧かないのは、この家でのぼくの生きた証みたいなのが希薄だからだろうか。
「では、昨日のフキは研究用に頂戴しても?」
「はい。アク抜きは済ませていますから、野菜と同じように調理していただければ」
「まさか…食べる、の、ですか?」
ちゃんと処理すれば安全だと判明したけれど、それでも今まで毒草だと思っていた植物だけに、思考の切り替えがうまく行かないらしい。珍しいことに、常に冷静で常に温厚な医師として有名な兄の頬がぴくぴく引き攣っている。
「そういえば、どんな料理にする予定だったか聞いてなかったね」
「茎は、鶏肉を詰めてスープで煮込もうかなって。またはざく切りにして塩きんぴら。葉っぱは餃子の種を乗っけて焼いてもいいけど、刻んでピザとかにも使えるソースにするかな」
「え、おいしそう」
「いいね。今晩はそれにしよう」
「いやいや。研究用に提供するんだってば」
「ふむスープ煮ですか。年を取るとスープの有り難みが増しますね」
「おじい様まで?えっと、じゃあ、ちょっと食べてみます??」
ヘルゲート様が居なくなって、否、恐らくはそれ以前から崩壊していた“家族”が、長い長い時を経て、歪ながらもそれなりの形を取っている。まるで“普通”の家族のように。いや、これではまるで、普通よりもずっと仲の良い、絵物語の中にしか存在しないと思っていた、“温かな”家族だ。黒々とした思い出ばかりが染み付いた生家で、今、夢にも見ることの出来なかった穏やかな時間に、くらくら目眩のするくらい酔いしれているのだ。
「フルン」
親子3代が夕食の相談をしているのを見計らって兄がそっと耳打ちした内容は、1つはスヴァさんが王都に来た理由と同じで。もう1つは更に耐え難い、ぼくら皆の大切なお姫様に関することで。
「ふうん」
嗚呼、この広い世の中に、賢しらに偉ぶった馬鹿ほど鼻持ちならない人間が居るだろうか。ただの馬鹿ならばよくよく言って聞かせて、助けてやることだって出来る。けれど、己の馬鹿さ加減を隠すために賢ぶった口調で出鱈目を並べ立て、人を不安や恐怖に陥れるような偉ぶった馬鹿だけは、まったく救いがたい。
「ねえ、兄さん。治療の施しようがない患者を苦しみから救ってあげるのも、医家の仕事と言えるのかな」




